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内容
「画架の前の自画像」
1888年の初め頃
(ヨハンナが晩年のゴッホの面影をもっとも残しているといっている自画像。書簡集の口絵でも、数多い自画像の中からとくに選ばれてこの絵が使われている)
フィンセント(14歳)
- 誕生、少年時代
- ハーグ (1869年7月(16歳)~1873年5月(20歳))
- ロンドン (1873年5月(20歳)~1874年10月(21歳)、
パリ (1874年10月~1874年12月)、
ロンドン (1875年1月(21歳~1875年5月(22歳)) - パリ (1875年5月~1876年3月(22歳))
- 再び、イギリス(1876年4月(23歳)~1876年12月(23歳))
- ドルドレヒト(1877年1月~1877年4月(24歳))
- アムステルダム(1877年5月(24歳)~1878年7月(25歳))
- エッテンーブリュッセル(1878年7月~1878年11月(25歳))
- ボリナージュ(1878年12月(25歳)~1880年9月(27歳))
- ブリュッセル (1880年10月(27歳)~1881年3月(27歳))
- エッテン (1881年4月(28歳)~1881年12月(28歳))
- 再び、ハーグ (1881年12月(28歳)~1883年9月(29歳))
- ドレンテ (1883年9月(30歳)~1883年12月(30歳))
- ヌエネン (1883年12月(30歳)~1885年10月(32歳))
- アントワープ(1885年11月(32歳)~1886年2月(32歳))
- 印象派
- 再び、パリ (1886年3月(33歳)~1888年2月(34歳))
- アルル 1888年2月(34歳)~1888年12月(35歳)
- アルル (1888年12月~1888年12月)、耳切事件(1888年12月)
- サン・レミ (1889年5月~1890年5月)
- オーヴェル・シェル・オワーズ(1890年5月~1889年7月)
- 自殺
- ヤスパースの非てんかん説
- 進行性麻痺説
- ガストーのてんかん説
- 「人影の少ない寂寥たる環境」における情報不足
- 出世時障害?
- アブサン
- アブサンとクリーゼ
- 疑わしきアブサン中毒
- てんかん発作による双極性障害の軽快?
- 病気と絵画
- 墓標の飾り木
- 参考図書・文献
「ゴッホは人影の少ない寂寥たる環境の中で青春を歩きださざるをえなかったひとであり、驚嘆すべきことは生涯そうであったことである。この寂しさに耐えうるのにかれの37年間の生涯は長すぎるほどであり、あるいは人間としてぎりぎりの限界であるかもしれない…….かれは人生というのは苛烈だという意味のことを手紙に書いているが、人生はほとんどの人々にとって慣用句にあるほどに苛烈ではなく、どの人間も分際に応じて適当に愛され適当に嫌われ適当にずるっこけて甘えて暮らしていてそして歌の文句のようにツライといっているにすぎないが、ゴッホの場合は正真正銘にかれにとっての人生はどうにもならなかった」
(司馬遼太郎 「ゴッホの天才性」)
「かれのなかにはまるで二人の人間がいるみたいだ。一人は驚くべき才能に恵まれた、優しい、繊細な心の持ち主、もう1人は利己的な、無情な人間…….。二人はいつでも正反対の議論をしあっている。気の毒に、かれはかれ自身の敵なのだ」
(テオ・ファン・ゴッホ)
「本来ファン・ゴッホはキリスト、聖人、天使を描こうとしたのであったが、この主題が彼を余りに昂奮させたので失敗し、もっとも単純な対象を主題とするに到った。しかしその宗教的衝動はこれらの対象の構成の裡に、かれの書簡に表明されて居る制作動機を全然知らなくても、感じられる。
(カール・ヤスパース著 村上仁訳「ストリングベルグとフアン・ゴッホ」)
「「このごろのように自然が美しいと、ときどきぼくの頭はものすごく澄み透って、もはや自分で自分を感じず、絵が夢の中のようにやってくる」
(フィンセント・ファン・ゴッホ)
シーザーの次は、これまた、シーザーとは対照的な画家、フィンセント・ファン・ゴッホです。
ゴッホが「完全無欠の俗物」シーザーとどれほど違っていたかは、司馬遼太郎の文章からもご了解いただけると思います。司馬遼太郎のいう「どうにもならなかった」ゴッホの37年間の生涯が始まったのは1853年3月30日、19世紀のちょうど半ばです。1821年生まれのドストエフスキーより32歳若いことになります。
ゴッホの弟テオの妻、ヨハンナによると、ファン・ゴッホ家には宗教関係の人間が多かったようです(「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出」---かれの義妹による---」ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル「ファン・ゴッホ書簡全集」 二見史郎訳 みすず書房)。ゴッホと同名の祖父も牧師でした。しかし、その長男は海軍将校に、あとの3人は画商になり、ファン・ゴッホ家の伝統を継いで聖職者となったのはゴッホの父親、(テオ)ドルス・ファン・ゴッホだけでした。

フィンセントの父親
テオドルス・ファン・ゴッホ
ドルスはすばらしい美男子でした。しかし、牧師としての評価は容貌とあまり比例しなかったようで、赴任地はズンデルト、ヘルフォイルト、ヌエネンといったオランダの小さな村ばかりでした。29歳のときドルスは兄(フィン)セントの妻の姉、アンナと結婚します。このゴッホの母親は父親ドルスより2歳年上で、ときどき癇癪を爆発させるものの、人に親切で、文章と絵の才能に恵まれた女性でした。
ドルスとアンナが授かった最初の男の子は死んで生まれてきました。そして、ちょうど一年後、ゴッホが生まれ、祖父や叔父と同じくフィンセント(勝利者)と名づけられます。その2年後に女の子が生まれ、さらに2年後、男の子がうまれます。この4歳年下の弟には父親と同じくテオ(ドルス)と名づけられました。
最初の子が死産だったせいか、両親はフィンセントに甘く、そのこともあってか、子ども時代、フィンセントは気難しく、わがままだったようです。しかし、後年、顕著となる人間関係における激しい軋轢は子ども時代にはそれほど目立っていませんでした。
ところが、13歳の時、ウィレム二世国立中学校に入学したあたりから、ちょっと、あやしくなります。
中学校は自宅から遠く離れていたため、フィンセントは下宿から学校に通うことになりました。
中学校の主要教科は英語、フランス語、ドイツ語などの外国語で、後年、英語、フランス語を自在に操つるようになっただけあって、成績は優秀でした。外国語以外に絵も教科に入っていたようです。しかし、残念ながら、フィンセントはピカソやレオナルド・ダ・ヴィンチのように絵に関して幼年時代から天才的資質で周囲を驚かせることはありませんでした。それどころか、遠近法がなんとしても習得できなかったようです。
絵に関してはそんな有様でしたが、それ以外の学業にかんしては問題がなく、進級試験も好成績で通過しています。にもかかわらず、2年生の途中、突然、フィンセントは下宿にも寄らず中学校からまっすぐ家に帰ってしまいます。そして、二度と学校に戻ることはありませんでした。
何が原因だったのかわかりません。ともかくも、中学中途退学ということになり、15ヶ月間、フィンセントは無為に時を過ごすことになります。
ハーグ (1869年7月(16歳)~1873年5月(20歳))
そして、16歳の年、画商になるべくハーグにあるグーピル商会に就職します。
グーピル商会は画家志望だったアドルフ・グーピルが設立した画廊で、フランスの官展であるサロンの特選者、入選者の作品やその精巧な複製銅版画を扱って、人気を博していました。その後、オランダからパリに進出してきたフィンセントと同名の叔父、(フィン)セント叔父が共同経営者として加わり、グーピル商会はパリに加え、ブリュッセル、ハーグ、ロンドンに支店をもつ国際的大画廊へと発展します。セント叔父は、オランダのハーグ派やフランスのバルビゾン派などの「外光派」絵画に目をつけ、オランダで大成功を収めたやり手画商でした。

フィンセント(18歳)
セント叔父夫婦には子どもがおらず、フィンセントは叔父の後継者となるべく期待されていたのかもしれません。さらに、長男のフィンセントは先頭打者として、ファン・ゴッホ家の家名をあげる夢も託されていたでしょう。ただし、夢といっても、両親のフィンセントに寄せる期待は小市民的なものだったはずです。せいぜいセント叔父のように国際的に活躍し、かつ、経済的にも恵まれた画商となることが、両親がフィンセントに託した最高の夢だったでしょう。実際、フィンセントが挫折した後、4歳年下の生真面目で責任感の強い弟テオが兄に代わってその夢を中途まで実現することになります。両親が心に描いたものはオランダの中産階級の家族として至極まっとうな夢でした。ファン・ゴッホ家には、100年後、200年後にも世界中の人々の記憶に残るような天才は当然のことながら視野に入っていませんでした。オランダの小さな村ではぐくまれた夢にとって、そのような天才は想像の埒外にあったのみならず、もしかしたら、厄災に等しかったかもしれません。
中学校での挫折はあったものの、社会に足を踏み入れたフィンセントの滑り出しは両親の期待に沿った順調なものでした。グーピル商会での仕事は、もちろん、客に絵を売ることで、それにはバランス感覚に富んだ対人技術を必要としました。買いたい絵がはじめから決まっている顧客には、その趣味を褒めそやし、一方、何らかの助言が必要な客には、細心の注意を払って話を進め、店員ではなく客が自分の趣味でその絵を選んだのだと思いこませなければなりません。後年のゴッホの言動からは信じられないことですが、ティーンエージャーのフィンセントはこれをそつなくこなしたようです。ハーグ支店の年若い支店長テルステーフは「画廊ではだれもが--美術愛好家も顧客も画家も--フィンセントが応対するのを好んでいます。かれはきっとこの職業で成功するでしょう」とフィンセントの両親に書き送っています。おかげで、フィンセントはグーピル商会ハーグ支店が新たに設立した写真複製部門の責任者に抜擢されます。セント叔父のひきはあったでしょうが、ある程度、有能と認められなければあり得ない人事です。子どもの頃から、母親の影響を受けてスケッチ好きだったフィンセントは美術品に囲まれた生活に興奮し、アムステルダムやベルギーにも足を伸ばし、熱心に絵画を見て回り、視覚芸術に関する見識を広めました。その熱意が認められたのか、20歳の年、昇給し、ロンドンに栄転することになります。
ちょうどそのころ、弟のテオもベルギーのブリュッセルにあるグーピル商会に見習いとして雇われます。そして、その前年には、生涯続くことになるフィンセントとテオの手紙のやりとりが始まっています。テオが勤め始めた頃のフィンセントの手紙は「ブリュッセルが気に入ったこと、いい下宿が見つかったことは何よりだ。時々ひどく困難なことがあっても気を落としてはいけない。万事がよくなってゆくだろう。だれでもはじめは思うようにはできないものだ」(No 4)といった兄としての思いやり、気遣いにあふれたものです。
この頃、「テオ、きみにパイプたばこを喫うことを大いにすすめる。これは憂うつ症にはいい治療薬になる。ぼくは最近ときどき気が滅入ってしまう」(No. 5)とも書いています。順調なキャリアの陰で、どうやら、気分の変動に悩まされていたようです。しかし、さほど深刻なものではなく、たばこの煙で何とか吹き消せる程度のものだったようです。とくに必要もないはずなのに家庭教師について聖書の勉強をしたり、父親からプレゼントされたキリストに関する小冊子を破ってグーピル商会の暖炉の火に投げ入れたりしたりといった奇矯な行動もみられたようですが、周囲の人間には、フィンセントが出世街道をまっしぐらに進んでいるようにみえていたのです。
ロンドン (1873年5月(20歳)~1874年10月(21歳)、
パリ (1874年10月~1874年12月)、
ロンドン (1875年1月(21歳~1875年5月(22歳))
20歳の春、フィンセントはパリを経由してロンドンに到着しました。
ロンドンでも、当初、フィンセントは順調でした。やはり、写真複製部門の責任者に抜擢され、着任の翌年には昇給しています。シルクハットをかぶってロンドン郊外の下宿から中心街の画廊までフィンセントは毎日規則正しく出勤しました。友人はほとんどおらず、孤独な毎日でしたが、暇な日にはロンドン中を歩き回って好奇心を満足させていました。
しかし、ロンドンでの最初の一年は、フィンセントの生涯において平和で幸せな日々が続く最後の一年になってしまいます。
かれは下宿屋の19歳の娘、ウジェニー・ロワイエに恋していました。しかし、長い間、その思いを心に秘め、勝手にウジェニーとの将来の生活を思い描いていました。もちろん、ウジェニーが自分を恋してくれるはずだという根拠のない無邪気な確信があってのことです。しかし、ウジェニーがフィンセントに恋する可能性はほとんどありませんでした。フィンセントがロンドンにやってくる前に下宿していたサミュエル・プローマンという若い技師と婚約していたからです。ロンドンで生活を始めた翌年の7月、オランダに帰郷する直前、フィンセントはようやく、うちに秘めてきた思いをウジェニーに告白しました。しかし、手ひどい拒絶にあいます。休暇で家族のもとに帰ってきたフィンセントは失恋の打撃で黙りこくって、まるで人が変わったようになっていました。
恋の挫折を経験する若者はめずらしくありません。フィンセントの失恋も青年期によくみられる微笑ましい一コマといっていいでしょう。普通なら、時が傷口を癒してくれるはずです。ところが、フィンセントには時間という特効薬がまるで効き目をあらわしませんでした。人生を踏み出したばかりこの時期にうけた最初の打撃で、かれは一変してしまったのです。この恋愛劇以降、フィンセントは宗教にのめり込み、奇矯な行動が目立つようになります。
なぜそんなことになってしまったのか、よくわかりません。
8年後、従姉妹のケーとの恋愛事件のさなか、フィンセントはテオにこの時のことを「半ば空想から恋した」が「あとの半分は現実のだった(No 156. 1881年)」とちょっと理解しがたい説明をしています。そして「情熱は小舟の帆だよ。20歳の青年が自分の感情にすっかり身をゆだねたら、それこそ帆いっぱいに風をうけ、水をかぶってかれは沈んでしまう。結局また水面に浮かび上がってはくるだろうが」(No 157)と書いています。「僕が20歳のとき知った恋はどんなものだったか、説明は難しい。肉体的情熱はとても弱かった。おそらく数年間の大へんな貧困と激しい仕事のせいだったのだろう。ところが、僕の知的情熱は強かった。つまり、何の報酬も求めず、何の同情も求めず、ひたすら与えるのみで、何も受けとろうとしなかったのだ。ばかげた、まちがった、思いすぎの、高慢な、無茶なものだった。恋愛では、ただ与えるだけでなく、受け取るべきだからだ。逆に言えば、ただ取るだけでない、与えなければならないのだ。この線を右でも左でも逸脱して墜落したら、もう救いはない。こうしてぼくも墜落した。だが、不思議にまた起ち上がった。何よりもよくぼくの平衡を取り戻してくれたものは身体の病気あるいは精神の病気にかんする書物の読書だった。ぼくは自分の心や他人の心をいっそう深く洞察することができるようになった。そのうちまた自分を含めて人々を愛し始めるようなった。そして、あらゆる苦境のために一時いわば打ちくだかれ、枯らされて自失の状態にあったぼくの心は次第に生気を取り戻すようになった。現実の生活にまいもどって、ひとびとに交わるようなるにつれて、いよいよぼくの中には新しい生命がよみがえった」
2度目の手痛い失恋を味わっている最中の混乱した手紙の一節だからでしょうか、ハーグ時代、ロンドン時代を「数年間の大変な貧困」といったりして、つじつまが合わない点がありますし、支離滅裂な部分も散見されます。また、年月の経過の中で歪んでしまった部分もあるでしょう。しかし、少なくとも、最初の失恋をフィンセントはこのように記憶の奥に刻み込んでいたようです。たんなる失恋では考えられない「打ちくだかれ、枯らされて自失の状態」になるほどの精神的打撃を受けたことだけはたしかです。そして「屈辱の長い年月(No 156)」が続きます。
「ゆっくりと回復した」と書いていますが、社会生活という側面からみると、とても、無事に回復したとはいえません。実家に戻ったフィンセントは身を苛むウジェニーへの思いから逃げようと、さかんにスケッチをしたりしましたが、気分は落ち込んだままでした。その後イギリスに戻っても、仕事への情熱は湧いてきません。それどころか、画商という仕事に根本的疑問を感じるようになり、仕事場で投げやりな態度を見せるようになります。困惑したロンドン支店長はセント叔父に相談、セント叔父はフィンセントの両親と協議します。そして、どうやら失恋が原因らしいということになり、フィンセントをパリ支店に移して「ほとぼりを冷まさせる」ことにしました。こうして、フィンセントは1874年10月、パリの商会に転勤となります。しかし、残念ながら「ほとぼりは冷め」ませんでした。それどころか、無理やりパリに転勤させられたことでフィンセントはつむじを曲げてしまいました。結局、同年の12月末近く、かれの強い要望でロンドン勤務にもどることになります。しかし、自分から望んだ割にはフィンセントの勤務態度は改まりませんでした。渋々出社はしますが、明らかに心ここにあらずという態度をとり、仕事から戻ると、憑かれたように聖書を読みふける毎日です。「はじめてかれは変人といわれるようになった。素描の熱もさめてしまった」とヨハンナは書いています。フィンセントの精神状態があまりにひどいので、セント叔父は再び両親と協議し、これ以上ロンドンにおいておくわけにはいかないという結論に達します。こうして、1875年5月、フィンセントは再びパリ勤務を命じられます。
ロンドンを離れるに当たってフィンセントはテオへの手紙の末尾に次のようなルナンの言葉を記します(No 26. 1875年5月8日)。
「世の中で行動するためには、自らを滅却しなければならぬ。宗教思想の伝道者たらんとするものにはこの思想以外に祖国はない。
ひとはただ幸福であらんがためにこの世にいるのではない、たんに正直であらんがためにいるのではない。かれは社会のために大いなることを実現するために、崇高に達せんがために、おおかたの人々がその中で生きながらえている卑俗をのり越えんがためにこの世にあるのだ」
失恋が引き起こした精神的打撃から逃ようとして縋りついた言葉の一つがこのルナンのものだったのかもしれません。そして、この後、かれは、実際にこのルナンの言葉をなぞるかのような人生を歩むことになります。しかし、その人生は、ルナンの言葉を旗印にまっすぐ突き進むようなものではありませんでした。たしかにかれは「卑俗を乗り越えん」として周りの反発もものとはせず奇矯な行動に走ることが多くなります。しかし、愛情や共同生活に対する憧れが人一倍強いかれは「ただ幸福であらん」とする願いを完全に断ち切ることができず、何度もその願いを実現しようと試みました。しかし、そのたびに情け容赦なくはねつけられます。打ちのめされたフィンセントは追いつめられ、人生の幅を狭めることを余儀なくされ、その絶望の淵から「大いなることを実現」し、「崇高に達」するに至ります。
当時、グーピル商会は代替わりをしていて、創立者アドルフ・グーピルの娘婿ルネ・ヴァラドンとグーピルの長年のパートナー、ブッソが中心になって会社を運営するようになっていました。名前もグーピル-ブッソ・エ・ヴァラドン商会と変わり、そのパリ本店にフィンセントは移されました。しかし、ルナンの例の文章を引用する若者には美術品を金持ちに売りつける仕事が「大いなることを実現する」ものとはとても思えなかったようです。パリでのフィンセントの仕事ぶりはさらに投げやりなものになります。
テオに書いた「体の病気あるいは精神の病気にかんする書物」が何であったのかよくわかりませんが、この時期、「第二の福音書」とも称されるトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」という中世の信仰手引き書に熱中していたらしいことが手紙から窺えます(No 31. 1875年7月15日)。「キリストにならいて」には信仰生活の行動規範が説かれていますから「体の病気あるいは精神の病気にかんする書物」といえなくもないかもしれません。実際、「金持ちにへつらうべからず」という言葉をそのまま実行に移したのか、歴史画のようなくだらない絵は買わないようにと客に「忠告」して問題を起こしています。「キリストにならいて」には「自己否定」「欲望の放棄」など信仰生活における心得が具体的に説かれていますが、フィンセントはそれらを終生の行動規範としたようです。後年、聖職者の道を断念して画家になった後も、「修道僧であり、画家であるといった、いわば2重の性質(No 556)」と自らを規定しています。粗衣粗食を旨とする生活態度は終生変わることがありませんでした。また、強情なわりにフィンセントはなにごとにも謙虚で、おごり高ぶるということがありませんでした。もともとそのような資質があったのかもしれませんが、「キリストにならいて」がその地固めをしたのかもしれません。
しかし、修道僧にこそふさわしい生活様式を自らの身体にしみこませたフィンセントは、まっとうな社会生活ができなくなってしまいます。「キリストにならいて」に深く染まったかにみえるフィンセントは、世紀末のブルジョアの街パリに舞い降りた中世アッシジの聖人、聖フランチェスコでした。言っていることはいちいちもっともで、真実をついていますが、近代市民社会のパリの現実にそれをそのまま適用するなど、どだい無理な話でした。「パリに舞い降りた聖フランチェスコ」は、彼をきちんと理解できない人間にとっては、滑稽で、はた迷惑な存在でしかありませんでした。
ついに、セント叔父がパリまでやってきて「超自然的なことは知らないかもしれない」が「わたしは現世的なことなら何でも知っているぞ」と説教しました(No 31. 1875年7月15日)。しかし、フィンセントは聞く耳をもちませんでした。「たいがいの人はうちに詩人を秘めている。しかし、詩人は早死にし、本人は生きながらえる」というサント・ブーブの言葉を引用し、セント叔父はこれに当たるとテオへの手紙の中で揶揄しています。父親も「太陽に憧れて飛びたち、翼を焼かれ、海へと墜落したイカルスの話を忘れてはいけない」と書いてきましたが、真のキリスト者になろうとする願いとイカルスの願いは違うものだ、とフィンセントははねつけます(No 43)。
パリでも友人がおらず、孤独な生活をしていましたが、やがて、同じ下宿のイギリス人ハリー・グラッドウェルと聖書に熱中するようになります。ハリーもグーピル商会の落ちこぼれ店員で、フィンセントの熱意に押され、仕事を終えると、フィンセントとともに毎晩、深夜おそくまで代わる代わる聖書を読みあげる仲になりました。
結局、クリスマスの繁忙期、断りもなくフィンセントがオランダの実家に帰ってしまったため、支配人ブッソの堪忍袋の緒が切れます。フィンセントは1876年4月1日に解雇されます。重役の甥として優遇され、次から次へと重要ポストを与えられ、他の店員にとっては羨望の的だったキャリアをいとも簡単に放り投げることになってしまったのです。
のちにフィンセントは、グーピル商会をやめた原因として、画商として客に対応するのが苦痛だったと書いています。しかし、フィンセントが画商の道を放棄したのが意図的だったのかどうか、いまひとつ、よくわかりません。サン・ポール療養所時代、フィンセントへの手紙の中にテオは「きみは時々あのまま画商でいたほうがよかったというが」と書いています。どんな心境で言ったのかわかりませんが、フィンセントは、画商のキャリアを放棄したことへの後悔の念を弟に漏らしていたことはたしかなようです。
再び、イギリス(1876年4月(23歳)~1876年12月(23歳))
すでに、フィンセントは23歳なっていました。辺鄙な村で牧師をしている子だくさんの父親に20代半ばにさしかかる長男を支える経済的余裕はありません。フィンセントは新たな自活の道を考えなければなりませんでした。当時のフィンセントの精神状態を考えると、のちにアルルの病院で述懐しているように「修道士になる(No 580. 1889年3月)」のも一つの手だったかもしれません。しかし、それは「カトリックの信者なら」という条件つきです。ファン・ゴッホ家は代々プロテスタントの牧師を輩出してきた一族です。「信者じゃないから、そんな手も」なかったのです。
ウジェニーへの思いを断ち切れていなかったフィンセントは、ともかくもイギリスに戻ろうと考えていました。そして、ようやく、みつけたのがイギリスのラムズゲイトにある寄宿学校の教員の職でした。ただし、部屋と食事は保証されるものの、当分の間は無給です。しかし、贅沢はいっていられません。1876年4月、フィンセントは再びイギリスにわたります。この学校は2ヶ月でロンドンのアイルワースに移転しました。そして、責任者はいい加減な男で、移転後もフィンセントが給料を支払うつもりがあるのかどうかさえ明言しません。ちょうどそのころ、2つのメソジスト派教会の牧師をかねていたジョーンズ師とフィンセントは知り合いになります。ジョーンズ師は自宅を学校にしており、その学校の助手として来ないかとフィンセントを誘ってくれました。うまくいけば、将来、教会の仕事に就ける可能性もあり、フィンセントは喜んでこの誘いに乗ります。実際、ジョーンズ師はフィンセントに説教をする機会を与えてくれました。そして、フィンセントは興奮のうちにそれをやり遂げます。「説教壇に立ったとき、ぼくは自分を、地下の暗い洞穴から出てきて、ふたたびなつかしい日の光に接した人間ででもあるかのように感じた。これからぼくはどこへ行っても福音を説くのだと思うとうれしい(No 79. 1876年)」とテオに書き送っています。フィンセントはロンドンの最貧地区にも説教に出かけていきました。そして、貧しい人々のために福音を説く聖職者の道を切望するようになります。
ところが、冬が近づくにつれ、かれはまたもや気分の変調をきたします。ヨハンナは「このころのかれの手紙にはほとんど病的といえる感受性が表れている」と書いています。たしかに、1876年11月25日にテオ宛に書かれた手紙(No 82)は長さも内容も異様です。一度終えたはずの文章がまた始まり、意味のよく読み取れない文章の後に、なんの脈絡もなく、他の内容の理解しがたい文章が延々と続き、さらに、余白にも文章を書き足していて、しかも、その多くもほとんど意味をなしていません。たとえば、「もし、思わざるようなことが起きた場合は、心の中に神に対するなつかしみの念を強めたまえ。「父なる神よ」の声を高めたまえ」という文章の後に、おそらく、「父なる神よ」という言葉に誘発されたのでしょう、下宿生活をしていた中学時代を思い出したらしく「お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは秋の日のことだった」という文章が続きます。さらに、その2週後、父親が訪ねてきてくれたときのことを次のように書き足します「その人が誰かわかると、一瞬後には、ぼくはお父さんの首に抱きついていた。そのときぼくが感じたものは『かく汝ら神の子たる故、神は御子の御霊を我らの心に使わして『アバ、父』と呼ばしめ給う』ということではなかったか。それはぼくらが二人ともに天の父なる神を持ったと感じた瞬間だった。というのは、父もまた上の方を見上げたからだ。お父さんの心はぼくよりももっと大きな声で『父なる神よ』という叫びがあったのだ」といった具合です。
クリスマスで戻ってきたフィンセントはなんとかまともな精神状態に戻っていました。しかし、両親は何度も精神の変調をきたしたイギリスに二度とフィンセントを戻すわけにはいかないと最終決断を下します。ただし、強情なフィンセントがそれを聞き入れてくれるかが問題でした。ところが、本人も精神の変調を自覚していたらしく、素直に従ってくれました。両親はほっと胸をなで下ろします。
ここで、またしても、セント叔父が頼りにされました。一度は期待を裏切った甥でしたが、世知に長けた叔父は嫌みを言いながらフィンセントにドルドレヒトの本屋の職を紹介してくれました。ただし、こんどは一週間、試験期間をおいてから本採用という条件付きです。ところが、試験期間中、たまたま、ドルドレヒトは洪水に見舞われます。フィンセントはこの本屋の地下の在庫品を持ち前の馬力で運び上げ、大活躍します。おかげで、すぐに、本採用となりました。
しかし、その後はさっぱりでした。
帳簿係を命ぜられましたが、どういう訳か、ロンドン時代のボロボロのシルクハットをかぶって出勤、その上、帳簿はそっちのけで、終日、オランダ語聖書のフランス語、ドイツ語、英語への翻訳に熱中します。聖書の翻訳に飽きると、こんどはスケッチです。両親とセント叔父の思惑に乗るまいとわざと反抗していたとしか思えません。一方、下宿では、食卓で延々と祈りを捧げ、肉を口にせず、まるで、悔悛した修道僧でした。周りの人間は奇矯なフィンセントの振る舞いをうす気味悪がり、嘲けるようになります。しかし、フィンセントは行動パターンを変える気はなく、ここでもかれは孤独な生活を余儀なくされます。唯一、下宿で同室の学校教師だけがフィンセントを理解してくれていました。この学校教師はこの時期のフィンセントが「憂鬱そうに深刻な思索にふけって」いたこと、しかし、「笑ったときはじつに楽しそうで、活気にあふれ、顔全体がぱっと輝」いたことを書き記しています。フィンセントもこの教師を信頼し、聖職に就きたいという希望を打ち明けます。そして、数ヶ月もたたないうちにフィンセントはこの本屋をやめ、またもや、家に戻ってしまいます。
アムステルダム(1877年5月(24歳)~1878年7月(25歳))
再び、両親はフィンセントの人生について話し合わざるをえなくなります。フィンセントの望みはただ一つです。父親と同じ聖職者の道です。両親もこんどはかれの願いを真剣に考えざるをえませんでした。しかし、当時、オランダで父親と同じような聖職者になるには大学の神学部に入らなければなりません。大学入学には、最低2年間の準備学習を経た後、古典と数学からなる国家試験に合格する必要があります。しかも、首尾よく入学できたとしても、その後、6年間の大学生活が待っています。当時、フィンセントはすでに24歳、大学入学適齢期はとうにすぎていました。しかも、相当な出費も覚悟しなければなりません。当然、家族のほとんどが反対しました。しかし、フィンセントは頑として聞き入れようとしません。

ヤン叔父
このとき、救いの手をさしのべてくれたのが、アムスデルダムに住む海軍中将のヤン叔父でした。当時、ヤン叔父は妻を亡くし、子どもたちも成人し独立していたので、広い官舎に一人暮らしでした。その官舎の一室をフィンセントがアムステルダムで受験勉強をするための基地として賄い付きで提供してくれたのです。さらに、母方の義理の叔父、ストリッケル牧師が受験のための基本的な手ほどきをしてくれることになりました。また、ストリッケル牧師は優秀な若手古典学教授メンデスも受験勉強の家庭教師として紹介してくれました。ストリッケル牧師は見事な神学書の著作もある著名な神学者で、豊富な人脈があったのです。
「家庭教師」のメンデスはたんに優秀なだけでなく、人を見る目も確かでした。かれは、フィンセントの表情が「多くを表現し」、「多くをうちに秘めていた」とのちに書き記しています。また、フィンセントが「不幸な人たちを助けたい熱望で夢中になっていた」こと、メンデスの「聾唖の兄弟に大きな関心を示し」「いつも親切そうに話しかけた」こと、「貧しく、軽い不具者で、血のめぐりがおそく、まともに話すこともできなかったのでみんなの嘲笑を買っていた」メンデスの伯母のことを「彼女は善良な人です。僕は大好きですよ」と言っていたことも伝えています。
フィンセントはメンデスの指導のもと、勢い込んで勉強を開始しました。テオにも「これは生命をかけた競争であり、戦いなのだ」(No 114)と宣言します。しかし、その勉学態度には気負いが目立ちすぎていました。メンデスによるとフィンセントの「勉強は最上の意図によって鼓舞されていたので、初めのうちは進歩が早かった」ようです。例のトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」をラテン語原文で読もうとさえしました。しかし、やがて、努力が空回りし始めます。あれほど外国語に堪能だったフィンセントが、ギリシャ語の動詞変化をマスターできなかったのです。フィンセントはメンデスに「ぼくのように、貧しい人たちに平和を与え、かれらがこの世の生活に安らぎをうるようにする仕事にたずさわりたいと思っている人間にとってこんなおそろしい勉強が必要だとあなたは本気で信じていますか」と不満を漏らします。メンデスももっともだと思いました。
しかし、規則は規則です。フィンセントもそのことはわかっていて、文字通り、自らの身体にむち打ちました。自分を叱咤激励するために、寝室に棍棒を持ち込み、怠けそうになると自らを棍棒で叩いたのです。さらに、真冬には、自分への懲罰として、外套も着ずに外出、ベッドも毛布もない木造小屋の床に身を横たえ一晩過ごすこともありました。中世の修道院の生活規範そのままです。反対の嵐の中、あれほど我を通して始めた勉強を断念すれば、家族の軽蔑を招き、熱望した聖職者の道も断念せざるをえません。死にものぐるいでフィンセントは悪戦苦闘しました。
しかし、だめでした。
一年たつと、フィンセントが大学入学試験に合格する見込みがないことがはっきりしてきました。
よほど苦しかったのでしょう、このときのことをフィンセントは後にテオに次のように書いています。「アムステルダムで過ごしたあの時期のことは今なお僕の記憶の中に生々しく残っている…….どんなことが熟慮検討され、協議され、対策が講じられ、賢明に相談がされたか、いかにそれが善意からなされたか、それだのにその結果がどんなにみじめなものだったか、企図全体がなんとばかげていたか、なんと間抜けの極みだったことか。いまだに思えばぞっとする。あれはこれまでの生活の中で最悪の時期だ。(No 132. 1879年8月)
結局、入学試験受験を断念、一年の苦闘の後、神学校入学の夢をあきらめます。
エッテンーブリュッセル(1878年7月~1878年11月(25歳))
結局、フィンセントはエッテンの実家に戻ります。
こんどは、イギリスでフィンセントに説教をする機会を与えてくれたジョーンズ師が手を貸してくれました。親切なこの牧師はフィンセントの身を案じ、ブリュッセルの福音伝道学校の話をもってイギリスからエッテンにまで訪ねてきてくれたのです。そのブリュッセルの福音伝道学校では、3年間の勉強で聖職者の道が開ける可能性がありました。しかも、ラテン語やギリシャ語の勉強もオランダの神学校ほど厳しくないというのです。
ジョーンズ師の口添えがあったうえに、フィンセントの外国語の実力も好印象を与え、フィンセントはうまい具合にこの福音伝道学校への入学を許されます。
しかし、入学後は、またもや、さっぱりでした。
その頃の同級生によれば、フィンセントは「いつも克己と自己懲罰の実際の手段を探し求めていて」「けっして机を使おうとせず」教師に注意されても不安定な姿勢で「練習帖をひざのうえにのせて」勉強していたようです。「中世の律法尊重主義者を思わせるようなところがあった」というのです。
しかし、肝心の勉強は進みませんでした。文法の勉強の時、主格か予格かと聞かれ「ああ、僕は実際どちらでもかまいません」と答えています。アムスデルダム時代と変わりばえがしません。フランス語の「断崖」という言葉の意味を質問されると、黒板に断崖の絵を描きたいと要求、教師に押し止められます。それでも、授業後、フィンセントは本当に黒板に断崖の絵を書き始めました。このとき、同級生の一人がからかい半分にフィンセントの上着を引っ張りました。すると、フィンセントは「憤怒に燃え立った顔」をしながら振り向きざまその同級生に「一撃を食らわしました」。
3ヶ月の試験期間を過ぎて、フィンセントはとても福音伝道学校にとどまることができないことがはっきりしてきました。そのうえ、冬が近づくにつれ再び気分に変調をきたしたらしく、父親のもとにはフィンセントが「やせて、夜も眠られず、神経がいらいらした興奮状態に陥っている」ので家に連れ帰るよう学校から勧告の手紙が届きます。
当時、母親は「フィンセントがどこへ行っても、何をしても、あの子の変人ぶりと人生についてのあの子の奇妙な考えやものの見方によってすべてを台無しにしてしまうのではないかと、いつでも心配です」とやきもきしていました。しかし、父親は「あれはまるでわざわざ一番困難な道を選んでいるみたいだ」とため息をつくだけでした。
ボリナージュ(1878年12月(25歳)~1880年9月(27歳))
こんどは福音伝道学校のピーテルセン牧師が救いの手をさしのべてくれました。フランスと国境を接するベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュで伝道団の助手としてフィンセントが仮採用されるよう伝道団委員会に口添えしてくれたのです。数ヶ月の仮採用期間に審査を通れば、本採用もありうるということでした。伝道団の助手というのは聖職者としては最低の地位で、そのうえ、当分は無給です。しかし、聖職者として「貧しい人たちに平和を与え、かれらがこの世の生活に安らぎをうるように」したいと熱望していたフィンセントにとってはなんの不満もない地位でした。父親の援助を受け、かれは自費でボリナージュに向かいます。
ボリナージュのヴァムと言う町でフィンセントは牧師の助手として説教し、病人を見舞う仕事を開始します。「ぼくはいま炭焼きをやっている家の小さな老婆を見舞ってきたところだ。病気は重いのだが、忍耐強く、信仰もあつい。ぼくは彼女と一緒に聖書の一章を読み、みんなとともに祈った。(No 127. 1879年12月26日)とテオに書いています。その努力が認められたのでしょう、とりあえず、50フランの月給で伝道師として6ヶ月間暫定採用されます。
しかし、採用が決まると、フィンセントの度を超した行動が始まります。炭鉱地帯にやってきたときには「ちゃんとしたみなり」だったのに、やがて、古ぼけた軍隊服を着て、みすぼらしい帽子をかぶって歩き回るようになりました。炭坑夫たちの悲惨な状況を目の当たりにして、同情に駆られたフィンセントは服をすべて炭坑夫たちに与えてしまったのです。服だけではなく金も与えました。さらに、生きてゆくのにぎりぎり必要なもの以外はすべて人に捧げてしまわねばならぬと感じたフィンセントは下宿屋を出て、炭坑夫たちと同じような粗末な小屋の藁の上で寝起きするようになります。
後世のイメージでは悲惨な貧乏画家ですが、本来、フィンセントは「良家のお坊ちゃん」です。ドルス牧師にはさえない経歴しかありませんでしたが、それでも、多くの人々から尊敬される学識ある聖職者でした。さらに、その兄弟には海軍中将と有力な画商がおり、母方にもストリッケル牧師のような著明な神学者がいました。ファン・ゴッホ家は世間的には一流の家柄だったのです。この当時のかれの極端な行為は、貧しい人々に持ち物をすべて与えて清貧に甘んじた聖フランチェスコに習った面もあったでしょうが、その陰には出身母体に対する反発もわずかながら見え隠れしています。
いずれにしても、フィンセントのやっていることは、周囲には常軌を逸した行動にしかみえませんでした。心配した下宿屋の女将が父親にフィンセントの破天荒な行動の一部始終を手紙で知らせます。驚いたドルス牧師はボリナージュにやってきました。ドルス牧師はフィンセントのような極端な献身行動をとる聖職者が19世紀の近代西欧社会においては結局長続きしないことをよく知っていました。そして、もとの下宿屋に戻って節度ある行動をとらなければ援助をうちきると息子に警告しました。仕方なく、フィンセントもいったんは譲歩し、きちんとした宿屋で寝起きすることを約束します。

「シャベルを担ぐ抗夫」
1978年夏
しかし、父親が帰ってしまうと、すぐに、たががはずれます。地下七百メートルの坑道までおりて地下の炭鉱内で長時間過ごすことさえありました。「そま木の坑材で支えられた狭い低い坑道の中の巣穴の列を思い浮かべてみたまえ。こうした穴の一つ一つの中では、粗末なリンネルの服を着て、煙突掃除夫みたいに汚れて真っ黒になった坑夫が一人ずつ小さなランプのほの暗い光をたよりに忙しく石炭を掘り進んでいるのだ。坑夫が真っ直ぐ立てる穴もあるが、地面にはってやっているところもある…….穴の配列は多少とも蜂蜜の巣に似ている。あるいは、地下牢の暗い、陰鬱な通路のようだ。(No 129. 1879年4月)と炭坑を生き生きと描写しています。一方で、ガス爆発で瀕死の重傷を負い、医者にも見放された坑夫を日夜看護し、その命を助けたこともありました。この坑夫は「回復して、また外に出ることができるように」なりました。「ある家では、一家全部が熱病にかかって、看護の仕手がない、そこで病人が病人の世話をみなければならない始末だ。「ここじゃあな、病人の世話をすんのが病人だからね」とある女が言っていたが、「貧乏人の友達は貧乏人だよ」という言葉と似たようなものだ」とも書き記しています。フィンセントは伝道集会などそっちのけでそうした人々の介護にかけずり回りました。
やがて、伝道事業委員会がフィンセントの福音伝道師としての評価を下す日がやってきます。委員会はフィンセントが「病人たちや負傷者たちを助ける際に発揮された賞賛すべき資質、献身、夜も眠らずにかれらを看護したり、自分の衣服下着の大部分を与えたり」する「犠牲的精神」は高く評価しました。しかし、「集会を司祭する者にとって必須であるべき表現能力」に欠け、「伝道師の主要な機能を発揮」できないという判断を下します。
坑夫の中には、どうやら、フィンセントの行動をうす気味悪がり、嘲る者もいたらしく、委員会はフィンセントの聖職者としての「良識と精神の均衡」に欠ける常軌を逸した行動を問題視したのです。フィンセントは最後の頼みの綱であった伝道師の職さえ断念せざるをえなくなります。
呆然となったフィンセントははだしのまま、徒歩でブリュッセルに向かいます。ピーテルセン牧師にとりなしを頼むためです。何日も野宿を重ねる旅でした。おかげで、牧師の家にたどり着いたときはほとんど浮浪者同然の身なりで、玄関の戸を開けた牧師の娘はフィンセントをみて悲鳴をあげ、家の奥に駆け込んでいってしまいました。牧師はフィンセントの姿をみて「自ら自分の幸福の邪魔をする人物」だと両親に書き送っています。
しかし、ともかくもピーテルセン牧師はフィンセントを温かく迎えてくれました。牧師には絵を描く趣味があり、画室をもっていました。そのことを知っていたのでしょう、フィンセントは坑夫を描いたスケッチを持参していました。ボリナージュの話に耳を傾ける一方で、牧師はスケッチを熱心にみてくれました。
どうやら、このことがきっかけとなってフィンセントは聖職者に代わる絵画という光明をぼんやりと意識するようになったようです。
しかし、まだ聖職者の道を完全にあきらめることはできませんでした。ピーテルセン牧師の口添えでフィンセントはボリナージュの他の村で牧師の助手としてとどまることになります。しかし、徐々に聖職者への情熱は冷め、フィンセントは短期間、エッテンの両親の家に戻ります。
何でもいいから、収入を得る道を探すよう、家族全員が寄ってたかってフィンセントを説得にかかりました。妹のアンナは「パン屋商売に身を捧げたら」と忠告したようです。ボリナージュに戻ると、こんどは、パリに転勤になったテオがたずねてきます。テオにはフィンセントが「年金生活者」のような生活をしているようにしかみえなかったようです。「請求書の見出し飾りや名刺などの彫版工、簿記係、大工」なんでもいいから職に就くことをフィンセントに薦めました。テオとしては「文字通りしたがってもらうつもりで忠告しているわけではなく、無為徒食の生活にすっかり味をしめたのではないかと案じたわけで、そんな生活は終わらせるべきだと言いたかった」だけでした。しかし、フィンセントは言い返します。
「改善のための、転換のための、活力を呼び起こすための諸計画。気を悪くしないでほしいが、ぼくはちょっと気が進まないのだ。というのは、ぼくもときどきそうした忠告に従ったのだが、その結果はみじめなものだったからだ…….『目の前のゴールに到達』しようと努めること??????当時はこんな表現をしていた。が、実際、ぼくはもう2度とそんな望みを持つことはないだろう(No 132. 1879年8月)」。ルナンの言葉にあるように「卑俗を乗り越え」「崇高に達したい」というのです。そのためには、目先のものに惑わされて「病よりももっと悪い薬」は呑みたくなかったのです。
その後、11か月間、テオへの手紙は残されていません。このため、自らの天職と思い定めた聖職者へ道を断念する瀬戸際に立たされ、家族に見放されたフィンセントが、どのように生活し、何を考えていたのか、不明です。わかっているのは、家族の援助もなく、経済的にも精神的に相当ひどい状態だったということです。「まず1879年から1880年にかけての恐ろしい冬を戦い抜かなければならなかった。この冬はけっして仕合わせでなかったかれの生涯の中でも最もみじめな、最も絶望的な時期だった」とヨハンナは書いています。
いたたまれない気持ちになったフィンセントは、以前から尊敬していた画家、ブルトンを訪ねて北フランスのクーリエールにむかいます。クーリエールでなにかしら仕事が見つかるかもしれないという漠然とした期待もあったようです。手元には10フランしかなく、真冬の雪の中、国境を越えて70キロ、一週間歩き続ける旅でした。ブルトンはロマンチックな農民の絵で有名な画家で、フィンセントはブルトンが農民のようなつつましい生活をしているものと勝手に想像していたようです。ところが、ブルトンの家に到着して目にしたのは厳めしい煉瓦作りのアトリエでした。フィンセントは気後れがし、この「お城」に足を踏み入れる気力が失せ、そのままボリナージュに引き返してしまいます。帰り道は無一文で、足に傷を作り、疲労困憊し、荷馬車や薪の束の上で野宿しながらの悲惨な旅でした。
ところが、このみじめな旅のさなか、どういうわけか、突然、フィンセントは「自分の精力がよみがえっているのを感じ」ます。そして、「ぼくはまた立ち上がろう、大きな落胆の中で捨ててしまった鉛筆をもう一度取りあげよう。またデッサンを始めよう(No 136. 1879年9月24日)」と自分に言い聞かせます。
しかし、この年の春頃、父親は思いあまってフィンセントをオランダ国境近くのヘールの精神病院に入れようとしたようです。新版の書簡全集(ファン・ゴッホの手紙 二見史郎編訳、圀府寺司訳 みすず書房)の1881年11月18日の手紙(No 159)には「去年のヘール問題---父さんが僕の意に反して精神病院に入れようとしたときのこと---は僕に警戒の心を学ばせた。もしいま僕が用心しなければ、父さんはまた何か「やらねばなるまいと思う」だろう。去年の精神病院問題はあの人たちの言い分によると、「良心の確信」から起きたことだという」といった文章が追加されています。しかし、「ヘール事件」に関する情報の相当部分は抹殺されてしまったようで、詳細は不明です。この時期のテオへの手紙が残っていないのも、この「ヘール事件」のためではないかと推測されています。「良心の確信」から「やらねばなるまいと」と父親が思った直接的なきっかけが何であったのかわかりません。真冬にピーテルセン牧師やブルトンを徒歩で尋ねていった「無銭旅行」は、一つ間違えれば命を落としかねない異常な行動でしたし、それ以外にも、息子をどうしても精神病院に入院させねばならない「事件」がおきたのかもしれません。穏やかな息子思いのドルス牧師がこんな行動に走ったのですから、よほど追いつめられていたのでしょう。しかし、手紙にあるようにフィンセントは断固これを拒否、どうやらこのことがきっかで、親子の間には修復不可能な亀裂が入ってしまったようです。この年の春頃、フィンセントは、エッテンの実家を訪ね、いたたまれず、すぐ、ボリナージュに戻っていますが、「ヘール事件」はこのときのことなのかもしれません。
この帰郷の際、フィンセントはテオが生活費にと50フラン送ってくれていたのを知ります。お礼をかねて、フィンセントは弟に手紙を書きます。
「君が僕のために50フラン送ってくれたことを僕はエッテンで聞いた。まあ、ともかく僕は受け取った。むろん、気が進まぬままに、むろんかなり憂鬱な気持ちで??????でも、僕は一種袋小路に入った状態で難渋しているのだ、そうするよりほか何ができよう(No. 133F. 1880年7月)」。
しかし、ともかくお礼を言うために書くのだとフィンセントは苦しげに手紙を始めます。
「僕は不本意ながら家族のなかで多少とも非常識な、うさん臭い人間、とにかく信用のない人間になってしまった。とすれば、その僕がだれであれどんな風に役立つことができようか」そう考えて、姿をくらましたとしたのだといいわけをします。そして、姿をくらましていた期間を鳥が羽毛を抜け変える時期になぞらえます。「それはわれわれ人間にとっては逆境や不幸などのつらい時期に当たる。人は脱け変わりの時期の中に止まっていることもできるし、生まれ変わってそこから出てくることもできる。だが、いずれにしても人前でやることではない。けっして楽しいものではないからね。だからこそ身を隠さねばならぬのだ」
自分の悩みは「一体僕は何の役に立ちうるのか、僕はいわば役に立つ、有用な人間たりえないのか、どうしたらしかじかの問題をもっと長い間深めてゆくことができるのか」ということだと訴えます。「ねえ君、こいつが絶えず僕を苦しめているのだ。そしてあれこれの仕事に関与することを拒まれ、あれこれ必要なものは手の届かぬところにあって、困窮の中に閉じこめられた気持ちになる。そのためにメランコリに陥らざるをえないし、さらに友情や気高い、まじめな愛情があってしかるべきところに空虚を感じてしまう。そして気力そのものを蝕む恐ろしい落胆を覚える…….内部で起こるもの、それは外部に表れるのか。あるものがその魂のなかに大きな暖炉をもっている。その火に暖まろうとやってくるのは誰もいない。通りすがりの人たちは煙突の上の方から煙が少し出ているのをみるだけで、そのまま立ち去っていく」と無念そうに訴えます。
「怠惰と性格の無気力、本性の下劣さからくるのらくら者がいる。君が僕をその手の人間だと判断したければ、すればいい」とフィンセントは言い放ちます。しかし、一方に「不本意の、のらくら者」がいるとかれはいいます。「心のなかでは活動への大きな欲求にさいなまれながらも、なにもしていない」「何か牢獄みたいなもののなかにとじこめられている」ような人間。それが自分なのだとフィンセントはいうのです。牢獄が実際には何なのか、はっきりいうことはできない、しかし、ときとして、それは「偏見、誤解、あれやこれやについての取り返しのつかない無知、猜疑心、羞恥心」の名で呼ばれることもあるとフィンセントは説明します。では、この牢獄を消滅させるものは何か、それは「深い、真剣な愛情だ」とフィンセントは宣言します。「友人同士であること、兄弟同士であること、愛があること、これが至上の力とひじょうに強い魔力によって牢獄を開かせるのだ。しかし、それを欠く者は死の中に止まることになる。だが、共感が再生するところには生命が再生する」というのです。聖職者的語法が抜けきらず、説教調でピントはずれな文章も混在していますが、その合間から、身動きがかなわぬまでに自分を閉じこめている何者かに戦いを挑もうとする必死な叫びが聞き取れます。数多いフィンセントの手紙の中でも絶唱というべき文章です。
この手紙以降、宗教的な話題はまったく影を潜め、絵に関する話題で手紙が埋め尽くされるようになります。すでに、二ヶ月後の手紙(No 136. 1880年9月)では他の画家が描いたエッチングの模写、『バルグのデッサン教本』、ハーグのグービル商会の元上司、テルステーフにもらった解剖と遠近法の本などを話題にして「このとおり僕は仕事に熱中している」と書いています。絵を己の天職と見定めたわけです。ただし「当面はそれが大いに喜ばしい成果を上げるわけではない。ただ、こうした茨もその季節がくれば白い花をつけるだろうし、この一見不毛の格闘も産みの労苦に外ならない。はじめに苦しみ、後から喜び、ということだ」とつけ加えます。
しかし、茨はなかなか「白い花びらをつけ」てくれませんでした。そして、結局、「一見不毛の格闘」のうちにフィンセントは生涯を終えることになります。とくに、金銭面ではそうで、これ以降、フィンセントはテオの手助けなしには生きていけなくなります。そして、テオも画家を目指す兄を誠実に支え続けるることになります。
しかし、当初、フィンセントも弟や両親にいつまでも頼る気などありませんでした。猛烈な勢いでデッサンの勉強に邁進したのも、絵で生計を立てられるという、かれなりの目算があってのことでした。フィンセントがあてにしたのは、新聞などのイラストの仕事でした。そのために目標を「人前に出せる素描、売れる素描を早く描けるように勉強して」「直接金が稼げるようにすること(No 136. 1880年9月24日)」に定めていました。デッサン力のある画家は引っ張りだこで簡単に職を得ることができる、と呆れるほど楽観的な「予測」を両親に書き送っています。つまり、一年前に自ら否定していた「目の前のゴールに到達」することを絵画ではとりあえず目標にしていたのです。しかし、幸か不幸か、世の中それほど甘くはなく、だれも彼の「イラスト」に商品価値を認めてくれませんでした。それでも、おのれの人生の可能性がすべて閉じられたと信じこんでいたフィンセントは絵に没頭するしかありませんでした。
もっとも、聖職者を目指したフィンセントの信仰生活がここで途絶したわけではありません。それは、自分は一つの信仰、強さをもっている、それは仕事だ、というかれの言葉にあらわれています。かれにとって「絵という仕事」は信仰告白以外の何ものでもありませんでした。画家を志してから、ボリナージュでの自己犠牲的隣人愛は、絵画の中に溶け込んでいきました。ヤスパースが指摘しているように、フィンセントはプロテスタント画家レンブラントのように本当は「キリスト、聖人、天使を描」きたかったのかもしれません。そのことは、かれが生涯を通して範とした画家がミレーであったことからも窺われます。ミレーは農民の生活を宗教的感情を込めて描いた画家でした。そして、当初、フィンセントも農民の姿も盛んに描いています。しかし、やがて、かれは「もっとも単純な対象を主題」としても「その宗教的衝動」を「対象の構成の裡に」感じさせるような絵画が可能であることを発見します。ただし、そのような絵を描くようになるには恐るべき集中と努力を要しました。素人同然の絵画技術しかなかったフィンセントは、まず、表現力を磨く必要があったからです。しかし、かれは超人的な努力で技倆をあげ、ついには、ドーテのことばどおり、絵画において「大いなることを実現」し、「崇高に達」するに至ります。
ブリュッセル (1880年10月(27歳)~1881年3月(27歳))

ラッパルト
当初、坑夫たちの生活を描いて「ボリナージュのミレー」になることを目指していたフィンセントでしたが、デッサンの腕を上げるためには、ボリナージュで独学していても何ともなりません。またもや徒歩で、こんどはブリュッセルに移動します。
ブリュッセルを選んだのは、「立派な作品」をたくさんみることができるからでした。さらに、グーピル商会ブリュッセル支店長のシュミットを訪ね、助言も求めました。シュミットはフィンセントに美術学校にはいることを薦めてくれました。しかし、フィンセントはいまひとつ気乗りがしません。
かわりに、フィンセントにとっては最適の人物をテオが紹介してくれました。パリで修行した後、ブリュッセルのアカデミーでも絵の勉強を続けていた画家志望の青年、ラッパルトでした。ラッパルトは裕福な貴族の息子で、フィンセントより5歳年下でした。内気な性格でしたが、フィンセントとはウマがあったようです。フィンセントの死後、かれはフィンセントの母親に「この力戦苦闘する痛ましい人物を目にした者はだれでも、自分自身にあまりに多くを要求してそれがために身も心も滅したこの人に対する同情を感ぜざるをえませんでした。かれは大芸術家の種族に属していました」と書いています。フィンセントはこのラッパルトの画室をときどきたずね、芸術に関する議論を交わしました。パリでも勉強してきていますから、絵画の腕前はラッパルトの方が圧倒的に上だったはずです。しかし、議論の主導権を握るのはフィンセントだったようです。ずっと孤独な生活を余儀なくされてきたフィンセントにとって、久しぶりに、話し相手ができて、心休まる日々でした。
フィンセントは当時の標準的教科書だったバルグの「デッサン教則本」を参考に猛烈な勢いでデッサンの勉強を続けました。しかし、ラッパルトの通うアカデミーには入学しませんでした。代わりに独学で解剖学を勉強し、ブリュッセルで知り合った貧乏画家から安い授業料で遠近法を教えてもらいました。冬が来て再び「くしゃくしゃする(No 140. 1881年1月)」ときがたまに襲ってくるため、テオに手紙でくってかかることもありましたが、この年は何とか乗り越えました。
春になるとラッパルトは田園風景を描くためにブリュッセルを旅立っていきました。一方、フィンセントはブリュッセルにやってきた父親から、ずいぶん前からテオが密かにフィンセントを援助してくれていて、父親からの援助だと思っていたお金のほとんどもテオからでたものであっことを知らされます。ブリュッセルでの生活にはかなりお金がかかりますし、なるべくテオへの負担を減らしたいと思ったのでしょう、フィンセントは再びエッテンの両親の元に戻ります。
エッテン (1881年4月(28歳)~1881年12月(28歳))
「帰ってきた放蕩息子」としかみられなかったはずですから、肩身が狭く、居心地も悪かったでしょうが、結局、半年以上、フィンセントはエッテンに腰を落ち着けることになります。そして、戸外の風景や農夫などのデッサンにはげみました。そのうち、ラッパルトが訪ねてきたので、二人は連れだって、写生旅行に出かけました。しかし、ラッパルトが帰ってしまうと、フィンセントはデッサンに行き詰まりを感じ始めます。なんとしても人物像が思うように描けなかったのです。

「泣いている老人」1881年
この年の夏の終わり、フィンセントはハーグに向かいました。ハーグ派の画家マウフェの助言を求めるためです。グーピル商会に勤めていたハーグ時代、フィンセントはマウフェと親しくつきあったことがありました。それに、ちょうど、この頃、マウフェはフィンセントの従姉妹と結婚したばかりでした。著名な画家でしたが、顔見知りで親戚のマウフェは気楽に相談できる相手だったのです。
マウフェはフィンセントのスケッチを見て、ペンを捨て、絵筆やチョークでデッサンし、また、画集ではなく生きたモデルを使って素描の勉強をすべきだとアドバイスしてくれました。この的確な助言のおかげでフィンセントの技量はあがったようです。「僕の素描に変化が起きたということだ。描き方も、その結果も変わったのだ…….ぼくは人物素描についてのよりすぐれた眼識がえられた…….これまでとうてい無理だと思っていたことでも、いまでは徐々にできるようになってきた(No 150. 1881年9月)」とたくさんの人物スケッチを添えてテオに書き送っています。イラスト画家を目指していたはずですが、絵の具を使っての水彩画も始めました。「彩色するのは同時に素描することだ」というマウフェの言葉に従ったのです。そして、これがフィンセントのなかに眠っていた色彩感覚に火をつけたようです。稀代の色彩画家ゴッホはマウフェによって誕生させられたといえるかもしれません。
絵画の腕前も順調にあがり、このまましばらく両親のもとで静かに修行を続けられれば、本人にとっても家族にとってもそれなりに平和な日々が続いたことでしょう。
ところが、そううまくはいきませんでした。
フィンセントが再び人騒がせな片想いに陥ったのです。

ケー・フォスとその息子
(ヨハネス)
相手は、アムステルダムで神学校受験の手助けをしてくれたストリッケル叔父の娘、コルネリア(「通称」ケー)・フォスでした。フィンセントより2歳年上のケーは当時、病弱の夫を亡くしたばかりで、この夏、息子のヨハンネスをつれてエッテンの牧師館に遊びにきていました。もともと子ども好きだったフィンセントはヨハンネスをかわいがり、よく相手をしてやりました。しかし、それによってケーの気をひこうともしたようです。3人連れだってしばしば散歩にもでかけました。夫を亡くしたばかりのケーからみれば、フィンセントは息子に優しくしてくれる風変わりな従兄弟でしかありませんでした。しかし、フィンセントにとってケーは、家庭をもって、ミレーのように家族のために身を粉にして働きたいという積年の望みをかなえてくれるはずの女性でした。「もっと高い芸術の水準に達するために彼女が必要だし、彼女の影響が必要だ」と思い詰めていました。しかし、意を決して愛を打ち明けると、ケーは「だめです、絶対にだめです」と拒絶しました。フィンセントの激しい思いに恐れをなしたケーはすぐにアムステルダムに帰ってしまいます。
しかし、失恋によって鬱状態に陥ったロンドン時代と違い、フィンセントは、こんどは、えらく強硬でした。「だめです、絶対にだめです」と言う言葉にあきらめるどころか「完全に決着がついてしまったのではない」から絶対あきらめない、と宣言します(No 153. 1881年9月3日)。自分が無理押ししているという噂が流れているのは承知している、恋愛に無理をするのはばかげているとも思っている、それでも、「決着がついてしまったのではない」とあえていうのは、二人が互いに合うかどうかもっとはっきり掴むために、文通をし、一年間自由に交際してみるのはケーにとっても自分にとってもためになることだと思うからだ、というのです。ところが、両親やストリッケル叔父夫妻たち「年寄りども」は自分やケーの気持ちとは無関係に、自分が1000グルデン以上の年収がえられるようにならない限りこの交際を認める気にはならないだろう、とフィンセントは断言します。つまり、自分の経済的無能力ゆえに「年寄りたち」がケーにたいして「通せんぼ」しているのだとフィンセントは頑なに信じていたのです。問題はケーの心ではない、「だめです、絶対だめです」という「一塊の氷」は胸に押しつけて溶かしてやる、とフィンセントは息巻きます。イギリスの時のように「憂鬱になったりはしない…….せっかく元気になったところだから、気を落としたりしない」とフィンセントは吼えます。

ストリッケル牧師
「年寄りども」は、問題はケーの心で、いまだ夫を失った悲しみのなかにあるケーがいう「だめです」は「決定的なもの」だということを承知していました。フィンセントが「彼女以外は絶対にだめ」といっても、ケーは「いやです。かれは絶対にいやです」と答えていたのです。ケーに矢継ぎ早に手紙を書き、返事が全く返ってこないのに「文通している」と言い張るフィンセントを両親は手を変え品を変え説得にかかります。しかし、「せっかく元気になった」フィンセントはケーに会わせろの一点張りです。父親は、当初、フィンセントの「下品な、早まった」行動を非難し、ついで「気狂いじみている」「慎みがない」「家族関係を破壊している」と呪いの言葉を発し、ついには「出て行け」と最後通告を突きつけます。
フィンセントは父親の言葉にしたがいました。エッテンを発ち、テオに懇願してせしめた汽車賃でアムステルダムにむかったのです。そして、ストリッケル牧師の館に現れ、「会わせろ」「会わせられない」の押し問答を牧師夫婦と延々くり返しました。最後には、温厚な牧師も「お前の執念には吐き気がするぞ」と怒鳴りだす有様です。しかし、あきらめきれずフィンセントはランプの炎に手を当て「この手を炎に入れていられるあいだ彼女に会わせてくれ」と懇願します。その後、フィンセントは炎の熱による激痛で意識を失ったのかもしれません。「連中はランプの炎を吹き消したんだと思う」と書いています(No 193. 1882年5月14日)。結局、ケーに会えないまま、フィンセントはアムステルダムをあとにします。ほどなくフィンセントは愛情が「枯死するのを」感じます。そして「一種の空虚、はかりしれない空虚」が訪れます。
再び、ハーグ (1881年12月(28歳)~1883年9月(29歳))
「家に戻ることもできず、フィンセントはハーグに向かいました。再びマウフェの助言を受けるためです。マウフェは、日中は油絵、夕方は素描の指導をしてくれました。
その後、フィンセントはいったんエッテンに戻ります。しかし、クリスマスがやってくると、フィンセントは教会のクリスマスの儀式への出席を拒否しました。牧師である父親の神経をわざわざ逆なでするような行動でした。再び、父親の口から「出て行け」という怒声が発せられます。フィンセントは再びハーグに向かいました。
フィンセントは再びマウフェの教えを乞いました。マウフェは油絵道具を一式フィンセントに与え、アトリエを確保するようお金も貸してくれました。これで、フィンセントは本格的に油絵の世界に足を踏み入れることになります。一方、かつての上司、グーピル商会ハーグ支店長テルステーフもフィンセントの作品を何点か購入してくれました。さらに、アムステルダムで画商をしているコル叔父からもハーグの風景画の注文が舞い込みます。フィンセントがマウフェの指導のもとに描いた木靴などの静物画はフィンセントにしては例外的なほど形の整った、したがって、「月並みな」ものでした。しかし、月並みなだけに、そのままいけば、「金を稼げる」画家としての一歩が踏みだせたかもしれません。
ところが、ここで再びフィンセントは「女性問題」を引き起こします。

「悲しみ」1882年4月
こんどの相手は、あばた面の年上の娼婦でした。
ハーグに舞い戻った年の冬、フィンセントは「一人の身ごもった女」にでくわします(No 192. 1882年5月)。このシーンと呼ばれる女は「男に捨てられ、その男の子どもを宿して」いました。「みもごったおんなが冬の街頭に立たねばならなかった、パンを得なければならなかった」のを見過ごすことができず、フィンセントはシーンをモデルとして雇います。「十分なモデル代は払ってやれ」ませんでしたが「家賃は払ってやれ」ました。「自分のパンを彼女と分けることによって、女とその子どもとを飢えと寒さから守ってやれた」のです。かれは、シーンを産科病院連れて行き、シーンの住まいをたびたびたずねるようになります。旧約聖書の「ホセア書」の冒頭に述べられた「汝ゆきて淫行の婦人(をんな)を娶り淫行の子等を取れ」というエホバの命令をそのまま実行に移したかのようでした(山本七平「小林秀雄の流儀」新潮社による)。組んだ腕の中に頭を埋めた妊娠した裸婦の側面像を描いた素描「悲しみ」はこの頃のシーを描いたものです。フィンセントとしては珍しくロマンチックなイラスト風の絵で、「僕の一番よくできた素描(No 219. 1882年7月23日)」とフィンセントは誇らしげに書いています。この妊婦は聖書にあるように男の子を産むことになります。
しかし、まもなくシーンが出産という時になって、フィンセントはシーンにうつされた淋病のために入院を余儀なくされます。3週間してなんとか退院し、シーンが入院している病院に着くと、前日、シーンは難産の末、男の子を産んでいました。生まれた赤ん坊をみて感動したフィンセントはシーンと二人の子どもを引き取るために大きな屋根裏部屋を借りて移り住みます。夢にまで見た家庭生活でした。

「ベッドの前にひざまずく少女」
1883年
この頃、フィンセントはベビーベッドに寝ている赤ん坊とそれを見守るシーンの娘の素描も描いています。そこには「家庭生活」の一コマが何気なく描出されていて、「悲しみ」以上に印象的なスケッチです。この子どもたちのスケッチを忘れがたいものにさせているのは、画家の憧れかもしれません。司馬遼太郎がいうように「分際に応じて適当に愛され適当に嫌われ適当にずるっこけて甘えて暮らして」いれば、たいていは子どもの一人や二人はできてしまうものです。しかし、ケーに失恋して愛情が「枯死するのを」感じて以降、フィンセントにとって、たったそれだけのことが、この世で金輪際実現しえない夢物語と思えるようになっていました。それだけに憧れも強烈でした。フィンセントは誇らしげに次のように書き記します。「陰気な気持ちになったとき、荒涼とした浜辺へ歩いていて、長く白い波が糸を引いている灰緑色の海を眺めるのはなんといいことだろう。しかし、何かしら壮大なもの、何かしら無限のもの、何かしら神のことを呼び覚まさせるように感じさせるものがほしいと感じたら、それを見出すために遠くまで行くには及ばない。大洋よりももっと深く、もっと無限でもっと永劫の何かが、朝眼ざめてゆりかごに輝いている日光に喉を鳴らしたり、笑ったりしている小さな赤ん坊の眼の表情の中に見えるように僕は思う(No 242. 1882年11月5日)」。たとえ、その赤ん坊が見知らぬ男の子どもであってもかまわなかったのです。
フィンセントはシーンが出産から戻ってきたら結婚するつもりでした(No 198. 1882年5月14日)。そして、そのことによって世間の信用をなくすことは覚悟の上でした。
しかし、世間の風当たりは予想以上に厳しく、フィンセントは四面楚歌の状態に追い込まれます。生活費を弟に頼る身でありながら、えたいの知れない売春婦、父親もしれぬ子どもたちを養い、結婚しようとしているフィンセントにテルステーフもマウフェもコル叔父も驚き呆れ、許容することができなかったのです。テルステーフもコル叔父もフィンセントの絵を全く購入してくれなくなります。マウフェは手足の石膏像をデッサンするか否かでフィンセントと言い争いになった後、全く会ってくれなくなりました。たまたま砂丘で出会って、フィンセントがもう一度教えを乞うたときも「俺はけっして君には会いには行かない。万事おしまいだ」「お前は卑劣な性格を持っている」と非難するだけでした(No 192. 1882年5月3日)。フィンセントは親戚一同とかつての仕事仲間の顔に泥を塗る恥知らずな人間と愛想を尽かされ、軽蔑されるようになっていたのです。両親も同意見でした。
最後の頼みの綱はテオでした。テオからの送金が途絶えれば、シーンたちを養えなくなり、結婚するどころではありません。
送金をやめるという強硬手段にはでませんでしたが、テオはハーグまでやってきて、散らかし放題のフィンセントの「家庭」のあまりのひどさに驚きあきれ、必死になって結婚を止めようとしました。「ヘール事件」のときのように両親がフィンセントを禁治産者にしてしまうかもしれないとまで脅しました。

「母と子(素描)」1883年
実際、シーンは投げやりで無気力でだらしない、とてもまともな「家庭」生活など営むことのできない女性でした。売春婦になったのも、生活に追いつめられてというよりも、それが手っ取り早かったからにすぎません。叔父たちのいう「自堕落な女」という表現がぴったりの女性だったのです。絵画のための費用を差し引くと、テオからの送金だけでは生活費の捻出も間々ならず、やがて、フィンセントは借金をせざるを得なくなります。フィンセントはこのような状況にあっても絵画を精力的に描き続けており、マウフェの教えを受けられなくなったにもかかわらず、絵画において長足の進歩を遂げていました。絵を描き続けているということでテオは金を送ってくれているのですし、それ以上に、フィンセントにとって絵画は人生において残された唯一の生きる糧であり、やめるわけにはいきませんでした。しかし、このような経済状況にあっても絵画のために金と時間を「浪費」する男は、シーンにとっては不可解な存在でしかありません。彼女はだみ声を張りあげ、フィンセントを罵ります。
やがて、母親の煽動もあって、シーンは再び体を売って金を得る生活に戻ろうとします。テルステーフやマウフェや叔父たちにいわれなくともシーンの「性格が損なわれている」ことはフィンセントもはじめからわかっていました。シーンとの家庭生活を夢見るにあたっては「彼女が立ち直ること」に望みをかけていたのです。その前提条件が崩れてしまうのではどうしようもありません。シーンを更生させるためにがんばってきたフィンセントは精根尽き果てます。そして、結局、彼女と別れる決心をします。自分がいなくなれば彼女がもとの生活に戻るだろうという思いが彼の心を苛みました。しかし、どうしようもありません。
つらい別れでした。とくに、シーンが出産した男の子をフィンセントは我が子同然にかわいがっていました。「あの小さな男の子は僕にとてもなついていた。すでに僕が列車の席についたときも、僕はあの子をひざの上にのせていた。こうして僕らはお互い別れたが、お互い口では言えぬ悲しい気持ちだった(No 326. 1883年9月22日)」とフィンセントはのちに書いています。
ドレンテ (1883年9月(30歳)~1883年12月(30歳))
9月11日、フィンセントはオランダ東北部のドレンテに旅立ちます。ドレンテを選んだのは、ラッパルトからモティーフの宝庫と聞かされていたからでした。しかし、ドレンテでフィンセントが目にしたのはヒースの野と泥炭地がどこまでも続く平坦な大地だけでした。フィンセントはホーヘフェーンという辺鄙な町の宿をとりあえずのアトリエとします。そして、曳き船に乗ってあたりを探索し、景色をスケッチし、油絵を描きました。さらに、ドイツと国境を接するニーウ・アムステルダムという辺境の地にまで足を伸ばします。泥炭採掘に従事するためアムステルダムから流れ着いた人間がこの地にはたくさんいました。町の名前はそのことに由来します。ホーヘフェーン以上に何もない町で、相談できる画家も心を打ち明けられる友人もいませんでした。ここで、フィンセントは泥炭と緑青でできたような暗い絵をいくつか描いています。おそらく、シーンたちとの「家庭生活」に馴染んでいた心に孤独なドレンテの生活は耐え難かったのでしょう、いずれも、暗い心を映し出すかのような荒涼たる絵です。冬が迫り、再び気分も落ち込み始めました。
しかも、この頃、テオはグーピル-ブッソ・エ・ヴァラドン商会の上司、ルネ・ヴァラドンやブッソと意見があわず、商会をやめてアメリカにでも行きたいと心の内をフィンセントに手紙で漏らします。驚いたフィンセントは、いつもと立場を逆転、なんとかテオをなだめようとしました。グーピル商会における自分の6年間の経歴がその後の人生になんにも役に立たず、職を辞めた後はたんなる失業者としてしかみられなかったことを述べ「僕は末輩の一人だったが、君は上席の一人だ。だが、もし、君がそこから出てしまうようなことになれば、いま僕が根無し草についていったような思いを君も味わうのではないかと心配なのだ。だから冷静にこの事実に直面することだ。彼らに抵抗することだ。また初めからやり直さねばならないという困難な状況の中へ何らかの準備もなしに追い出されるがままというのはだめだ…….アメリカに行くことはないよ。だって、向こうへ行ってもパリと全く同じことなのだから」
この手紙が効いたのかどうかは分かりませんが、とりあえず、テオは商会にとどまることにしました。
しかし、フィンセントのほうは暗い冬のドレンテにとても耐えられなくなっていました。結局、12月、絵画やスケッチを宿屋においたまま両親の元に戻ってしまいます。
ヌエネン (1883年12月(30歳)~1885年10月(32歳))
しかし、家に帰ってみると、自分を厄介者のようにみる家族の視線が相当こたえました。「父さんと母さんが僕のことを本能的にどう思っているか僕は感じで分かる。僕を家に入れることに対しては、大きなもじゃもじゃの犬を家の中へ入れるときと同じ尻込みの気持ちがあるのだ。犬は濡れた足で部屋の中へはいってくる????それにひどく粗野だ。まといついてみんなの邪魔になる。また激しく吼え立てる。要するに、こいつは汚らしいけだものだ(No 346. 1883年12月15日)」と自嘲気味に書いています。そして「この獣が家に寄ったのは弱さからだった。この弱さは人も忘れてくれるだろうし、それに2度とこうしたことをくり返すこともあるまいと思う」と書いています。どうやら、すぐにでもドレンテに戻るつもりだったようです。

ヌエネンの牧師館
右手の洗濯室がフィンセントの
アトリエ
相変わらず父親を理不尽に批判もしていました。父親を困らすようなことだけはしないでほしいとテオはフィンセントの自重を促しました。しかし、フィンセントは、ドレンテの時の猫なで声をすっかり忘れてしまったかのように、手紙で猛然とテオにくってかかります。
しかし、しばらくして、フィンセントは父親と膝をつめて話し合い、「洗濯の皺伸ばし機がおいてある我が家の小部屋を僕の品物の置き場として、また必要な場合はアトリエとしても僕が自由に使ってよいということに(No 347. 1883年12月17日)」決まります。父親は牧師館の横にあるこの洗濯室に立派なストーブを据えつけ、木の床を張り、寝台を入れてやったのです。さらに、フィンセントの「身なりや何かの奇態なやり方については一切自分の好きなようにさせ」ることにしました。狭い村にあっては、フィンセントの服装や行動が好奇のまなざしで見られてしまうのは覚悟の上でした。「かれがあんなに遠慮がちなのはかわいそうだけれども、あれが変人だという事実を変えることはできない」とドルス牧師はテオに書き送っています。
こうして、結局、2年近くフィンセントはヌエネンにとどまることになります。そして、200点近くの油絵と300点近くの素描を描き、プロといえるまでに技倆を上げます。
ヌエネンは人口3000にも満たない小さな町でした。家内織物工業が主たる産業で、それ以外には馬鈴薯や麦を栽培し酪農を営む貧しい農家があるだけです。フィンセントは織工、働く農民を精力的に描き、それ以外に、教会、農家、水車などの建物も絵の題材としました。
牧師館脇に自分のアトリエをもてたことで落ち着いて絵画制作に励むようになりましたが、親子関係はまだぎくしゃくしていました。ところが、年が明けた1月17日、母親が汽車を降りようとして足を踏み外し、大腿骨を骨折したことから、皮肉なことに、事態は好転しはじめます。ボリナージュでの経験も役立ったのでしょう、フィンセントは母親の看護において獅子奮迅の働きをみせます。ドルス牧師はフィンセントの献身的な働きを喜び、息子となんとか和解しました。

マルホット・べーへマン
しかし、母親の骨折事件を機に、再びフィンセントの身にやっかいな「女性問題」が起きます。
ただし、こんどはフィンセントではなく相手の女性が問題でした。母親の見舞客の中に、牧師館の隣に住むマルホット・ベーヘマンという3人姉妹の末娘がいました。末娘といっても41歳で、フィンセントより10歳年上のオールドミスです。マルホットは女手のたりないファン・ゴッホ家を手伝ってくれ、母親の骨折が軽快した後も、何かといえばゴッホ家にあらわれるようになります。そして、フィンセントと連れだって散歩にでかけたり、教区の貧しい人々に施しものを届けたりするようになりました。
どういうわけか、ベーヘマン家の3姉妹はいずれも婚期を逸したオールドミスで、マルホットには、どうやら、フィンセントが夫となってくれそうな最後の男にみえていたようです。しかし、「役立たずの画家」フィンセントが婿として失格であるのはベーヘマン家には明らかでした。そのうえ、婚期を逸した二人の姉たちがマルホットに嫉妬し、フィンセントとつきあう妹をことあるごとに責め立てました。
情緒不安定になったマルホットはフィンセントと散歩していたある朝、地面に倒れます。「痙攣が続き、話す力が失われ、何やかやもぐもぐ言うだけで、やっと半分しか聞きとれない…….それは、神経性発作とは別のものだった。突然ぼくは疑念にとらえられて言った。「ひょっとしてあなた何か飲んだでしょう」彼女は叫んだ「ええ」(No 375. 1884年9月)」
飲んだのはストリキニーネで、同時に、解毒剤としてクロロフォルムか阿片チンキも飲んでいたらしく、おかげで、マルホットは一命をとりとめます。この事件を報告するフィンセントの文章は冷め切っています。後の手紙で、マルホットを愛していたと書いていますが、手紙にみられる素っ気なさはケーの時とは雲泥の差です。女性への愛が「枯死」していたフィンセントには、もはや、かつての情熱が戻ってこなかったようです。

晩年のドルス牧師
(フィンセントの素描)
この事件のために、悪い噂がたち、いたたまれなくなったフィンセントは1日のほとんどをヌエネン村の外で過ごすようになりました。とりわけ、農民のスケッチに集中し始めます。そのほとんどは、1人だけの人物画でしたが、いつかは農民の群像も描きたい、というのがフィンセントの願いでした。
しかし、そのうち、冬がやってきて、外出もままならなくなり、ふたたび、フィンセントの気分は沈みはじめます。年が明けた1885年の年初に「ぼくはこんなに暗い気持ちで、こんなに暗い様相を呈した新年を迎えたことがない」と手紙に書いています。父親も「フィンセントのために、早く冬が終わってくれたらいいと思う」と書いています。「かれは戸外で制作できないし、夜の長いのはかれの仕事に適していない」というのです。しかし、同じ時期、ドルス牧師は「今朝、わたしはフィンセントといろいろ話した。かれは優しい調子だった。あれが言うには気分が沈んでいるのはとくにこれといった理由はないとのことだ」とも書いています。
長男に悩まされ続けた父親は3月に入って、フィンセントが「どうにか成功に巡り会えるかもしれない」と手紙に書きます。そして、2日後の3月25日、散歩から帰ってきて、自宅の戸口で倒れます。家に運び込まれたときはすでに息絶えていました。死因は不明です。
父親の死のことをフィンセントは手紙でほとんど触れていません。葬儀に集まった家族や親戚のフィンセントを見る目が耐え難いほどに冷たく、何も書きたくなかったのかもしれません。周囲の非難の目が我慢ならなかったのでしょう、家族、親戚一同がそろって遺産目録を作成している最中、退席してしまっています。

「聖書と燭台の静物画」
1985年4月
しかし、それ以上に、「ヘール事件」が愛情に満ちた父と子の間に修復不可能な溝をつくってしまっていたのかもしれません。
父親が死んだ年の春、フィンセントは一枚の絵を描きました。「聖書のある静物」です。画面いっぱいに分厚い革表紙の聖書が開かれ、その横には燭台に載った火の消えたロウソクが立っています。そして、聖書の前には読み古された小さな黄色い本が放りだされています。火の消えたロウソクは死を意味しますから、聖書ともども、ドルス牧師を象徴しているのでしょう。一方、小さな本はゾラの長編小説「生きる喜び」です。ゾラはフィンセントが賛美し、ドルス牧師が忌み嫌った作家で、牧師の生前、ゾラの本はしばしば父子喧嘩のきっかけになっていました。一方、開かれた聖書の右ページの上には”ISAI”の文字を読み取ることができ、旧約聖書のイザヤ書であることがわかります。イエス・キリストの受難を予言しているということで有名なイザヤ書の53章だろうと推測されています。しかし、この絵に関してフィンセントは、黒や褐色を背景とするとくすんだ白も見事な白にみえるようになることを示すため「一挙に1日で」完成させたと書いているだけです。マネに関するテオの解説に触発されてそのような試みをしたというのです。
この絵でフィンセントが何を訴えたかったのか、いろいろ憶測は可能ですが、よくわかりません。
ドルス牧師の死に前後して、フィンセントは父の死によってもたらされた苦々しい想いを振り払ってくれる題材に取りかかっていました。

「馬鈴薯を食べる人々」1985年4月
父親の死の直前、フィンセントはヌエネンの村はずれにある農家に立ち寄りました。農家にはしばしばかれのモデル勤めてくれていたデ・フロート家がすんでいました。ちょうど、一家は夕食の食卓を囲んでいるところでした。天井からつり下がった薄暗い石油ランプの下、ジャガイモ料理が提供されていました。この夕べの光景はフィンセントにとって啓示でした。かれにとってはレオナルノド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」に匹敵する神々しい農民の「晩餐」だったです。かれはこの光景をもとに農民の群像を描く計画を立てます。いくつもの人物のスケッチを積み重ねたあげく、かれの最初の記念碑的大作「馬鈴薯を食べる人々」を完成させます。
しかし、この大作を完成させた頃、フィンセントにとってヌエネンは耐え難い場所になりつつありました。デ・フロート家の未婚の娘が妊娠し、フィンセントにあらぬ嫌疑がかけられたからです。カトリック教会の牧師は村人たちにフィンセント絵のモデルにならないように言い渡します。人物画に夢中になっていたフィンセントにとってモデルがいないヌエネンは何の価値もありません。
フィンセントはもう一度正式な絵の勉強をしてみる気になっていました。アカデミーに入ればモデルのことで悩まなくてもすみますし、絵について語り合える友人ができるかもしれません。以前からフィンセントはそのよう画家を欲していました。ラッパルトが唯一、それに匹敵する人物でしたが、「馬鈴薯を食べる人々」をけなされたことをきっかけにラッパルトとは疎遠になっていました。ヌエネンの近くの街には素人画家が数人いましたが、ラッパルトのように思いのたけを話し合える人間はいませんでした。
しかし、それでも、そうして中の一人アントン・ケルセマケルスという皮なめし職人がフィンセントの「弟子」になりました。ただし、この「弟子」はフィンセントの絵を描く猛烈な早さと、肉料理をだされてもチーズとパンしか食べようとしない修道僧のような粗衣粗食に圧倒されただけで、とても議論が交わせる相手ではありませんでした。しかし、それでも、このアントン・ケルセマケルスとは、アムステルダムやアントワープの美術館に一緒に連れ立ってでかけたりもしました。そして、そこで、フランス・ハルスやレンブラントの絵に圧倒されます。レンブラントの「ユダヤの花嫁」に魅入られ、朝から晩までパンをかじりながらその前に陣取ってすごしたことさえありました。そして、やがて、このような絵を一日中、心おきなく観られ、しかも、美術アカデミーのある都会にでることをフィンセントは熱望するようになります。
1885年11月、恐るべき集中力と努力で描きあげた膨大な数の油絵とスケッチをヌエネンに残し、フィンセントはアントワープに向かいます。ラッパルトもすすめてくれたことがある有名なアントワープの美術アカデミーに入学するためでした。
アントワープ(1885年11月(32歳)~1886年2月(32歳))

「青い服の女」
1885年アントワープ
美術アカデミーは1月開始予定でしたので、それまでの間、フィンセントはモデルを雇い、人物画を描きました。
その一方で、アントワープにあるルーベンスの絵画にも熱中しました。ルーベンスが描くピンク色に輝く裸体にすぐにフィンセントは影響されます。「馬鈴薯を食べる人々」にみられた灰色がかった陰鬱な色彩がかき消え、女性の肖像画には、唇や肌に混じりけのない強烈な赤が使われています。
1月にようやくアカデミーに入学しました。しかし、アカデミーの教師たちは超保守的な時代遅れの連中で、フィンセントはすぐに衝突してしまいます。毛皮の帽子に家畜商人の青いスモックという異様な風体でアカデミーに現れたフィンセントは、恐るべき勢いで男性モデルを描き始め、たちまちのうちに、カンヴァスも床も絵の具だらけにしてしまいます。アカデミーの校長は怒り狂い、すぐに、フィンセントをデッサンクラスに格下げしました。デッサンクラスでも、フィンセントは持参したデッサンを床いっぱいに広げて教師にみてもらおうとして、騒動を巻き起こします。フィンセントが床に広げたのは古典的な端正なデッサンとは似ても似つかぬ荒々しいデッサンでした。たちまち、学生たちが一斉に集まってきて、収拾がとれなくなります。学生の多くはその珍妙なデッサンを嘲笑いました。しかし、その強烈な線に魅了され、まねようとするものも現れ、教師を激怒させます。油絵コースから外され、陳腐なデッサンを強要するアカデミーに飽きたらなくなり、フィンセントはアカデミーの学生たちが夜に開催しているデッサン・クラブにも顔をだしてみました。しかし、モデルを描くことができる以外、アントワープでの絵画修行から得ることがほとんどありませんでした。
そのうち、とてもアントワープにはとどまっていられない状態になってきました。乏しい資金を画材やモデル代に回してしまったために満足に食事も摂れず、肉体的にぼろぼろになってきたのです。歯も10本以上が抜けかかっていました。栄養失調が原因でしょうが、他にも歯が抜ける理由があったようです。歓楽の街アントワープでどうやら梅毒に罹患してしまったようなのです。その上、冬がきて、友人も恋人も家族もおらず、耐え難いほどに気分が落ち込んできました。
これ以上アントワープにいても成果を上げられる希望はなさそうでした。数ヶ月しかたっていませんでしたが、またしても、フィンセントは他の場所に移りたいとテオに訴えるようになります。
アントワープでフィンセントはルーベンス以外にもう一つ強烈な絵画体験をしていました。日本の浮世絵です。浮世絵の大胆な構図と明快で単純な色調に魅了されたフィンセントは下宿の壁を浮世絵で埋め尽くします。ルーベンスと浮世絵に開眼したフィンセントはさらに新しい絵画経験を熱望するようになります。そのためには方法は一つしかありません。さまざまな傾向の絵画芸術が渦巻いているパリにでることです。そして、実際、パリで、フィンセントは新たな絵画を切り開こうとしている天才たちとその傑作絵画群に出会うことになります。
「20歳の年、フィンセントはハーグのテオに「たいていの人は充分に美しいものを見いだしはしない」とロンドンから書き送っています。そして、自分が好きな画家の名前を何十人も書き連ねていますが、その中にはマネやドガの名前は入っていません。しかし、フランス政府による官製展覧会サロンの落選者による、いわゆる「落選者展覧会」でマネの「草上の食事」が大スキャンダルを巻き起こしたのは、その9年前、1863年のことです。
マネほど不思議な画家もいません。裁判官の父を持ち、裕福な家庭に生まれたかれは、ドガにいわせると「骨の髄までのブルジョワ」でした(「マネ」ピエール・シュナイダー 高階秀爾監修 タイム ライフ インターナショナル)。パリの生活を愛し、つねに洗練された服装に身を包んだマネの夢は、サロンで賞を取り、流行画家として優雅な生活を送ることでした。そうするためには、アカデミーの陳腐で退屈な画風を遵守すればよく、それができるだけの腕前をマネはもっていました。
ところが、彼にはそれができなかったのです。

クールベ「画家のアトリエ」
彼の先輩に、クールベという画家がいました。世間を騒がせることを生きがいにしているような男で、その絵はその社会主義的発言とともにつねに物議をかもし、自身、それを楽しんでいました。
問題となったのはかれの画題でした。古代ローマとか、ギリシャ神話などが画題の主流を占める当時のフランス画壇にあって、かれは故郷のオルナンの農夫をはじめとして身近な人間や風景を描いたのです。この「目に見え、手に触れることのできるものを表現する」レアリズムは近代絵画に一歩近づくものでした。しかし、画題や発言は革新的でしたが、クールベの画法は伝統的なものを踏襲していました。クールベに辟易していたアカデミーの保守派も、かれが伝統的な「巨匠」の腕前を持っていることは認めていました。そして、クールベはサロンで一旦は成功を収めます。

マネ「草上の食事」
一方、マネには世間を騒がせようとする気などぜんぜんありませんでした。しかし、伝統的手法で描こうとしても、彼の画家としての本能がいうことを聞きませんでした。かれは「絵を描くたびに、泳ぎを知らずに水に飛び込むような思い」でいました。確立された伝統の技術に頼らず、おのれの感覚を偽ることなく、誠実に描こうとしたのです。そのようにしてできあがった絵は、ルネッサンスに確立されて以来延々と引き継がれてきた遠近法を基盤とする絵画とは似ても似つかぬものになってしまいました。丹念なぼかしがほどこされず、画家の絵筆を意識させるタッチで色塗られたキャンバスは、単純明快な色彩で埋めつくされました。保守的な目には、かれの絵は故意に「稚拙」に描いた「乱暴」で「反逆的」なものにしかみえませんでした。明るく美しい色調で構成されたキャンバスも「けばけばしい」と罵声を浴びせられました。しかし、目の前にあるものをそのまま切り取ったようなかれの絵は異様に生々しい印象を人々に与えました。クールベが自慢した絵画の真の意味での革命は、革命という物騒なものとはおよそ無縁の「骨の髄までのブルジョワ」によって引き起こされたのです。
マネの絵はつねに物議を醸しました。「草上の昼食」では、黒いジャケットを着た男性の横で白い肌の裸の女性がこちらをみている情景が描かれました。会場に押しかけ、これをみた大衆は「あばずれ女が恥ずかしげもなく裸になってこちらを見つめている」ことに激怒しました。しかし、マネは自分で感じ取ったもの正直に描きだしたにすぎませんでした。かれにとって問題だったのは、自らの肉眼が美と感じたものをいかにキャンバスに定着させるかということでした。大事なのは、画面の構成であり、色彩であって、画題は二次的なものでした。しかし、当時、かれが苦労して描き出しものに「美」を感じてくれる人間はあまりいませんでした。しかし、それでも、本能に引きずられるようにして、自らの願望とは裏腹に、マネは「何を描くか」ではなく「いかに描くか」を問題とする近代絵画への道をこじ開けてしまったのです。

モネ「印象、日の出」
パティニョルのマネのアトリエにはピサロ、モネ、ルノワール、シスレーといった若い前衛画家たちがマネを慕って集まってくるようになりました。マネと違い、かれらはアカデズムに沈滞している当時の絵画を新しい感性、新しい技法で変革しようとする確信犯たちでした。かれらはマネのアトリエ近くにあるカフェ・ゲルボアに毎週木曜日に集い、気炎を上げました。かれらもマネ同様、みずからが美として感じ取った目の前のものを誠実にキャンバスの上に再現しようとしました。しかし、目の前にあるものは絶えず変動し、流動します。情景にも人物にも固有の色というものはない、光とともに移ろいゆくものだ、いかなるものにも無限の色彩が存在しうる、と当時の光学理論は説いていました。そこで、かれらは、移ろいゆく情景の色彩をとらえようとして、それに見合った画法を編み出していきました。しかし、この革新的な絵画はマネ以上にアカデミーからも一般大衆からも受け入れられず、どこにも発表の場がありませんでした。
そこで、1874年4月14日、かれらは写真家ナダールのスタジオでグループ展を開催しました。展覧会には新聞記者、美術評論家に加え、物見高い一般大衆も押しかけ、嘲笑を浴びせかけました。とくに、乳白色に靄むオレンジ色の日の出の中をこぎ出していく船を描いたモネの美しい絵「印象、日の出」は、その表題とともに批評家の批判の矢面に立たされました。そして、このグループは印象派という「蔑称」で呼ばれるようになります。
クールベから印象派に至る革新的流れを創り出したのは天才たちの鋭敏な感受性と当時の光学理論でした。
しかし、その裏にはこの時代になされた技術革新の数々がありました。
一つはイギリスで発明された錫製の絵の具チューブです。この「魔法」のチューブのおかげで、画家は顔料を溶き、絵の具を作る作業から解放され、アトリエを飛び出し、戸外で自由に絵画制作にいそしむことができるようになりました。
もう一つは、鉄道です。鉄道の開通によって、画家は鉄道開通以前とは比べものにならほどさまざまな景色、事物を自らの肉眼で観察し、描けるようになりました。
しかし、なんといっても決定的な影響を及ぼしたのが写真の誕生です。
写真が実用化されると、現実の事物を模写するという有史以前からの絵画の機能が無用の長物となりました。絵画というものの機能が画家たちの手元に引き寄せられました。いかに描くかが主題に躍り出たのです。
そして、写真は画家の「視覚」をも変革しました。
ヨーロッパの画家は、写真誕生以前から光学器械を活用していました。暗い部屋の中にいると、小さな穴から忍び入ってきた外界の景色が壁に逆さまになって映しだされるさまをみることができます。画家たちはこの原理を利用したカメラ・オブスキュア(暗函)を絵画制作に用いました。ピンホールを通して入ってきた外界の事物や人物はレンズとプリズムを通して暗函の上にはめ込まれたガラス板に鮮鋭な像を結びます。このガラス板の上にトレーシングペーパーを置けば、画家は景色や人物を写し取ることができ、それを下絵として利用することもできたのです。
15世紀頃にはすでに画家たちはこの暗函を使っていたようで、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿のなかにもカメラ・オブスキュアの原型が書き留められています。初期の作品では遠近法に難がみられるフェルメールも、確証はありませんが、暗函を活用したと推測されています。立体を平面に投影する暗函は遠近法の問題を解決する糸口を提供してくれる器械でもあったのです。実際、静謐な雰囲気をたたえたフェルメールの傑作絵画群は、写真画像を昇華させたものにみえないこともありません。また、長らく忘れ去られていたフェルメールの絵が19世紀後半にいたって、突然、再評価されるようになったのも、写真の誕生によって人々がカメラ・オブスキュア的画像美に慣れ親しむようになっていたせいかもしれません。
暗函のガラス板に載せたトレーシングペーパーを感光板に変えれば写真ができあがります。しかし、写真の登場までにはかなりの年月を要しました。塩化銀を含ませたネガ用紙やヨウ化銀を付着した銅版を用いてイギリスやフランスで写真術が実用化されたのは、暗函が発明されてから数百年を経た1839年のことです。
写真が誕生すると、当然のことながら、画家たちは多大な興味を示しました。
19世紀前半に活躍したロマン派の巨匠ドラクロワは、さまざまなポーズのモデル写真を所有、これをもとに絵を描いたいわれています。一方、ドラクロワと相並ぶ古典派の巨匠アングルは、ドラクロワほど無邪気に写真の登場を喜べなかったようです。絵画を保護するために写真を規制することさえ提案したほどでした。しかし、描写の天才アングルが正確に像を写し取る写真に魅せられないはずはありません。「写真は芸術の下僕にすぎない」と呟きながら、ドラクロワ同様、モデルの写真を隠し持ち、どうやら、晩年の傑作「泉」を描く際にも利用したようです。
ただし、ドラクロワやアングルの場合、写真が誕生したのはかれらがみずからの画風を確立したあとのことでした。写真の精細な画像に驚嘆しつつも、写真によってかれらの視覚が本質的な変革を迫られることはありませんでした。そのことを痛感していたドラクロワは「この偉大な発明はあまりに遅すぎた、もっと早く発明されていれば、自分のビジョンもかわっていただろうに」と嘆いています。
ところが、写真の誕生と相前後するように生を受けたマネやドガや印象派の画家たちにとって、物心ついた頃から写真は当たり前の存在でした。画家として出発する以前から、おそらく、写真画像はかれらの視覚のなかにすり込まれていたでしょう。そして、そのことが、ルネッサンス以来の「絵画信仰」を覆すことになります。
中世ヨーロッパの絵画は図像的、観念的なもので、目にみえたものをそのまま写し取る写実描写ではありませんでした。宗教画においては、宗教的尺度によって人物の大きさが規定され、空間のどの位置にあろうと、キリストやマリアや聖人は大きく描かれました。しかし、信仰によって秩序づけられたこの平板で図像的な「主観的」絵画を人間復興の意気に燃えるルネッサンス絵画が打ち壊します。画家たちは見えるがままの人物、風景を描こうとするようになったのです。遠近法はそのことを象徴する技法でした。透視図法や空気遠近法による3次元的空間に事物や人間を配置し、画家は、現実感溢れる生き生きとした写実的絵画を描くようになります。
この生気に満ちたルネッサンス絵画の裏には重要な前提が隠されていました。信仰による図像的、観念的絵画よりも、「みえるがまま」に描かれた写実的絵画の方が万物の真の姿を映し出しているという信念です。
ルネッサンス以降、15世紀から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパ絵画は、このように、客観的世界と主観的知覚認識が一致するという前提のもとに描かれました。ルーベンスの流麗な裸体、レンブラントの強烈な光と影に彩られた人物像など、この間、さまざまな魅惑的で個性的な絵画が描かれました。しかし、表現法に差はあっても、ルネッサンス以来のこの絵画信仰に疑問を抱く画家はいませんでした。「真に迫った」写実的絵画がルネッサンス以降の絵画の主流でした。そして、「写実的」でありさえすれば、空想の天使も神も、「客観的世界」を引き写したものとみなされました。その一方で、たとえば、客観的世界の住民とはいえないような深い陰影を帯びた長いシルエットのエル・グレコの宗教画は、印象派が花開く19世紀後半まで、忘れ去られました。
しかし、写真がルネッサンス以来のこの絵画信仰を覆します。
人間は、網膜という感光板に映し出された外界をそのまま感じとるわけではありません。脳の選択機能によって「無用」な部分に抑制がかかり、逆に、「重要」な部分は、心理的要因によって実際以上に拡大されます。自分の手が、近くにあっても、遠くに離れていても同じ大きさにみえるのは、その1例です。そして、ちょうど写真誕生直前あたりから「写実的」絵画が客観的世界を引きうつしているという信念を揺るがす考えが出現します。たとえば、19世紀初頭、ゲーテは「色彩論」で、人間を取り巻く世界は、人間の視覚の特性によって「歪む」ことを主張しました。カントも客観的世界と主観的世界が同一ではあり得ないことを論述していました。
19世紀なかばに誕生した写真はそのことを理屈ではなく、目にみえる形で一瞬のうちに悟らせました。写真に写しとられた事物は、人間が感知しているものと明らかに異なっていました。銀板という感光体と人間という感光体は異なる画像をつくりだしていたのです。ものの見え方は一定ではなく、人間というフィルターを通すと見え方はさらに多彩になるいうことを写真は如実に示していました。それまでも、人間という感光体で「歪められた」画像が、絵画の魅力の源泉になってきました。しかし、写真によって「ありのままの世界」を引き写す必要性から解放された絵画は、人間によって「歪められた」画像だけを追求していくことになります。
しかし、じつは、写真画像も、観光板、レンズ性能、露出時間によって千変万化し、一定ではありません。そして、条件によっては、思いがけない、独特な画像を生みだします。人間の脳のフィルターを通さないそうした写真画像に「美」をかんじとる画家も現れました。その代表ともいえる存在がドガです。写真に魅了されるあまりドガは念入りに考え抜いた構図の写真を何枚も撮影しました。「芸術」写真家の元祖とでも呼ぶべき画家だったのです。かれは、また、写真をもとに絵画も制作しています。自画像を初めとして、絵画の基になったと推測される写真やネガがいくつも残されています。とくに、馬やバレリーナの動きの瞬間を切り取った写真にかれは魅せられました。そして、それらの写真をもとにして、馬やバレリーナの名作をいくつも制作しています。ただし、ドガは動きそのものに興味があったわけではないのかもしれません。ドガの描いた馬やバレリーナの絵には、動きよりも、むしろ、静寂が支配しています。動きの瞬間を切り取った写真画像にドガが魅了されたのは、どうやら、永遠に停止した時間の静寂なる美だったようです。劇的で激しい動きを鮮やかな色彩によってキャンバスに定着させたドラクロワとは正反対の古典的で静的な画風のアングルに傾倒したドガのことですから、これは、当然のことかもしれません。
意識的に写真画像の美をキャンバスの上に書き留めようとするドガのような画家がいる一方で、無意識のうちに写真画像がしみこんだ自らの「視覚」が美と感じるものをなんとか描こうと悪戦苦闘する画家もあらわれました。
マネです。
実際、スナップ写真のように情景を切り取ったマネの生々しい絵画は写真体験がなければありえないものでした。ぼかしを施さない、明瞭なコントラストの画面は、写真そのものです。ブルジョア家庭において写真に囲まれて育ったかれは、おそらく、写真が映し出す映像の美に知らず知らずのうちに感化されていたのでしょう。
画家になるためにマネは伝統的な画塾に長年通い、アカデミックな画法を習得しています。また、ルーブル美術館に足繁く通って、ゴヤ、ベラスケスなど過去の巨匠たちの絵画を熱心に研究しました。
しかし、旧来の画法では写真画像がすり込まれたかれの網膜が感じ取る美をキャンバスの上に定着することはできませんでした。凡庸な画家であれば、おそらく、そこであきらめ、従来の画法で絵画を描き続けたでしょう。だが、この天才はあきらめませんでした。写真によって変質したみずからの視覚に忠実に従ったのです。伝統に頼らず「絵を描くたびに、泳ぎを知らずに水に飛び込むような思い」で、自分が信じる美を描くべく、悪戦苦闘しながら、新たな表現方法を模索したのです。奥行きの縮まった、即物的で、生々しい色彩のマネ絵画の誕生です。
ルネッサンスに創意工夫がなされた遠近法を基盤とする伝統的西洋絵画はマネを起点として20世紀に向かって解体していきます。固定された「客観的」視点は、流動的で「主観的」な視点にとってかわられます。レンズと感光板が写し取った画像は人々の視覚を変質させ、画家たちにはこれまでにない自由が与えられました。
しかし、皮肉なことに、この与えられた自由のなかで、画家たちはもがき苦しむことになります。何一つ手本はなく、それまでの絵画手法を一旦、ご破算にして、一人一人創意工夫して自分の「視覚」をキャンパス上に定着させねばならなかったからです。目を覚まさず、アカデズムの中にどっぷりつかったままのほうが画家としてはよっぽど楽でした。しかし、新たな視覚世界に覚醒し、自分に忠実であろうとする画家たちに、後戻りは許されませんでした。
ちょうどその頃、誠実な画家たちが模索していた表現方法にヒントを与えてくれるものが海の彼方からやってきました。日本の浮世絵です。版画という手法の限界を逆手にとって、北斎、広重ら東洋の孤島の天才絵師たちは濃淡のない明快な色調で人物や情景を活写していました。ルネッサンス以来の絵画手法以外でも現実を引き写すことができることを示すお手本ともいうべきものでした。19世紀後半に活躍した美術評論家ロジェ・マルクスは近代絵画における浮世絵をルネッサンス芸術における古代ギリシャ・ローマ芸術になぞらえているほどです。マネや印象派の画家たちは東洋の版画に鼓舞され、勇気づけられました。そして、後年、フィンセントも浮世絵の熱狂的な「信者」になります。
なぜ、19世紀後半のフランスがマネ、ドガ、セザンヌ、モネ、ルノワール、スーラ、ゴーギャンといった天才たちを折り重なるように輩出したのか、絵画の革命時代のさなかにあったとはいえ、不思議というしかありません。しかし、それも、今になって言えることで、当時、印象派の天才たちは奇妙な反逆を試みる風変わりな画家集団ぐらいにしかみられていませんでした。いまはその名前さえほとんど忘れ去られてしまっているアカデズムの「大家」たちにくらべ、印象派はとるに足らない存在でした。グーピル商会のような国際的有力画廊においても事情は同じでした。フィンセントがグービル商会のロンドン支店からパリの本店に配置換えになったのは1875年ですが、「第一回印象派展騒動」があったのは、その前年の春です。しかし、グーピル商会の「絵の専門家」たちは、商品価値皆無のこの新しい絵画の動向を気にもとめていなかったようです。宗教的情熱に燃えていたということもあるでしょうが、当時、フィンセントが印象派について何の注意も払っていなかったのはこのためだと思われます。
画家になることを決心して3度目にパリに足を踏み入れたとき、フィンセントは、ようやく、印象派の絵画革命に開眼します。しかし、それには、国際的画廊のモンマルトル支店長に抜擢されていたテオの慧眼が少なからぬ影響を与えていました。フィンセントと異なり、テオは実務能力の高い、穏和で、常識的な人間でした。しかし、それでいて、内に芸術への熱い思いを秘め、新たな地平を広げつつある絵画革命に共鳴できるだけの高い芸術家的資質も備えていました。保守的な画廊でサロン入選者の陳腐な絵画や銅版画を扱って経営手腕を発揮しながら、一方で、印象派の予言的メッセージも十分理解していました。支配人としての権限で密かにモネ、シスレー、ピサロ、ドガたち印象派創始者たちの絵を買い集め、画廊の中二階に展示、革命家たちのパトロン的存在になっていたのです。ドガなどはこの中二階以外での自らの絵の展覧を許可せず、かれの絵を見ようと思えばテオの店に来るしかありませんでした。そんな弟がいるパリへフィンセントは飛び込んでいきました。この天才は即座にこの絵画革命の意味するところを理解します。
ただし、パリにきたとたん、テオへの手紙は途絶えますから、パリ滞在の2年間に何があったのか、フィンセントの言葉による解説はなくなります。しかし、パリ時代の絵画がフィンセントに何が起きたのかを如実に語ってくれます。アントワープで明るい色彩に目覚めつつあったとはいえ、パリ以前のフィンセントのキャンバスはくすんだ、暗い、中間色の、茶色や青や緑で蔽われていました。しかし、パリに移り住んだ途端、キャンバスは明度を上げ、単純で明快な色調で支配されるようになります。
印象派グループ展は1874年から1886年まで8回開催されました。1886年にパリに出てきたゴッホは、スーラやゴーギャンなどが参加した最後の印象派展をみることができました。しかし、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガといった個性的天才が寄り集まったこのグループはいつまでも平穏ではいられませんでした。各々の画家が独自の道を歩み始め、とくに、フィンセントがパリにきた頃は、ピサロがシスレー、シニャックらの「点描派」に肩入れしたため、グループ内に決定的な亀裂が入っていました。フィンセントは印象派が「惨めな内輪もめ」ばかりくりかえし、「あらゆる面でお互いに相手を裏切ろうと夢中になっている」と毒づいています。
踏み出した歩みは輝かしいものでしたが、前にも言いましたように、マネに始まり後期印象派へと至る絵画革命は画家1人1人に「泳ぎを知らずに水に飛び込むような」覚悟を要求して、恐るべき重圧を与えました。サロン入選者たちのようにアカデズムに安住せず、何から何まで自分自身で一から作っていかなければなりません。マネにすでに現れていた「自由の苦しみ」が、かれに続くすべての画家にまとわりつくようになります。フィンセントを襲った悲劇にも、そうした要因が関与していました。
さらに、革新的画家たちは世間の無理解とも戦わなければなりませんでした。19世紀後半から20世紀にかけて次から次へと現れてきた絵画の天才たちの中に、悲惨な生活を強いられるものが少なくなかったのは、一つには、当時の経済的停滞、絵画市場の縮小のせいだといわれていますが、やはり、なんといっても、革命家たちのイマジネーションが世間一般の相当先を進んでいて、その断絶のために、かれらの創り出すものにだれもお金を払おうとしなかったのが最大の原因といえるでしょう。最終的には世間も天才の画像に説得されるのですが、その頃には、画家はもうこの世にいない、ということが少なくありませんでした。ゴッホも例外ではありません。「しかし、いまとなって、よくあることですが、だれもがかれの才能をさかんに賞めたてています」とテオが母親に書いたのはゴッホが自殺したあとのことでした。
再び、パリ (1886年3月(33歳)~1888年2月(34歳))
当時、テオは愛人と同棲していました。そこへ、強情で強烈な個性のフィンセントがやってくれば収拾のつかないことになるのは目にみえていました。当然、パリに来たいというフィンセントをテオは必死に食い止めようとしました。しかし、3月初め、店にいたテオのもとに黒いクレヨンによる走り書きが届きます。突然来てしまって申し訳ないが、ルーブル美術館で待っている、というフィンセントの伝言でした。夜行列車で朝着いたというのです。こうなっては、あきらめるしかないことをテオは承知していました。テオにとって苦行ともいうべきフィンセントとの同居生活が始まります。
フィンセントがパリで最初に影響を受けたのはマネやセザンヌらとも交流のあった孤高の画家、モンティセリでした。テオが連れて行ってくれたプロヴァンス通りのドラルベイレットの店でかれの絵画をみたのがモンティセリに熱中するきっかけでした。原色による大胆な色彩と、厚塗りの荒々しい筆触による躍動感溢れるモンティセリの絵にフィンセントはすぐに染まります。当時、テオの狭い下宿でフィンセントが描いたひまわりを初めとする花の静物画は、盛りあげられた絵の具の鮮やかな色彩で輝いています。
6月になってゴッホ兄弟はモンマルトルにある広いアパートに移り住みます。おかげで、フィンセントにもアトリエとすべき個室が確保されました。引っ越してすぐ、アパートの隣人、ポルティエの紹介で、フィンセントはピサロの息子、リシュアンと知り合いになります。そして、やがて、印象派の創設者の一人ピサロにも教えを乞うようになります。セザンヌのよき相談相手でもあったこの「親切老人」はゴッホを励まし、暖かな助言を与えてくれました。ピサロはフィンセントの死後「この男は気が狂うか、我々を置き去りにするか、どちらかだろうと思っていたが、どちらもやってのけるとは思わなかった」と述懐しています。

コルモン画塾
画架の前で絵を描いている人物がコルモンで、左手前に背中を向けて座っているのがロートレック。
やがて、官展の審査員をつとめるコルモンの画塾に通い始めます。もともと、アントワープで断念した正式な絵の勉強をコルモンの画塾で再挑戦することがパリにきた最大の理由でした。少なくともテオにはそう言って、テオのパリにおける気ままな生活に土足であがりこんできたのでした。
コルモンはアカデミー派の大物でした。しかし、その画題というのは「毛皮を着たネアンデルタール人」などという風変わりなものでした。そのうえ、「パリで一番貧相な男」と陰口をたたかれながら3人の情婦を同時にかかえているという不思議な精力の持ち主でもありました。しかし、アントワープのアカデミー同様、コルモンの画塾でもフィンセントは得るものは少なかったようです。「古典的手法」で描いた、整ったデッサンや水彩画が残っていますが、マウフェに教えてもらったとき描いたもの以上に、ありきたりな陳腐なものです。結局、数ヶ月でフィンセントはコルモンの画塾通いを止めてしまいます。
ただし、コルモンの画塾では思いがけない収穫もありました。エミール・ベルナール、トゥルーズ・ロートレック、ルイ・アンクタン、ジョン・ラッセルといった有能な若い画家たちと知り合いになったのです。ベルナールとは、その後、終生続く手紙のやりとりを行っていますし、ロートレックのアトリエにも自作のキャンバスを抱えて定期的に訪れ、若い革新的な画家たちの会話に耳を傾ける機会を得ました。もっとも、陽気なロートレックたちの会話にフィンセントはなかなか入っていけなかったようです。それに、せっかく抱えていった自作に目をとめてくれる人間もほとんどいませんでした。しかし、ロートレック自身はフィンセントの人柄と絵画を高くかっていたようです。後年、フィンセントの絵の悪口を言いつのったベルギー画家に決闘を申し込んだほどです。

「タンギー親爺の肖像」
1887年秋
コルモンの画塾以外に、フィンセントは「タンギーの店」にも顔をだすようになります。ジュリアン・フランソワ・タンギーはブルターニュ生まれの画材商で、新しい絵画を理解できる慧眼の持ち主でした。売れない画家には絵画と引き替えに画材をタダで呉れてやったりしていたので、新人画家たちはタンギーのことを聖人のように崇めていました。タンギーはセザンヌにも肩入れし、かれの店にはセザンヌのコレクションができあがっていました。セザンヌのみならず、タンギーの店は革新的な絵画に出会える数少ない場所で、それをみるためにも有望な若手が集まってきました。フィンセントも店に入り浸るようになり、やがて、タンギーの肖像画まで描きます。鮮やかな色彩で心優しいタンギーを見事にとらえた傑作です。
シニャックに会ったのも「美術に捧げられた小さな礼拝堂」、タンギーの店でした。一時期、フィンセントは毎日のようにシニャックとキャンバスを並べて戸外で風景を描きました。シニャックはスーラに傾倒し、この時期盛んに点描を試みていました。その影響をうけ、フィンセントも点描を試みました。しかし、その後、点描は長いうねるような描線にとって代わられます。
やがて、冬が近づき、フィンセントの気分は落ちこみ、いらいらするようになります。せっかくできた画家の知り合いとも議論に激高して喧嘩別れしてしまう毎日が続きました。テオはその余波をものに受けます。「生活はほとんど耐え難いものになっている。もう、誰も僕のところへ訪ねてこようとしない。ここへ来ればいつでも最後には口論になってしまうからだ。その上、かれは無精だから部屋の中はみられたものではない。かれが出ていって自分で生活してくれたらいいと思う。かれもときどきそのことを言う。だが、もしぼくが出ていってくれとかれに言おうものなら、それはまさしくここにとどまる理由をかれにあたえてしまう結果になるのだ。ぼくはかれに対して無能であるらしい」と当時、妹に愚痴っています。そして、「かれのなかにはまるで二人の人間がいるみたいだ。一人は驚くべき才能に恵まれた、優しい、繊細な心の持ち主、もう1人は利己的な、無情な人間…….二人はいつでも正反対の議論をしあっているのだ。気の毒に、かれはかれ自身の敵なのだ」とつけ加えています。

「ジャポネズリー雨の大橋
(広重による)」
1887年10月
フィンセントと別れるべきだという妹の意見に「かれがほかの職業にたずさわっている人間であったら、僕はとっくに君の忠告通りのことをしていただろう」とテオは答えています。しかし、「かれはたしかに芸術家だ。かれがいま作るものがつねに美しいとは限らぬとしても、それが後でかれの役に立つだろうことはたしがだ。やがて、かれの作品はおそらく崇高なものとなるだろう。彼にまともな勉強ができないようなことをしたら、それは恥ずべき仕打ちだということになるだろう」というのです。
春が近づき、戸外で絵が描けるようになると、なんとか事態は好転しました。ベルナールなどと共同制作をするようになり、レストランが並ぶセーヌ川、川に浮かぶボート、公園、庭園を明るい色彩で描いたりしました。
印象派、点描派など様々な新しい絵画に目覚め、夢中になってそれらを吸収する中で、フィンセントはさらに、新たな情熱の対象を見つけます。アントワープで出会った日本の浮世絵です。プロヴァンス通りにサミュエル・ビングという日本趣味の品物の収集家が出している店がありました。大胆な構図と鮮やかな色面で描かれた浮世絵に魅せられ、フィンセントはこの店にしばしば顔を出し、浮世絵を買いあさるようになります。モンティセリ、印象派、点描派の影響で明るくなったフィンセントの絵画は浮世絵の影響でさらに大胆な色調で満たされるようになります。浮世絵に熱中したフィンセントはアゴスティーナ・セガトーリという女性が経営するレストラン「タンブラン」で日本の浮世絵の展覧会さえ開きました
アゴスティーナは当時すでに40代後半のイタリア移民の女性でした。フィンセントが出会ったころは小太りのレストラン経営者でしたが、昔はコローやドガのモデルをしていたこともあり、絵画の造詣が深く、レストランの壁を革新的な絵画で飾って評判をとっていました。

「カフェ・ル・タンブランの女」
1887年
「タンブラン」でフィンセントはよく食事をしていました。ところが、どうも食事代を払っている気配がなく、「ほかのもので払っている」というのがもっぱらの噂でした。実際、フィンセントはアゴスティーナのものとおぼしき裸婦像を描いています。また、浮世絵の展覧会の頃描いたのでしょう、浮世絵の飾られた壁を背景にして、丸テーブルに肘をつき、斜視気味のけだるそうな眼で前を見つめている彼女の絵を描いています。彼女とは痴話げんかじみたことも何度かくり返していましたが、草色を基調としたこの肖像画には、イタリア移民の中年女性が人生でなめてきた苦渋がにじみでています。そこには、アゴスティーナへのフィンセントの思いやりが感じられます。
やがて、印象派の創設メンバーの一人、ギヨーマンともフィンセントは知り合いになります。ギヨーマンはピサロ同様、度量の広い、親切な人物で、フィンセントは他の若手画家たちと一緒にかれのアトリエを訪れるようになります。
さらに、11月には「グラン・ブイヨン」というレストランでベルナールなど数人の若手の画家と「プティ・ブールヴァール」展を開きました。絵は一枚も売れませんでしたが、ピサロ、ギヨーマン、スーラなどが展覧会を観にやってきてくれました。赤痢とマラリヤに苦しめられてカリブ海のマルティニーク島から帰ってきたばかりのゴーギャンと初めてあったのもこの展覧会でした。
展覧会が終わると、冬がやってきて、ふたたび気分が落ち込みはじめます。「悩み、滅入って、かなり病的になり力落ちしていたので、無理やり気分を奮い立たせようとしたためにアルコール中毒に近い状態で??????自分のなかに閉じこもって、希望を持つ元気さえ(544a(553a))」ない状態になっていました。そのうえ、戸外で絵を描いていて通行人にからかわれて激高し、トラブルとなり、路上での絵画制作を禁じられたこともありました。このため、フィンセントは酒を控え、しばらく、室内で自画像を描くことにしました。
おかげで、すこしはもち直しました。しかし、やはり、パリの冬は耐えがたいものがありました。それに、パリで吸収すべきものはあらかた吸収してしまっていました。ありとあらゆる表現方法が渦巻くパリにこれ以上長居をしても、かえって混乱するだけです。「多くの猛者連中や芸術家と夢中になって議論してきたが、まだどうしても希望は持てない(No 544)」という状態が続いていました。どこか静かなところでゆっくりと頭を整理しなおす必要がありました。
こうして、翌年2月、フィンセントはロートレックが推奨していた「太陽のあふれる」南フランスに向け旅立つことを決意します。
出立前日、フィンセントは自分が「まだここにいると弟が思いこんでしまうよう」画室を整頓しました。フィンセントとの同居に耐え難い想いをしたテオでしたが、フィンセントに去られてみると、兄の気遣いにもかかわらず、巨大な穴がぽっかり空いてしまったような空虚感に襲われます。「かれが行ってしまったということがまだ不思議のような感じがする。かれが僕にとってどんなに大切な人であるかをいまになってしみじみと感じる」とオは述懐しています。
アルル 1888年2月(34歳)~1888年12月(35歳)

「花咲く果樹園(マウフェの思い出に)」
1888年4-5月
陽を求めて南に向かいましたが、この年、南フランスの町アルルは記録的な大雪に見舞われていました。長い列車旅行の末アルルに降り立ったフィンセントの前に広がっていたのは雪景色でした。しかし、何ごとにもはじめは前向きなフィンセントは、この時もめげませんでした。「この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しくみえる(B2. 1888年3月18日)」とベルナールに書き送っています。「水が風景のなかで美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで日本版画(クレボン)のなかで見るのと同じような感じだ」というのです。「地面の色を青くみせる淡いオレンジ色の落日。華麗な黄色の太陽」と書き並べ、有名なフィンセントの色彩が手紙の中にすでに輝いています。そして、さっそく、「雪の風景」を描きはじめます。
やがて、アーモンドが花を咲かせ、果樹園では杏、李、桃、桜が芽をふき、フィンセントはそれらを華麗に描きあげました。スウィートマンがいうところの「大地から生まれた花束」です。2年間のパリ生活で吸収した様々な絵画技法がフィンセントの個性を通して開花したような連作でした。同時期、様々な筆遣いを自在に駆使して跳ね橋、ラングロワ橋のスケッチと油絵も何枚も描いています。

「木のある岩山 モンマジュール」
1888年7月鉛筆、ペン、蘆ペン、インク
一方で、一時期、油絵代を節約するために、葦ペンを使って、家並みや岩山などのスケッチを試みたこともありました。アカデミックな正確な描写ではありませんが、その力強い葦ペンの辿った跡を目で追っていくと快感さえ覚えさせられます。フィンセントはテオに書きます。「ポール・マンツはドラクロワの荒々しい高揚したエスキス『キリストの小舟』を見て、「青と緑でこんなにもすばらしいものができるとは知らなかった」と叫びながらかえってきたとかれの評論のなかで書いている。北斎は君に同じ叫びをあげさせる????だが、この場合、君が手紙で「これらの波は鉤爪だ。船がその中に掴まえられた感じだ」と言うとき、それは彼の線、彼の素描によってなのだ。そこで、たとえ、全く正確な色彩とか全く正確なデッサンで描いたとしても、こうした感動を与えることはあるまい(No 533. 1889年9月8日)」。
おそらく、テオが北斎の「富嶽36景」の「神奈川沖浪裏」を論評しているのに答えてフィンセントは書いているのでしょうが、自らのデッサンについても同じことがいえたでしょう。

「夕陽と種撒く人」
1888年6月
やがて、広々とした平原を強烈な色彩で描いた「モンマジュールを望むアルルのクロー平原」、「夕日と種まく人」といった傑作も生まれでます。凄まじい絵画修行の成果がようやく実を結ぶようになりました。この後、真にフィンセント的傑作が次々と描かれることになります。当初、かれは市の北にあるレストランに下宿しました。しかし、ここのレストランは満足のいく食事を提供してくれず、家賃も高く、フィンセントは不満だらけでした。そこで、城壁の門に面したラマルティーヌ広場にある古ぼけた安い家を借りることにしました。小間が二つついた2部屋の家で、内壁は白、外壁は黄色でした。フィンセントとしては、この家を画家たちの「共同制作基地」にする腹づもりもありました。
しかし、借りた当初、この「黄色の家」には家具が何もなく、かといって、割賦販売で売ってくれる家具屋もアルルにはありませんでした。そのうえ、内装もひどい状態で、とりあえずは住むことが叶いません。しかたなく、内装が整うまで、ジヌーという夫妻が経営する「黄色い家」近くのカフェ・ド・ラ・ガールに移り住むことになりました。ジヌー夫妻は親切でした。それに、なによりも、ジヌー婦人のマリーがフィンセントにあわせて様々な料理を作ってくれました。おかげで、パリで落ち込んでいた体調も徐々に回復しました。

「夜のカフェのテラス」
1888年9月
カフェ・ド・ラ・ガールは一晩中飲んで騒ぐ地元の人々のためのたまり場「夜のカフェ」でした。「”夜の放浪者”が宿賃がなかったり、ひどく酔っぱらっていて泊めてもらえないようなとき……安息の場を見出す(No 518. 1888年8月6日)」ところでした。フィンセントはここで郵便夫のルーランと呑み友達になり、やがて、ルーランとその家族の肖像画を描きます。ルーランの肖像画は「ほぼソクラテスみたいな頭部で、鼻はほとんどなきがごとく、大きな額、禿げた脳天、小さな灰色の目、血色のいいふっくらとした頬、ごま塩の大きな髭、大きな耳(W5. 1888年7月31日)」を青い色調で描いた傑作で、この郵便夫の朴訥な優しさがにじみでています。ちなみにフィンセントは「カフェとは人が身を持ち崩し、気狂いになり、罪を犯すところだということを表現しよう(No。534。)」とした「夜のカフェ」も”夜の放浪者”ともども描いています。
ルーランはアルルにおける例外的な友人でした。ルーラン以外には、ジヌー夫妻ぐらいが日常的に話を交わす数少ない顔見知りでした。しかし、かれらはパリで出会った革新的な画家たちのような会話を交わせる相手ではもちろんありません。野性的な顔つきと強烈な赤のパンタロンが印象的なズアーブ兵の肖像画を描いていますが、彼らも、あくまでも被写体にすぎず、日常的に会話を交わすことはありませんでした。ようやく、数人の外国人画家とも知り合いになりましたが、彼らはアルルに魅力を感じておらず、わずかな期間で、アルルを離れていってしまいました。そして、フィンセントだけが取り残されます。
こうして、しばらくすると、またしてもフィンセントは孤独感に苛まされるようになります。

「郵便配達夫ルーラン」
1888年8月
ヨハンナが書いているようにフィンセントの「心の奥には共感や好意や友情に対する非常に大きい願望が」あり、「一緒に暮らして仕事ができるような誰かをつねに求めつづけて」いました。しかし、フィンセントほどそれを実現できる可能性の低い人間もいません。テオが言うようにフィンセントは「慣習というものとは縁を切ってしまって」いました。フィンセントの身なりや挙動を見ればすぐに、かれがありきたりの人物でないことがわかりました。しかし、たいていの場合、気狂い呼ばわりされるのが関の山でした。さらに、「かれのしゃべり方には、聞く人をしてかれを好きになるかそれともひどくかれを嫌うようになるかさせる何かが」ありました。かれは「自分の周りにかれに共感する人たちをもって」いましたが「しかし、また敵も多」かったのです。フィンセントにとって「無関心な仕方で人々と交際することは不可能」でした。「自分が見て間違っていると思えば、批判せずには」いられませんでした。フィンセントの「最良の友人たちにとってすら、かれと仲の良い関係を続けてゆくのは」困難でした。フィンセントが「他の人の感情など少しも問題にしない」からです。
ちょうどそんなとき、ゴーギャンから手紙が届きます。当時、ゴーギャンはブルターニュで窮乏生活を送っていました。せっぱ詰まった彼は、自分を評価してくれている画商のテオから何らかの援助をえるため、遠回しに兄のフィンセントに仲介を求めてきたのです。

ポール・ゴーガン
「美しいアンジュール」1889
パリに出てくる前からフィンセントは「芸術家共同体」構想を温めていました。「ギリシャの彫刻家たち、ドイツの音楽家たち、フランスの小説家たちが到達した澄みきった頂きと同じ高みに登るために描かれねばならぬ絵というものは孤立した個人の力を越えているだろう。だから、それらの絵はおそらく共通の考えを実現するために結びついた人たちのグループによって創り出されるだろう(B6.18888年6月)」というのです。フィンセントはこの夢を執拗にゴーガンとテオに書き送ります。フィンセントを知悉しているテオはそんな夢物語が長続きしないことはわかっていました。しかし、フィンセントの執念に根負けし、とりあえず、月一点の絵と引き替えにゴーガンに150フラン渡す約束を交わしました。これで、ゴーガンは一息つくことができました。しかし、フィンセントの「芸術家共同体」構想には、しばらくの間、生返事で答えていました。
ゴーガンはフィンセントより5歳年長で、傲岸な、自信のかたまりのような男でした。商船に乗って世界中を航海したのち、23歳の時、パリの株式取引所の株式仲買人となります。どうやら商才にも恵まれていたようで、高い年収を得るようになり、結婚して4人の子どもの父親になりました。典型的ブルジョアだったのです。しかし、実業界で成功すると、マネやセザンヌや印象派の絵画を買い集めるようになります。そして、やがて、ピサロに教えを乞うて、自らも印象派風の絵を描くようになり、印象派展に出品するまでに腕を上げます。すると、どのような目算によるものか、自信満々で株式仲買人の職をなげうち、画家としての道を歩みはじめます。

「サント・マリの海岸の漁船」
1888年6月
しかし、ゴーギャンの計算は完全に狂っていました。ピサロでさえ絵画だけで食べていくことが困難な当時の画壇にあって、日曜画家が絵だけで食っていけるわけがありません。あきれはてた妻は4人の子どもを連れて実家のコペンハーゲンに帰ってしまいます。フィンセントがアルルで「太陽に焼かれていた」頃には、ゴーギャンはブルターニュで病気に苦しみ、貧窮のどん底にあえいでいました。しかし、そうした中、浮世絵の明確な輪郭線と単純明快な色調を参考にベルナールたちと抽象的で装飾的な「クロワソニズム(綜合主義)」を確立、ようやく、印象派の影響を脱し、独自の画風による傑作を書き始めているところでした。テオの援助はありがたく頂戴しましたが、その兄と共同制作する必要性など認めていませんでした。
しかし、フィンセントはあきらめませんでした。執拗に手紙でゴーガンとテオに「芸術家共同体」の計画について書き送りました。
ゴーガンを待つ間に、夏が近づいてきました。孤独な生活の中で、「アルルの太陽に焼かれ」ながら、一日中戸外で絵を描く生活が続くようになります。疲れ果てて帰ってくるとテオやベルナールたちに手紙を書く毎日でした。「今度も????きのうのように????大急ぎで書いている。すっかり疲れ切っている。いまも、素描はとても描いてあげられない。午前中の野原の仕事で力の限りをつくしてまったく疲れ切ってしまったのだ。こんなにも疲れさせるのはここの太陽なのだ!同じように、ぼくにはまるっきり自分の仕事の判断もつかない。習作がいいものか悪いものか見当がつかないのだ。麦畑の習作が七枚できた。残念ながら、まるで自分の意に反して、風景ばかりになってしまった。

「ローヌ川の星月夜」
1888年9月
古金色の黄の風景画だが、燃える太陽の下で黙々と一心不乱に麦を刈り取る農夫のように速く、速く、速く、大急ぎで描いたのだ(B9.1888年6月)」その一方で、サント・マリ海岸にでかけて、生まれて初めて地中海を目にし、その沿岸、家並みを描いています。とくに、「サント・マリ海岸の漁船」では滑らかな美しい曲線と鮮やかな色面によって船が描かれ、フィンセントには珍しい優雅な絵になっています。
9月にはいると「ローヌ川の星月夜」を描きます。「空は青緑色で、水はロイヤル・ブルー、地面は葵色」で「町は青と緑、ガス燈は黄色、その反射光は金褐色でそれが緑がかった青銅食まで弱まって」いき「空の青緑の野原には、大熊座が緑色とバラ色に輝き、その青い青がガス燈の金ぴか色と対照をなして(No。543。1888年9月29日)」いました。この頃はほとんど忘我状態で絵を描いていたようです。「このごろのように自然が美しいと、ときどきぼくの頭はものすごく澄み透って、もはや自分で自分を感じず、絵が夢の中のようにやってくる」というのです。そして、戸外での制作がかなわない天候になったとき、反動で憂うつ症に陥るのではと心配しています。

「花瓶の12輪の向日葵」
1888年9月
しかし、夏の間、何よりも熱中したのはゴーギャンがやってきたときアトリエに飾るための向日葵の絵でした。予定では12枚の連作になる予定でしたが、結局、4枚を描いたところで夏が終わり、連作計画は中断されました。ゴッホは原則として自分の目で見たものしか描かない画家だったからです。しかし、4枚の連作に描かれた太陽、聖人、愛を象徴する向日葵は、輝かしい色彩で異様な生命を授けられ、フィンセントの代名詞ともいうべきものとなりました。
秋にはいると、フィンセントはゴーガンを迎え入れるために「黄色い家」にクルミ材の寝台を購入しました。そして、自分のためにも白木の家具を買い入れ、アトリエと台所にガスを引きました。出費は膨大なものにのぼり、テオに気兼ねしたフィンセントは食事代を切りつめ、栄養失調寸前までいきます。ゴーガンの自画像と交換するために描いた「永遠の仏陀の素朴な崇敬者である坊主の像として構想した」自画像のフィンセントは頬がこけ、難行苦行を終え憔悴しきった修行僧みたいです。
「ぼくはいま病気じゃない。しかし栄養をたっぷりとらなければ、またここしばらく描くのをやめなければ、きっと病気になってしまうだろう。じっさいエミール・ワウテルスの絵にあるフェーホ-・ファン・デル・フースの狂気の状態にまたまたなってしまいそうだ。もしもぼくが修道僧であり、画家であるといった、いわば2重の性質を持っていなければ、とっくの昔に、完璧に、そういう羽目に追い込まれているだろう(No。556。1888年10月)」とこの頃書いています。

「自画像」
1888年9月
聖職者の道を放棄した後もフィンセントはキリストへの信仰を捨てていませんでした。この頃、ベルナールに宛てて書いています。「ぼくが感じているようなキリストの姿を描いたのはドラクロワとレンブラントだけだ…….それからレーが描いたのは…….キリストの教えだ…….キリストただ一人だ????あらゆる哲学者たち、魔術者たちなどのうちで????彼だけが永遠の生を、時の無限を、死の否定を、平安や献身の必要とその存在理由を根本的に確実なものであると断言したのだ。彼は<どんな芸術家よりも芸術家として>平安な心で生きた。大理石も粘土も色彩も軽蔑し、生きた肉体によって制作した。つまり、この前代未聞の芸術家、われわれ現代人の神経質な、愚鈍になった頭脳のなまくら器械をもってしてはほとんど想像もつかぬこの芸術家は彫刻も作らず、絵も描かず、本も書かなかった。彼は高らかに断言する??????彼が…….<生きた人間たちを>、不死の人間たちを作ったことを」
「この偉大な芸術家」への信仰を秘めた修道僧であれば狂気に陥ることはあるまい、とフィンセントは信じようとしました。しかし、予感があったのか、信じ切ることができませんでした。そして、万が一そんな事態になったにしても「ぼくの狂気は迫害恐怖症にはなるまいと思う。というのも昂奮状態にある時のぼくの感情はむしろ永遠とか永世とかいう観念につきまとわれるからだ。しかし、とはいっても、自分の神経やその他を警戒しなければならない」とつけ加えています。
テオはゴーガンの制作した陶器を売りさばき、さらに、ブルターニュにおける借金の清算までしてやりました。フィンセントからは相変わらず執拗にアルルに来るようにとの手紙が舞い込んできます。ゴーガンも、もう、ぐずぐずとブルターニュにとどまっているわけにいかなくなってきました。

「アルルの寝室」
1888年10月
10月23日、ついにゴーガンがやってきました。「ひところ、僕は病気になりそうな感じが多少あったが、ゴーガンが来てすっかり気も晴れ晴れとしたので、きっとよくなってゆくだろう(No。557。1888年10月24日)」とフィンセントは有頂天になってテオに報告します。ゴーガンはフィンセントと違って実際的なことも得意で、外食費用節約のために料理を作り、計画的な生活費の配分で出費を抑え、たちまちフィンセントの生活を「支配する」保護者の立場に立ちます。さらに、絵画においても、フィンセントに大きな影響を与え、この時期、フィンセントは「ゴーガン風」の絵画をいくつか描いています。
しかし、強烈な個性の天才二人の共同生活は長続きしませんでした。
ゴーガンはアルルについてまもなくテオに「あなたの兄さんは実際すこしばかり興奮しています。しばらくすれば、彼の気持ちを落ち着かせることができると思います」と書いています。一方、ベルナールには「僕とフィンセントはだいたい意見が合うことが非常に少ない。絵のことについては特にそうだ。かれは、ドーデ、ドービニ、ジェム、そして大ルソーを賛美する??????すべてぼくには我慢のならない連中だ。また、これに反して、すべてぼくが賛美するアングルとか、ラファエルとか、ドガとかをかれは毛嫌いするのだ…….かれはロマン主義だ、ところが、ぼくの方はむしろ原始の状態に気持ちがひかれるのだ」と書き送っています。

ゴーガン「ひまわりを描くフィンセント」
188年11月
2月にはいると「ゴーガンと僕はドラクロワ、レンブラント等についてさかんに論じあっている。議論はひどくぴりぴりしている。ときどき議論の果てに僕らの頭は疲れてまるで放電しきったバッテリーのようになる。僕らはすっかり魔法にかかっていたのだ(No 564. 1888年12月)」とフィンセントはテオに書き送ります。12月半ば、ゴーガンはテオに次のように書くことになります。
「結局、わたしはパリに戻らなければなりません。フィンセントとわたしは気分がしっくりあわないのでとても一緒に平和に暮らしてゆくことはできないのです。かれはめざましい知性の人です。わたしは彼を大いに尊敬しています。別れるのは残念なことです。しかし、くり返して言うようですが、これは必要なのです」。
あれほど熱望した「芸術家共同体」の夢が目の前で崩れ落ちはじめていました。クリスマスが差し迫った12月23日、フィンセントは手紙に記します。「ゴーガンはこの楽しいアルルの町にも、ぼくらの仕事場のこの小さな黄色い家にも、またとりわけぼく自身に少々嫌気がさしたんだと思う…….結局のところぼくはかれがきれいさっぱり出てゆくか、それともきっぱり残るかいずれかになるだろうと思う…….ゴーガンは非常に強いし、非常に創造的な人間だ。だがそれだからこそ彼には平安が必要なのだ。ここでそれが見つからなければ、他のところで見つかるだろうか。ぼくはかれが虚心坦懐に決心してくれるのを待っている(No 565. 188812月23日)」
しかし、フィンセントは待つことができませんでした。
アルル (1888年12月~1888年12月)、耳切事件(1888年12月)
有名な「耳切事件」の悲劇については、いまも謎に包まれています。唯一残っている詳細な記録はゴーギャンが事件の15年後に書いた「その前後」という手記です。しかし、ゴーギャンは「耳切事件」が自分のせいで起きたという噂を打ち消すためにこの手記を書いたようで、その内容はいまひとつ信用されていません。自己弁護のため事実を歪めたのではないかと疑われているのです。
しかし、ともかくも、ゴーギャンの説明によりますと、まず、12月22日夜、カフェにおいて、議論に激してフィンセントはゴーギャンに向かってアブサンの入ったコップを投げつけます。翌朝、フィンセントはゴーギャンに謝罪しますが、前夜のことはまるで覚えていなかったようです。そして、その日の夜、ゴーギャンがヴィクトル・ユゴー広場を横切ろうとしていると、後ろからフィンセントの足音が聞こえました。振り向くと、フィンセントがカミソリをもっていて、いまにも斬りつけてきそうな気配でした。しかし、ゴーギャンが睨みつけるとフィンセントはカミソリを収め、トボトボ戻っていきました。しかし、身の危険を感じたゴーギャンは「黄色い家」に戻らず、市中のホテルに泊まります。翌朝、ゴーギャンが「黄色い家」に戻ると、人だかりがしていました。前の晩、ヴィクトル・ユゴー広場から「黄色い家」に戻ったあと、フィンセントは右耳(実際には耳たぶの一部)を切り取りました。そして、その肉片を封筒に包み、行きつけの売春宿に持っていき、お気に入りの娼婦レイチェルに渡したというのです。その後、フィンセントは家に戻り、ベッドに横になりました。そして、翌朝、娼家の通報を受けた警察が黄色い家にやってきて、耳の動脈を傷つけたため大量に出血し、意識が遠のいているフィンセントを発見します。
この「耳切事件」は地元の新聞にも報道されました。
「先週日曜、夜11時半、第1公娼館にあらわれたオランダ人画家、フィンセント・ファン・ゴッホは娼婦レイチェルに「大事にとっておいてほしい」といって自ら切り取った耳をわたし、公娼館をあとにした。このあわれな狂人の仕業にかんする通報を受けた警察当局は、翌日、当人が自宅のベッドで瀕死の状態で寝ているのを発見した。直ちにこの不幸な男は病院に収容された「フォロム・レピュブリカン/アルル(12月30日)」
フィンセントはアルル市立病院に運び込まれ、当直医だった若手医師、フェリックス・レーの診察、治療をうけます。フィンセントはひどい譫妄状態にあり、監禁室にいれられました。テオが駆けつけた時には、まだフィンセントは意識が混濁しており、弟を認識できませんでした。テオは兄の枕元にいましたが「わずかだが、いい瞬間があった。だがすぐに、神学や哲学的なうわ言に戻ってしまう……時折、自分の病気に気が付いて、泣こうとするのだけど、泣くことができないんだ」という状態で、48時間をすぎても意識レベルが戻らず、譫妄状態にあったようです。いつまでもまともな意識状態に戻らないので、仕方なく、テオはレー医師と郵便配達夫ルーランに兄を託し、ゴーギャンとともにパリに戻ります。やがて、ゆっくりとフィンセントは意識を回復し、12月27日にはルーラン夫人と会話を交わすまでになりました。ところが、その後、再び悪化して、隔離室に戻されます。一晩中興奮状態が続き、次の日、面会に行ったルーランはフィンセントに会えませんでした。翌12月29日、ようやく、フィンセントの状態は落ち着き、大部屋に移されます。フィンセントの病状をレー医師は「てんかんの一種」と診断、ブロムを処方します。その後、この若手医師はフィンセントの病態を「幻覚と興奮性精神錯乱を特徴とするてんかんの一種で、その発作性変調(クリーゼ)は過度のアルコール摂取によって誘発される」と上司に報告しています。そして、同様のことを、サン・レミ療養所のペロン医師、テオ、そしてフィンセント自身にものちに告げています。
意識の回復期には「ズンデルトの家の一つ一つの部屋、庭の小径や一本一本の木、まわりの景色や、畑、隣家の人たち、墓地や教会、背後の野菜畑??さらには墓地の高いアカシアの木にあるかささぎの巣までも眼に浮かべた(No 573. 1889年1月23日)と遠い昔のことをこと細かに鮮明に思いだしていたようです。過去の思い出にふけることがあまりなかったフィンセントにしては珍しいことです。そして、年が明けた1月1日、フィンセントは郵便配達夫のルーランとの外出を許可され、1月7日に病院を退院、黄色い家に戻りました。ちょうどその頃、ルーランに転勤命令がでて、アルルを離れることになりました。代わりに、プロテスタント教会のサル牧師がこれ以降、サン・レミ療養所に入るまでフィンセントの面倒をみることになります。サル牧師はじつによくフィンセントを支えてくれました。

「パイプをくわえた男」
1889年1-2月
耳切事件の精神変調発作(クリーゼ)の間、フィンセントは意識が全く途絶していたようです。耳切事件前日、ゴーギャンを斬りつけた記憶もなかったようで「たとえ無意識のことであれ、ぼくのためにゴーガンに与えた苦痛を思うと、ぼくはまた心の呵責を感じる(No 573. 1889年1月23日)と書いています。事件後最初の手紙にも「わざわざ出向いてくれなくともよかったのに」(No 566. 1989年1月1日)とテオに書いていますし、その後も「ただちょっとした芸術家にありがちな癇症を起こしただけで、それから動脈が切れたために貧血して熱が沢山出たんだと思う。しかしすぐ食欲が元に戻って、胃の調子もよく、日増しに血も増え、それで頭の方も元どおりすっきりしつつあるNo 569. 1889年1月7日」」と脳天気なことを書いています。テオに心配をかけまいともしていたのでしょうが、いずれにしても、ひどい発作に襲われたことをきちんと認識できたのはずいぶん遅かったようです。「病院からあのルーランと出て来たとき、ぼくはなんでもなかったのだと思っていた。あとになってやっと自分が病気だという感じがした。(No 576. 1889年2月3日)」と書いたのは1カ月以上たってからです。
ブロムはある程度効果を示したようです。意識が回復する最中には幻覚に悩まされましたが、「それでもあのやりきれない幻覚はおさまって、いまではただ悪夢をみるだけになった。これは多分臭化カリウムを飲んでいるせいだと思う。(No 574. 1889年1月28日)」と記しています。この「悪夢」は1月7日に退院してからもしばらく続きました。
1ヶ月たった1月末には、悪夢も含めてクリーゼの影響は消え去り、精神的にも安定し、切った耳を包帯で覆っている有名な自画像、レー医師の肖像画、ルーラン夫人像(子守女)など、いくつもの見事な人物画を描いています。「一月前の状態と今日の状態を比べてみて、じっさいぼくは驚き入っている。腕や足を折ったあとで回復することがあるのは知っていたが、頭脳をこわしても後で回復するとは知らなかったよ(No 574. 1889年1月28日)」と他人事のように感心しています。ただし「当時は期待することさえできなかったのに、いまや回癒しつつあるというこの驚きのなかには、なお「癒ったところで何になるのか」という気持ちがいささか残って」いました。もはや画家としてやっていけないと前途を悲観していたのです。

「レー医師の肖像」
1889年1月
レーは思いやりのある有能な若手医師でフィンセントも「レーはほんとによくできた男だ。恐ろしくよく働き、しょっちゅう仕事に忙殺されている!実際現代の医師はなんという連中だろう」(No。585。1889年4月21日)と感心しています。フィンセントは感謝の意をこめてレーにレンブラントの「解剖講義」の複製版画を贈りました。さらに、レー医師の肖像画を描き、黄色い家に招待し、補色の講義までしてやったようです。しかし、レー医師は芸術的センスがあまりありませんでした。せっかくフィンセントに描いてもらった肖像画を屋根裏部屋に放り込んでしまったのです。レーの美術鑑賞能力のなさは遺伝によるものだったようで、かれの母親もこの肖像画を鶏小屋の金網の補強に使ってしまいます。おかげで、この絵は危うく消滅するところでした。
「あとになってやっと自分が病気だという感じがした」ものの、フィンセントはクリーゼがほんの一時的なものと楽観していました。しかし、2月にはいるとまたクリーゼが起きます。2月8日、黄色い家で寝ていて、毒を盛られるという不安に襲われ、軽い混迷状態に陥ります。そして、警察に通報され、再びフィンセントは病院に担ぎ込まれたのです。記憶が途切れているのでおそらく意識レベルが低下していたと想像されますが、詳細は不明です。2月13日にはまだ「静かな昂奮」が続いていましたが、数日後、病院から黄色い家への外出許可がでました。
しかし、精神の変調をくり返しているフィンセントがすぐに病院から出てきたのをみて、周辺住民が不安に襲われます。クリーゼを起こす前の一年間、フィンセントは馬鹿でかいボロボロの麦わら帽をかぶり、絵の具で汚れた長いオーバーコートを着て、モティーフを求め、アルル中を歩き回っていました。そのいでたちからしてすでに誤解を生むのに充分でした。そのうえ、絵を描いていて邪魔をされると、パリの時のように怒鳴り散らすこともありました。アルルにおいても、フィンセントのことをよく知らない人間には、奇妙な風体の、うさんくさい危険人物にしかみえていませんでした。
「耳切事件」後、フィンセントが病院から退院してくると、子どもも大人も「黄色い家」に群がり、窓にはい上がり、奇妙な動物でもみるようにフィンセントを「見物」しようとしていました。そんな状況のなかで、2度目のクリーゼがおきて病院に収容され、しかも、すぐに退院してしまったのです。
フィンセントがカンヴァスを買いにいっていた店の娘は当時のことを次のように述懐しています。「恐ろしい人でした。いつも乱暴で、みんな迷惑していました。ある夜、かれが耳を切り取ったことを覚えています。まるで、パテみたいに。それで堪忍袋の緒が切れたのです」。「堪忍袋の緒が切れた」住民が80名以上の署名を集めて市長に請願書を提出、これをうけ、警察はフィンセントの監禁命令をだします。黄色い家にはかんぬきがかけられて出入り禁止となり、フィンセントは病院に監禁されます。
以前のフィンセントであれば、こんな仕打ちを受ければ、黙っていなかったはずです。気分の変調をきたし、猛り狂っていたでしょう。しかし、この時は「もしぼくが怒りを抑えなければ、ぼくは忽ち危険な狂人と判断されるだろう。ここは隠忍して希望を失わないようにしよう。それに昂奮したところでただ病状が悪化するだけだろう(No 579. 1889年3月19日)」と不思議なほどの冷静さを保っています。「自分で判断ができるかぎり、ぼくはいわゆるほんとの狂人じゃない。この間からときどき描いた絵は冷静だし他の絵よりも劣っていない(No 580)」という自信があったからかもしれません。
数日後、シニャックが面会にやってきました。病院はフィンセントの外出を許可し、二人は連れだって黄色い家に行きました。シニャックが警察と掛け合い、黄色い家を閉ざしているかんぬきをはずしてもらったので、黄色い家の中に入ることができました。まだ、フィンセントは自画像にあるように包帯を頭にぐるぐる巻にしていました。かれはシニャックに「向日葵」をはじめとする自作の数々を見せ、一日中、絵画や文学や社会主義について語り合いました。テオに宛てた手紙でシニャックはフィンセントが「心身ともに完全に健康」だと書いています。しかし、後の手記には「夕方ごろ彼は少し疲れを覚えた。ものすごいミストラルがびゅうびゅう吹いていたので、それが彼の神経を刺激したのかもしれない。彼はテーブルの上に立っていた壜からテレビン油を四分の一リットルばかり飲もうとした。こうなっては急いで脳病院へ帰らなければならない」と記しています。テレビン油を飲もうとしたときフィンセントが意識を失っていたのかどうかは不明です。しかし、少なくとも翌朝にはまともな状態に戻っていたようです。
その後、フィンセントは「シニャックに会えて、たいへんよかった「No 581. 1889年3月24日」」とテオに手紙でしらせています。そして、仕事がしたいし、仕事が好きだと訴えています。さらに、レー医師がフィンセントのことを「規則正しく充分食事をすべきところを、とくにコーヒーとアルコールとで体をもたしてきたのだ」と言ったことに対し、「それはそのとおりだと思うが、とはいえ去年の夏、達したあの高い黄色の調子に達するためには刺激を与える必要があったというのも本当だ」と述懐しています。そして、「ぼくを追い立てる請願書を突きつけたあの有権者ども、あんな毒蛇みたいな馬鹿ども」を呪いながらも「ドガが表向きは公証人であったように、ぼくも気狂い役をあっさり受け入れようかと思ってみたりする」と弱音も吐いています。
4月に入ってからも何度か短いクリーゼがあったようですが詳細は不明です。ウィレミーンへの4月10日の手紙で「これまで全部で4度の大きな発作を起こしたが、その間なにをいい、何を欲しがり、何をしたのか、全然知らない。もちろんそれ以前にしかるべき理由もないのに、3度気絶をしたが、どういう感じであったのか、いささかの記憶もない(W11)」書いています。ここに書かれた発作と気絶が同じものなのかどうかはわかりません。ただ、完全に意識を失うことなく幻覚妄想に襲われることがときどきあったようで「この3カ月、何と変わった日々が過ぎたことだろう。いうにいわれぬ心の不安がおこるかと思えば、時間や因縁の帳(とばり)が一瞬、口を開く、そう思われる瞬間がよくあった(No 582. 1889年3月29日)」と書いています。

テオ・ファン・ゴッホ
そのうち、フィンセントはいつまでもアルルの病院にいるわけにはいかないと焦りはじめます。黄色い家に戻ることはできず、かといって、いつまでも病院にもいられません。しかし、フィンセントが何よりも気にしていたのはテオのことでした。テオは愛人と別れたのち、友人のボンゲルの妹、ヨハンナと婚約し、この年の4月15日に結婚式をあげることになっていたのです。家庭をもつテオに負担はかけられないとフィンセントはやきもきするようになります。レー医師の持ち家に移り住む案もでましたが「ときにはアトリエにひとり住み、気晴らしといっては近所隣の批評家とカフェやレストランにゆく手しかない、こんな画家生活をこれまでどおり始めることは」いつクリーゼが再発するかわからない身には無理だとフィンセントは判断しました。「絵の実費はこちら持ちで、後でぼくの仕事をぜんぶ病院においてゆくと仮定しても、快くただでぼくを入れてくれそうな病院(No 588)」があればいいのですが、そんな奇特な病院はなさそうです(あれば、あとでその病院は大儲けできたでしょうが)。そこで、サル牧師などとも相談して決めたのがアルルの近くのサン・レミにある精神病院に入院することでした。
テオの結婚式が間近に迫った頃、テオに「月末にはサルさんから聞いたサン・レミの病院かもしくは同種の別の施設に移ろうと思っている。話しをこういう風に運んだことの是非を仔細に説明しないのを許してほしい(No 585. 1889年4月21日)」と書き送りました。しかし、テオは金のことを心配する必要などない、と返信に書き「きみは友情や仕事で何度も(金を)払ってくれたことを考慮に入れず、ごく当然なことを余りにも過大に考えすぎる。それこそ将来どんなに金を得ようとそれには替えられぬものなのに????きみがまだ完全な健康状態でないと聞いてぼくは心が苦しい。きみの手紙には心気喪失のようなところが全然見えないけれども、精神病院へ入らねばならないと思っていること自体が、かえってただごとでないのを感じさせる」と気遣いました。そして、自分たちと一緒に住んでもいいし、ベルナールたちと住むという手だってあるではないかと書き添えています。

ヨハンナ・ボンゲル
これに対し、フィンセントは突拍子もないことを書き送ります。「ところでこの土地ではぼくはどうやら本物の気狂いか癲癇病者として知れ渡っているから、たしかに拒絶される懸念があるけれども(もっともぼくのきいたところではフランスには50,000人の癲癇病人がおり、入院しているのはそのうち4,000人だけだということだから、何も特別なことではないではないが)」(No 589. 1889年5月2日)というのです。何に拒絶されるかというとアルジェリアの外人部隊への入隊です。軍隊の規則正しい生活が「身に付いた悪い癖」を取り除いてくれるだろうというのです。もしかしたらレー医師はてんかんというものについて比較的楽観的な説明をフィンセントにしていたのかもしれません。さらに、フィンセントとしては、サン・レミの精神病院への不安もあったようです。最初にサル牧師が病院と折衝したときは「病院側はぼくが病院の外で絵を描くことも好まず、100フラン以下ではぼくをいれたくない(No 588)」ということだったのです。これでは「話しにならない。外人部隊に5年間入隊して何とかやってゆけるなら、そのほうがいいかと思」ったのです。
しかし、テオにとっては論外です。早速、フィンセントに書き送ります。「きみの手紙の中に一つどうしても賛成しかねることがあるので、それを書くが、それは外人部隊へ入ろうというきみの計画だ。これは首をくくるような行為じゃなかろうか。まさか兵隊稼業をきみが自発的に好きになったとは思えないからね…….要するにこんな考えをきみが抱いたのは、ぼくに金や心配をかけることをきみが過度に恐れているからで、そのために不必要にきみは頭を悩ましているのだ。金に関しては去年はぼくには悪い年ではなかったから、何の遠慮気兼ねもなしに以前送った分ぐらいは当てにしてくれてよい…….きみがやったほどの仕事をやれたら喜ぶ人がどれほどたくさんいることだろう。それ以上何をきみは望むのか。何かを創造するということこそきみの宿願ではなかったのか。幸いいままでいろいろの仕事がやれたのだから、またいい仕事ができる日がこないといってどうして絶望したりするのか」と励ましました。して、精神病院でも絵が描けるよう病院側と折衝することを約束しました。
これに対し、フィンセントは「君の親切な手紙がうれしかった。たしかに????それならサン・レミに行こう。(No 590. 1889年5月3日)」と返答します。そして「きみは…….グービル商会で、いわば兵役に服した。そして別にありがたがられもせず、随分いやな時間を何度も過ごした。それもあのころ父が大勢の家族をかかえて、多少逼迫していたし、一家を切りもりしてゆくにはきみが体当たりで飛び込む必要があったから、それこそきみは孜々営々、献身的にああいうことをやって来たのだ????ぼくは病気の間、そんな昔のことをあれこれ思い浮かべて、胸が詰まった」とテオに負担をかけてきたことを感謝しています。フィンセントはサン・レミで「隠退生活」に入るものと覚悟していたようですが「精神病院の中でもなお制作できる時期は来るだろう」という希望ももっていました。しかし、その一方で、「あちらで多少なじみになれば、僕は喜んで看護士になるよう徐々に努力する、つまり、何でもいいからまず手当たり次第の仕事をやって職業を取り戻すよう勤めたい」と経済的負担をかけているテオへのいじらしいほどの気遣いをみせています。
5月3日、サル牧師に付き添われ、フィンセントはサン・レミに到着、サン・ポール・ド・モゾール修道院に併設改造された精神病院に入院します。転院時、担当のペロン医師は次のように覚え書きに書いています。

セント・ポール療養所の浴槽
当病人はアルル市立病院からきたものであるが、同人は不意に突発した躁狂の発作に続いて同院に入院したもので、発作には恐怖を与える幻覚及び幻聴がともなった。発作の間に、彼は左の耳を切落したが、それについてはきわめて朦朧とした記憶しか持っていない」
その後、実際にフィンセントの病状をみてもペロンの意見は代わらなかったようで、しばらくたってからテオにもフィンセントを「狂人とはみなして」いず、「発作は癲癇性のもの」と説明しています。さらに、「アルコールはもちろん体にいけないにせよ、病因はアルコールでもない(W15)」とも考えていたようです。ついでながら、その後、ペロンは、母方の叔母を含め、フィンセントに家系に何人かのてんかん患者がいることも聞き出しています(ただし、ヴォスクイルはフィンセントの家系にてんかん患者が多発していいないことを調査によって確認しています)。
ペロン医師は元海軍の軍医でした。精神科の専門知識には乏しく、このときすでに50歳、最新医療情報を取り入れようという意欲も失せていたようです。そのうえ、経費節約のため、何もしないことを「経営方針」としており、レー医師によるアルコール制限とブロム処方は引き継がれず、治療は2時間の入浴だけでした。テオもこの後、ユトレヒトの精神病院に入院し、そこで繰り返し入浴させられていますから、当時、入浴が精神病院における数少ない「治療」の一つだったのかもしれません。しかし、それにしても、ペロン医師が入浴療法以外に行った「治療」といえば、フィンセントが絵を描いている最中にクリーゼに襲われたり、クリーゼ中に絵の具を呑もうとしたりするのをみて、思いつきのように絵画制作厳禁命令をだすことぐらいでした。こうした「治療」によって、フィンセントはサン・レミで、アルルの病院入院当時とは比べものにならないほどの激しいクリーゼを何度もくり返すことになります。一年後に退院して、オーヴェールに腰を落ち着けてからは、数ヶ月だけですが、一度もクリーゼを起こしていませんから、クリーゼ再発予防という点では、サン・ポール療養院は余り芳しい場所ではありませんでした。

セント・ポール療養所の病室
ただし、フィンセントの最大の望みは落ち着いて絵を描くことでした。そして、その面だけからみると、この療養院はうってつけの場所でした。サン・レミについてすぐ、フィンセントはヨハンナに「あの恐ろしい発作の結果、ぼくの精神にはもうはっきりした欲望も希望もなくなって、情熱がいささか消え、山をのぼるのではなく山を下りる時にはこういう風に人は考えるものかと、自問しています(No 591. 1889年5月9日)」と書いています。しかし、「山を下りる」どころか、さらに「山をのぼり」、アルル時代に負けないぐらいの傑作群をここで描き残します。
フィンセントが転院した頃、サン・ポール療養院は病室に余裕がありました。「ここにおとなしくしていると、もちろん医者だって、これまでの事情がいっそうよくわかってきたろうから、以前よりは心おきなく必ず自由に絵を描かせてもらえるだろうと思う(No 592. 1889年5月25日)」とフィンセントは希望を抱いていました。また、そのことを充分認識していたテオは、サン・ポール療養院入院の条件としてフィンセントの絵画制作許可をペロン医師に申し入れており、2部屋分の療養費を払ってくれていました。おかげで、フィンセントは余った一室を画室として使うことを許されました。

「星月夜(糸杉と村)」1889年6月
フィンセントはまず、病院内からみえる風景のスケッチや油絵を描き始めました。鉄格子越しにみえる麦畑や丘などです。6月19日づけのテオへの手紙にフィンセントは「オリーブ畑の風景を一つとまた星月夜の新しい習作を一点描いた。ゴーガンやベルナールの近作をみていないけれども、いまあげたこの二つの習作は同じような感じのものだろうとほぼ信じている(No 395)」と書いています。星月夜の習作とは有名な「星月夜(糸杉と村)」で、フィンセントがおかれた制限つき絵画制作環境が皮肉にも生み出した傑作でした。左の前景に高い糸杉が屹立し、アルピーユ山脈の山並みが画面中央から右にかけ駆け上がるように横切っています。そして、その山脈を背景として高い尖塔の教会に見守られた村がオリーブの木々に包まれています。画面の上3分の2は星空が占め、月も星も丸い巨大な輝きを放ち、天の河が光の渦となって空を流れています。ゴーガンとちがい、実物を目の前にしないと絵を描かなかったフィンセントには珍しく、病院の鉄格子からみえたものをキャンバス上に再構成し装飾的に描いた傑作でした。

「糸杉のある風景」
1989年6月
やがて、看守長トゥラビュックや監視人プレーの監視下という条件つきで、戸外での絵画制作が許可されます。これも、テオが入院の条件としてだしておいてくれたことです。おかげで、アルピーユ山脈を背景とする病院の周りの「実際」の自然風景も描くことができるようになりました。
人物と同じように風景にも自らの感情を込めたとフィンセントは書いていますが、アルルでかれが肖像画的生命を与えた植物といえば、なんといってもひまわりでしょう。サン・レミではそれが身を捩るような糸杉とオリーブの木にとってかわられます。とくに糸杉については「糸杉のことがしょっちゅう頭にあるが、なんとか向日葵の絵のような作品にしたいものだ。というのも、ぼくがみているように描いた人がないのが不思議に思えるからだ。線といい比例といい美しく、まるでエジプトのオダリスクのようだ。それに緑が格別すばらしい(No 596. 1889年6月25日)」と意欲を語っています。さらに、病院の庭に咲いていたアイリスにも力強い生命が与えられました。
外出が叶わぬときは自画像を描き、さらに、トゥラビュックやその妻、患者たちの絵を描いています。トゥラビュックの肖像画にはこの看守長の厳しさが見事に表現されています。

「看護主任トラビュクの肖像」
1989年9月
絵を描く自由はありましたが、テオが心配したとおり、精神病院そのものの環境は最悪で、よくもまあこんなところで1年も我慢できたものだと感心します。「食事はまあまあだ。もちろんちょっと黴臭い。パリの油虫のでる食堂か寄宿舎といった感じ。この悲惨な患者たちは何もせず(気を紛らわすものといっては球転がしと碁以外何もない、本一冊ない)またエジプト豆や莢いんげん、レンズ豆やその他の植民地産の乾物や物産を、一定時間に一定量、たらふく腹に詰め込む以外日々の楽しみがない(No。592。1889年5月25日)」という有様でした。テオには黙っていましたが、フィンセントは「まずい腐りかけた食べ物」を食べるのを拒否、パンと少量のスープだけしかとろうとしませんでした。後ろめたかったのかペロン医師はフィンセントがクリーゼを起こすとブドウ酒と肉を提供してくれました。この「好意」を「最初の間は喜んで頂戴しているのは事実だが、そういつまでも規則に外れたこともしたくない(No 605)」とフィンセントは書いています。それでも、「ここにいると気楽だし、なぜパリやパリの近郊へ下宿を移さねばならないのか、その理由がとんとわからない(No 592. 1889年5月25日)」と強がっています。
もっとも、たんなる強がりだけでもなかったようです。フィンセント特有の自分も含めて物事を曖昧にせずとことん見つめて突き詰めようとする性格がここで如実に発揮されました。
「他の狂人連中を観察していると、彼らも発作の最中にはぼくみたいに妙な音や声が聞こえたのだということ、かれらもまた眼前のことが妙な風にみえるということ、それがわかる。それがわかると以前やった発作にたいして最初に持っていた恐怖、不意に襲いかかられるとだれでもめっぽう怖がるほかに手がない恐怖がやわらいでゆく。一たん自分がそんな病気だと知れば、他のことと同じようにうけとれる。他の狂人をまぢかにみなかったなら、ぼくはしょっちゅうやってくるこんな考えを追い払えなかったろう。なぜかといえば、発作を起こしていると、苦悶の末に苦しむことがそれほど変には思えないのだ。たいていの癲癇患者は舌を噛み切ったり、自分で自分を傷つけたりする。レーはぼくのように自分の耳を傷つけた男の症例をみたことがあるといっていた。また院長と一緒にぼくに会いに来たここの医者がすでにそういう例を見たことがあると話していたと思う。一度どんなものであるかがわかれば、一たび自分の状態や発作を起こしかねない可能性を意識すれば、それだけ苦悶や恐怖に襲われぬため、或る程度の心構えが自分できっとできると思う(No 592. 1889年2月25日)」書いています。そして、「ところでこの五カ月、だんだんそういうことはなくなってきているし、ぼくは癒るか或いはとにも角にもああいう強い発作はもう起こるまいと明るい希望を持っている。ここにはぼくのように半月の間のべつまくなしに叫んだり喋ったりしている人がいる。その日はおそらく聴神経が病的に過度に敏感になりすぎているので、廊下に木響(こだま)してこえや言葉が聞こえるような気がするのだ。ぼくの場合は視覚と聴覚が同時にそうだったが、レーの話しによると癲癇性の初期にはよくあることだそうだ。しかし発作がものすごかったからちょっと身を動かすのさえ嫌で、このまま眼がさめなければ何より楽だと思ったくらいだ」と自画像を描くときのように他の患者と自分の症状を冷静に分析しています。

「「サン・ポール療養院の患者の肖像」
1889年10月
サン・レミでの生活が始まって2カ月後、7月5日にヨハンナは妊娠したと知らせてきます。すぐにフィンセントはヨハンナに祝福の手紙を書き「まだあちらにおいてある画布を明日アルルに取りに行き、近々それを送ります。あなたがたに、都会にいながらにして百姓のことがわかってもらえるよう、できるだけ早く送りましょう(No 599. 1889年7月5日)」と予告します。そして、ペロンの許可をとりつけ、7月7日にアルルに赴き、友人たちと旧交を温めます。7月9日にはサン・レミに戻ってきていたらしくアルルに絵を取りにいった際、監視人がついてきたこと、サル牧師やレー医師は不在で、それ以外の知り合いと半日を過ごしたことを手紙でテオに知らせています(No 600)。
ところが、その約一週間後、7月16日、風の日に石切場の入り口で絵を描いていてクリーゼに襲われます。詳細は不明ですが、「ぼくは「石切場の入り口」(の絵のほうが)好きだ---これは発作が来たなと感じたときに描いたものだ(No 607)」と書いているので、前駆症状もしくは前兆のようなものがクリーゼに先行していたようです。
8月にテオが問い合わせたときには「一両日中病気だったが、いまはもう多少よくなっている」とペロンは答えています。しかし、実際には1か月半ほどクリーゼは続いたようです。ペロンからの報告からしばらくして手紙を書くのがとても困難なのだ。それほどぼくの頭は千々にみだれている。それでいまわずかの晴れ間を利用してこれを書いている(No 601.1889年8月?)」とフィンセントからテオに手紙が届きます。「この何日間かぼくはアルルにいた時と同じように<完全に気がふれていた>。以前より悪いといわぬまでも同程度にひどかった。それにああいう発作がまたづづいてぶりかえさぬとも限らぬと考えられることはじつに<気の滅入る話し>だ」と嘆いています。「四日前から咽喉がふくらんで、ぼくは何も食べることができなかった」と書いていますから、クリーゼの間かなり長期にわたって叫び声をあげていたようです。結局、完全に回復したのは9月2日頃でした。

「石切り場の入り口」
1889年7月
入院直後の決意とうってかわって、クリーゼの再発を契機にフィンセントはサン・ポール療養所をでることを考えはじめます。「ここでは諸事非常に高くつく。それにいまのところぼくは他の病人を恐れている。いずれにしてもいろいろの理由から、ここでもぼくはいい星に恵まれなかったと思う(No 602. 1889年8月?)」とテオに弱音を吐きはじめます。狂人に囲まれ、まともに話ができるのは看守長のトゥラビュックか監視人のプレー、それにペロン医師ぐらい、そして、劣悪な食事。フィンセントが当時おかれた環境を考えれば当然のことです。しかし、何といっても、許可をえないと絵を描くことができないのが不満だったようで「絵を描く許可を求めにゆくのは愚劣なことだ」と文句を言っています。ちなみに同便にはペロンの次のような添え書きがついていました「御賢兄の手紙にそえ一筆ご報告しておきます。発作はすっかり治まり、彼は精神の明晰さを完全に取り戻し、以前の習慣どおり絵をまた描きはじめています。自殺しようとする想念は消えてなくなりましたが、ただ悪夢が残っています。ただしそれもしだいになくなろうとしており、その強度も以前ほどではありません。食欲も戻ってきましたし、普段の生活をまた始めています。」

「自画像」
1889年9月
クリーゼ後しばらくは外出を禁じられ、仕方なく、「発作がなおって起きあがったとき」から自画像を描きはじめています(No 604. 1889年9月5日)。このときの自画像にみられるフィンセントは「幽霊にみたいに痩せて青」く、独特のタッチで塗られた「青い菫色」を背景として「髪の毛は黄色く顔は白みを帯び」ているように描かれています。胸鎖乳突筋が黄白色に浮き出て、唇も蒼白で、口腔への移行部がわずかに線状に赤いだけです。クリーゼ中ほとんど何も口にせず、脱水と栄養失調によって羸痩と末梢循環不全をきたしていたことが窺われます。しかし、この自画像全体を支配しているのは「静かな絶望」とでも呼ぶべき悲しみを湛えた眼です。「もっと激しい発作が起これば、永遠に絵を描く能力が駄目になってしまうかもしれない(No 605. 1889年9月10日)」という不安がそのままその眼にあふれでています。
「発作の最中に苦痛と苦悶を前にして、ぼくは気力がなくなる感じがする。---必要以上に無気力になるのだ…….ここにいると発作が馬鹿馬鹿しい宗教的な趣を帯びがちなので、それだけでも北仏に返る必要があるとつい思いこんでしまう」「ぼくは最初の発作と二度目の発作を比べてみたが、きみには後のほうの発作のことしか話さなかった。ところがこれは内部から来る原因よりむしろ何かしらない外部からの影響だと思われる。ぼくの思いちがいかもしれないが、宗教的な誇大妄想にいささかぼくが恐怖を覚えているということはまず間違いあるまいと思」うとこの悽愴な自画像を描いたころ書いています。「ぼくは近代的な観念を持っているのに…….まるで迷信家が起こすような発作を起こし、北仏にいたときには思いもつかなかったような凶暴なわけのわからぬ宗教的観念が湧いてくるのだ(No 607)」とも嘆いています。どうやら、このときのクリーゼでは、宗教的妄想に相当苦しめられていたようです。しかも、そのことを覚えているということは、クリーゼのいずれかの時期には朦朧としながらも、完全には意識を失ってはいなかったということを示唆しています。ただし、フィンセントは修道女が管理をする修道院の精神病院にいるせいで宗教的妄想をきたすのだと頑なに信じこんでいたようです。

「サン・ポール療育院の後の麦畑(収穫)」
1889年9月
しかし、そうした中で絵だけは描き続け、「元の力を取り戻し」ていきます。「仕事は順調に進んでいる。いま発病数日前に手がけた或る画布に取り組んでいる。これは草を刈る人の習作で---真黄色、恐ろしく厚塗りをしてあるが、モティーフは美しく単純だ。つまりぼくはこの草を刈る人のなかに---炎熱のもと仕事をやり遂げようと悪鬼のように戦っている朦朧とした人物のなかに---人間は彼が苅る麦みたいなものだという意味で、また死の影をみたのだ。だから---いわば---これは前に試みた種まく人とは反対のものだ。しかしこの死のなかには何ら陰鬱なものはなく、純金の光に溢れた太陽とともに、明るい光のなかでことが行われるのだ(No 604. 1889年9月5日)」と「サン・ポール療養院の後の麦畑(収穫)」を書きながら報告しています。
この頃、「「フィガロ」紙でまたロシアの作家の話を読んだ。彼も神経病を負った生涯を送り、おまけにみじめにもそれがもとで亡くなったが、その病気はときどき恐ろしい発作を引き起こしたという(No 604. 1889年9月)」と書いています。事実と異なる部分もありますが、どうやら、ドストエフスキーのことを言っているようです。ドストエフスキーについては約一年前にも「いま手許にあるドストエフスキーについての小論のような、何かに心を打たれると、ただ、そういうものだけがぼくには一番意味があるように思えてくる(No 535. 1888年9月20日)」と触れていて、心に残っていたようです。一ヶ月後も、「「死の家の記録」を書いたドストエフスキーの評論を読んだが、おかげでアルルの脳病院の病室で描き始めていた大作に再びとりかかった(W15. 1889年10月)」と妹に報告しています。どうやら、同じように監禁状態に耐えたロシアの小説家に勇気づけられたようです。

「ピエタ(ドラクロワによる)」
1889年9月
ただし、クリーゼ再発の懸念から、療養所の外で絵を制作する勇気はなかなか湧かず、「病棟アトリエ」でミレー、ドラクロワ、ドーミエの複製画を模写してすごすことも多くなりました。そうした模写は単なるコピーではなく、フィンセントの強烈な個性が刻印されています。
クリスマスの前日、12月23日に再び一週間ほど続くクリーゼが起きます。外に出て絵を描きはじめたとき急に絵の具を飲もうとしたのです。ようやく意識が戻ってきた頃、こんどはランプの灯油を飲もうとしています。「ぼくはまたまた頭がひどく錯乱したらしい……やがてきみが受け取るあの画布を完全に平静な気持ちで描いていたのに、突然何の理由もなく錯乱がまたおこったのだ(No 620)」とテオに書いています。クリーゼ中まったく意識をなくして、記憶が途絶していたようです。クリーゼが終わるころ、ペロンはフィンセントに展覧会に絵を出すかどうかを尋ねたようですが、それについてどのように返答したかも覚えていない、とフィンセントは書いています。ペロンとしては絵の具をフィンセントに使わせるのは危険と考えたようで、しばらく、絵の具を取り上げ、素描のみを許可しています。
同じころ、ジヌー夫妻にも「クリスマスのころ、数日間、今年もひどい発作が起こりましたが、それでも非常に早く治まって、ここ一週間は無事息災に過ごしています(No 622a)」と報告しています。このクリーゼの直前、テオはフィンセントに「きみにとって一番いい方法は、春になればひと先ずぼくらの家へ帰ってきて、それから自分の好みに合う下宿がみつかるかどうか、自分で田舎へ行って調べに行くことだ」と提案していました。しかし、このクリーゼの再発によって、それもかなわぬことになります。いつクリーゼが起こるかもしれないのに、気ままな下宿生活など夢物語です。
ちなみに、いつのことかわかりませんが、監視人プレーと外から戻ってきて、階段を上っていたとき、前を歩いていたフィンセントが突然振り向き、プレーのみぞおちあたりに蹴りをくらわしたこともあったようです。翌日、フィンセントは、アルルの警察が自分のあとをつけてくるような気がしたのだといいわけをし、プレーに謝っています。ずっとのちに、トラルボーがプレー本人から聞き出した逸話です。ただし、この時プレーは90歳で、どこまで信用できる話なのかわかりません。しかし、シニャックの時と同じように、短時間、幻覚妄想に襲われることがサン・レミにおいてもあったのかもしれません。もう一つ、これもいつのことかわかりませんが、プレーがフィンセントを夕食に連れて行こうと探していたら、虚ろな目で唇から泡をふいているフィンセントを発見したこともありました。フィンセントはチューブに入った油絵の具を3本分、呑もうとしていました。プレーはトゥラビュックやペロン医師とともに必至になってフィンセントを押さえつけました。
年が明けた1月21日、精神疾患を患ったジヌー夫人を見舞いにアルルを訪れ、再び一週間ほどのクリーゼを起こします。「異常昂奮か精神錯乱のかなり激しい発作が起こったが、それも幸い終熄して、いわば余波のようなものをまるっきり感じない(W17。1890年1月)」と妹に書いています。

「花咲くアーモンドの枝」
1890年2月
一月末、ヨハンナが男の子を出産、フィンセントと名づけられます。「羊水があまりに早く出過ぎて(ヨハンナは)随分苦しんだが」とテオは書いていて、どうやら早期破水による難産だったようです。しかし、生まれてきた子供は「大声で泣いて」元気でした。フィンセントは自分と同名の甥のためにお祝いの絵を描きました。青空の中にたくさんの白い花を咲かせたアーモンドの枝を描いた絵です。アーモンドはフィンセントがアルルに移り住んだ時、雪の残る早春の野に初めて目にした花で、新たな命の誕生を祝うにふさわしい画題でした。薄緑縞の枝は青空に向かってのびやかに枝分かれし、何かしら穏やかな憧れとでもいうべき空気が画面に漂っています。この絵は、代々、ファン・ゴッホ家の子ども部屋に飾られることになります。フィンセントの見果てぬ夢をこの絵は毎日見つめることになったわけです。
甥の出産に続いてさらに朗報が届きます。「メルキュール・ド・フランス」誌上にフィンセントを激賞した論文が掲載されたのです。書いたのはオーリエという新進評論家でした。絵画を志してから、ついに現れた自分への評価に喜び、フィンセントはテオに「論文を読んでついいい調子になって」と高揚した気分の手紙を書いています。しかし、オーリエには驚くほど冷静な礼状を書いています。「評論は作品それ自身として立派なもの」で「言葉で色彩をだしておられる」とオーリエの文章をほめた後、「ものの光彩をあれほど強烈に、あれほど金属的、宝石的に感じ分けた画家」というのは、自分よりモンティセリにふさわしい言葉で、自分は「いまに至っても…….感じるとおりに描くことができ」ないと記しています。強情で頑固なわりに、フィンセントの自己評価は低く、絵画においても例外ではありませんでした。そのうえ、嘘がつけない性格でしたから、おそらく、オーリヘに書き送ったことも、謙遜ではなく、本心だったのでしょう。
さらに、絵が売れたという知らせも届きます。一月にブリュッセルで開かれた「二十人展」という展覧会に「ひまわり」「赤い葡萄畑」「花咲ける果樹園」を出品していたのですが、二十人展のメンバーの画家、アンナ・ボッグが「赤い葡萄畑」を四百フランで買ってくれたのです。さらに、3月に開かれたアンデパンダン展にもテオはフィンセントの絵を10点出品、反響を呼んでいます。
2月22日、フィンセントは再びアルルへの旅に出てジヌー夫人を見舞い、レイチェルにも会いました。しかし、2日後の2月22日、再びクリーゼに襲われます。一晩中アルルの街を歩き回り、その間にジヌー夫人を描いたキャンバスもなくしてしまいます。しかし、それ以外について詳細は不明です。フィンセントは馬車でサン・レミに連れ戻されます。激しい恐怖に襲われ、騒ぎ回る精神錯乱状態が2か月近く続きました。この時は、クリーゼから完全に立ち直る前から絵を描き始めています。「病気がごくひどかった時でも、なおそれでも描いていました」と母親と妹にクリーゼ後に書いています。描いたのは「ブラバンドの思い出、こけむした屋根の農家やブナの生け垣、秋の夕方の嵐模様の空、赤みがかった蛛の中へ沈んでゆく真っ赤な太陽、また、雪の中のかぶら畑で緑のものを積んでいる女たちなど」でした。「耳切事件」のときに続いて、この時もブラバンド時代の遠い過去の記憶が鮮明に甦ったようです。
4月に入っても「頭がひどくやられて」「全体的に馬鹿みたいになっていて(No 628)」さすがに「まったく絶望して」いました。「花の咲いた枝」を「冷静な気持ちでいつもより大きなタッチで確実に描いた」のに「翌日は畜生みたいにだめ」という状態でした。しばらくして「この2月のことをきみにどういえばいいのか、まったく調子が悪くて、いいようもないほど淋しく、ぼくはうんざりしている。自分がどうなっているのかぼくにはもうわからない(No 629. 1890年4月29日)」と訴えています。
もはや、限界でした。
サン・ポール療養院に入院した時テオは「そんなに沢山の狂人の間近で暮らすことはどのみちおもしろくないだろうから、そこには長く居れまいと思っている。ぼくはどこかにきみの看護をしてくれて、しかもその他の点ではすすんできみを自由にしてくれる人をさがしたいと思っている。きっとそういうものがみつかると思う」と書いていました。そして、テオはピサロからフィンセントにうってつけの医師の情報を得ます。パリから汽車で一時間ばかりのところにあるオーヴェル・シェル・オワーズに居住する精神科医ガッシュです。ガッシュはセザンヌやピサロとも交流があり、自身、エッチングもやっている日曜画家でした。彼ならフィンセントのことを理解し「看護をし」「自由にして」くれそうでした。実際、テオが相談すると、ガッシュ医師は、自分の家の近くに住んで、必要なときだけ診察にくるようにしたらどうかと提案してくれました。発作をくり返すフィンセントに困惑していたペロン医師も退院に文句はつけませんでした。
退院時、ペロン医師は次のように書き記します。
「病人は大部分の時は平静である。在院中度々発作を起こしたが、それは一期間、半月ないし一月続いた。この発作の間病人は恐ろしい恐怖にさらされた。絵に使う絵の具を嚥下したり、ランプに石油を入れている間に小使いから石油をかたりとってのみこんだり、幾度も彼は服毒しようとした…….発作と発作の間には、かれは完全に平静に、頭も明晰になり、そのさいには熱心に絵に没頭する」
「熱心に絵に没頭した」成果はアルル時代に劣らず素晴らしいものでした。2月のクリーゼの回復期に書いたとおぼしき数枚の絵画を除くと、構図も波打つような筆触も円熟の境地に達したといってもいいくらい自在をえています。アルル時代の色彩の強烈さは影を潜めていますが、絶妙な筆遣いと色面配置によって、ある意味で、アルル時代以上に美しく音楽的な色彩が画面に溢れています。
オーヴェル・シェル・オワーズ(1890年5月~1889年7月)
5月16日、フィンセントはサン・レミを一人で旅立ち、途中、パリに立ち寄ります。病人を予想してフィンセントを出向かえたテオの妻、ヨハンナは「健康そうな顔色をして、微笑を浮かべ、非常に決然としたようすを見せた、たくましい、肩幅の広い男」を見てびっくりします。テオの家に着くと、フィンセントとテオは肩を並べて涙を浮かべながらフィンセントと同じ名前の赤ん坊の寝顔を眺めました。翌朝フィンセントはテオの家に所狭しとおかれた自作を点検しました。そのうち、友人たちも次から次へと訪れてきました。幸せな4日間をすごした後、フィンセントはガッシュ博士宛の手紙をもってオーヴェールに向かいます。
オーヴェールは、かつて、自然派のドービニ、コロー、ドーミエがアトリエを構えていたことがある町です。さらに、近くのポントワーズにはピサロ、セザンヌ、ゴーガンも一時住んでいたこともありました。あたり一帯は、フランス近代絵画の聖地といってもいいようなところでした。

「ガッシュ博士の肖像」
1890年6月
ガシェは画家になる夢を断念し医者になった風変わりな人物でした。パリで医学生だった時代にクールベなどと親交を深め、オーヴェールに居を構えてからは、セザンヌなど不遇の新進画家を援助してきました。専門は精神科で、モンペリエ大学に提出した博士論文の題は「メランコリーの研究」でした。論文の中でガシェは「メランコリー」の3大対策として入院、治療、精神的支援を挙げています。治療としては、温浴によって不安に脅える患者の気を静めることを重視し、当時のはやりであった瀉血療法や便通浄化療法は否定しています。卓見といっていいでしょう。
ただし、ガシェは、自身、メランコリーに陥ることが少なくありませんでした。時々絶望の発作に見舞われ、そのことは、フィンセントがガシェの肖像画に描いた虚ろで悲しげなまなざしに明らかです。手紙の中でもフィンセントはガシェのことをエキセントリックと表現し、その神経の不調は自分と同じぐらい深刻らしい、と心配しています。フィンセントにエキセントリックと表現されてしまっては、どうしようもありません。
ガシェはフィンセントを温かく迎えいれ、ときどき食事にも招待してくれました。クールベやセザンヌなどと交流していただけあって、ガッシュもフィンセントの本質を見抜いていました。フィンセントの「芸術に対する愛情という言葉は当たっていません。信仰と呼ぶべきです。殉難を生む信仰なのです」とテオに書き送っています。一方、肝心のフィンセントの病状については「油絵のテレビン油溶液による中毒」によるものか、もしくは、北欧人の頭には強すぎる地中海の日差しのせいと考えていたようです。そして、食事に招待して話をする一種のカウンセリング療法以外、とくに治療は行いませんでした。

「オヴェールの教会」
1890年6月
村役場前のラヴー旅館に居を定めたフィンセントは早速、草葺き屋根の農家、ガッシュ家の庭を描き始め、6月にはいると「ガッシュの肖像」「オーヴェールの教会」といった傑作を矢継ぎ早に完成させます。その後も創作意欲は沸騰し、オーヴェールについてから2ヶ月の間に七十点近くの絵を描いています。
6月10日にはテオがヨハンナと甥のフィンセントをつれてオーヴェールにやってきました。フィンセントはおもちゃ代わりに小鳥の巣をとってきて甥を歓待しました。
その後もフィンセントは旺盛な創作活動を続け、麦畑の連作などを計画します。アルル時代の強烈な色彩は影を潜めたままですが、相変わらず、円熟した技法で自在に絵を描いていました。しかし、やがて、その絵のなかに影がさすようになります。
疲れ果ててフィンセントはオーヴェールに戻ります。相変わらず、「烏のいる麦畑」「荒れ模様の空の麦畑」などの麦畑連作をはじめとして、精力的に絵を描きつづけましたが、パリから戻ってから、耳切事件以来絶えてなかった気分の動揺に本人も周りも悩まされることになります。「ここへ帰ってきて、ぼくもまたとても悲しい思いをしていたし、君たちを脅かしている嵐が僕にもまた重くのしかかってくるのをずっと感じ続けていた。どうすればいいのか????ねえ君たち、僕はいつもけっこう機嫌良くしていようと努めている。しかし、僕自身の人生は根底そのものから脅かされ、僕の足取りはよろめいている(No 649. 1890年7月10日ごろ)」と沈鬱な手紙をテオに書いています。その一方で、理不尽な怒りも爆発させます。ギヨーマンの裸婦の絵が額に入っていないと言ってガッシュ医師を2度も怒鳴りつけたのです。テオも心配してオランダに息子と帰郷していたヨハンナに書き送ります。「かれがだんだん憂鬱に陥ったり、新しい発作がまた起ころうとしていたりするのでなければよいのだが」

「烏のいる麦畑」1890年7月
弟の予感は最悪の形で的中します。
7月27日、フィンセントは拳銃で自殺を図ります。
フィンセントがどこで、どのようにして、どのような精神状態で自分に向け銃弾を放ったのか、わかっていません。
その日、昼食をすませたフィンセントは絵を描きに町はずれへと戻っていきました。そして、オーヴェール城の近くにあった積み藁にイーゼルを立てかけ、その近くのどこかでリボルバーを取り出し、左の胸と腹の間あたりに向け銃弾を撃ち放ちました。
しかし、死にきれませんでした。

フィンセントが死亡した部屋
夜9時頃、フィンセントはお腹を手でおさえ、前かがみになって、よろめきながら下宿先のレストランに戻ってきました。そして、自分の部屋への階段をのぼっていきました。下宿の主人が心配して部屋に入ると、フィンセントはベッドにうずくまって、うなっていました。主人がどうしたのかと尋ねるとフィンセントは胸のあたりの小さな傷をみせました。「自殺したかった」というのがフィンセントの答えでした。
まず、近所の医者マズリーが呼ばれ、やがて、ガシェとその息子ポールも駆けつけました。
身体から少し距離おいて発射された銃弾は、左肋骨下端と前腋窩線が交錯するあたりから、やや下よりに皮膚と皮下組織を突き破り、横隔膜の上部か下部を走って、体内を突き抜けることなく、脊柱近くにとどまっていました。喀血も呼吸困難もショック症状もなかったようですから、銃弾は肺、胃、脾臓などの臓器や大血管を傷つけていなかったと推定されます。
人体内に射入した銃弾は弾道上の組織を挫滅しながら走り抜け、運動エネルギーを使い果たした地点で停止します。弾道周囲の組織破壊は弾丸の速度・質量に比例します。フィンセントが使ったと推定される短銃から発射されるのは低速弾ですから、弾道から遠く離れた組織が衝撃波によって破壊されることはありません。弾道上の組織だけが損傷をうけるのです。したがって、弾丸そのものが大血管や心臓や肺などの重要臓器を貫通しない限り、銃弾といえども致命的ではありません。しかし、弾丸が体内にとどまった場合、弾丸そのもの、そして、弾丸が体内に持ち込んだ微生物が銃弾周囲に炎症、感染を引き起こします。さらに、大血管は傷ついていなくとも、弾丸が小動脈を引き裂く可能性がありますから、時間がたつにつれ、内出血によって血圧が低下する危険もあります。
ガッシュとマズリーは、弾丸の射入した傷口を消毒し、包帯を巻いた後、フィンセントを部屋のベッドに横たえ、様子を見ることにしました。このまま死なせてやるべきで、病院に入院させて弾丸摘出を試みても仕方がないという判断だったようです。当時の医学常識からみて適切な判断だったのかどうか、よくわかりません。
傷の手当てを受けた後、フィンセントは落ち着いていました。パイプが吸いたいというのでガシェはパイプにたばこの葉を詰め、火をつけてやりました。フィンセントは一晩中パイプを吸い続け、一言も口をきこうとしませんでした。テオの自宅の住所をフィンセントが頑として教えようとしなかったので、仕方なく、ガッシュは画廊に手紙を送り、それを読んだテオが翌日昼、ようやく、到着します。このときのことをテオはヨハンナに書き送っています。
「かれはわたしが来たことを喜んだ。ぼくはずっとかれに付きっ切りでいる……かわいそうなひとだ。かれはほんのわずかな幸福しか分け前にあずからなかった。もはやかれにはいかなる幻想も残されてはいない。苦しみはときどきあまりにも重くなる。かれは非常な孤独を感ずるのだ。かれはお前と赤ん坊のことをときどき尋ね、お前には人生にこれほどの多くの悲しみがあることを想像できないだろうと言った。ああ、われわれがかれに生きるための新しい勇気を与えることさえできたらいいのだが。あまり心配しないように。かれの病状は前からずっと直る見込みのないものだったのだ。ただ、かれの体質が強健だったから、医者たちが見立て違いをしていたのだ」

ガッシュ
「フィンセントの死顔」
しかし、こんどばかりは見立て違いではありませんでした。胸腔内もしくは腹腔内の出血が止まらなかったのか、それとも、胸膜炎か腹膜炎を併発したのでしょう、夜にはいると容態は急激に悪化し、フィンセントは呼吸困難に陥ります。テオはベッドの上でフィンセントと並んで座り、その頭を両手で抱きかかえました。フィンセントは「死ぬときもこうしていられたらな」とつぶやき、意識を失いました。そして、7月29日早朝、フィンセントはその希望通り、テオの腕の中で息絶えます。37歳でした。
当時フィンセントがおかれた状況を考えれば、さまざまな自殺の理由が推測可能です。しかし、遺書が残されていないため、自殺の真の原因はわかりません。また、フィンセントにかぎらず、自殺者一般にいえることですが、本当に自殺する意志があったのかどうかもわかりません。銃を自分に向け撃ちはなったことはたしかですが、耳を切ったり、テレミン油を呑もうとしたりしたときのように、一時的錯乱による発作的行動だった可能性も否定できません。
フィンセントの死後、テオはフィンセントの上着のポケットから書きかけの手紙を見つけます。その末尾は次の文章で終わっていました。
「しかしそれでも弟よ、もう一度いっておく、できるかぎりいい絵を描こうと思って心を引き締め倦まずたゆまず努力してきた挙げ句の果ての、全生涯の重みをかけて????ぼくはもう一度いっておくが、きみは単なるコローの画商以外の何ものかだ。ぼくを仲介として、どんな暴落にあってもびくともしない或る絵の制作自体に自らが加わったのだ。
なぜならぼくらはそこまで来ているのだし、それこそいくらかでも発作の起こる瞬間にはぼくが是非きみにいっておく必要があると思う一番大切なことだからだ。死んだ芸術家の絵を扱う画商と生きた芸術家の絵を扱う画商の間にこんなにもいま理不尽なちがいがあるのだから。
とまれ、ぼくの絵に対してぼくは命をかけ、ぼくの理性はそのために半ば壊れてしまった????それもよい????しかし、きみはぼくの知る限りそこいらの画商ではない。きみは現実に人間に対する愛をもって行動し、方針をきめうるとぼくは思うが、しかしきみはどうしようというのか」
この錯乱した絶望的な独白を遺言とみることも不可能ではありません。そして、実際、そのように見なす人もいました。しかし、美術史家ヤン・フルスカーがその考えをひっくり返しました。フルスカーはこの手紙の断片の言葉遣いが自殺の4日前にテオに当てに投函した手紙と類似していることに着目し、断片は実際に投函された手紙の下書きにすぎないと断定したのです。現在ではかれの説が定説となっているようです。自殺4日前のその手紙には「僕に関しては、今すべて注意を集中して自分の絵に没頭している。僕が大好きで感服してきた何人かの画家たちと同じようにいいものを描こうとつとめている」と書かれています。ポケットから出てきた断片と異なり、生への強い意欲が窺われます。
死後、テオは母親に悲しみにふるえる手紙を書き送ります。
「僕がどんなに悲しんでいるか書くこともできません。また、いかなる慰めも見出すことはできません。この悲しみは長く続くでしょう。ただ一つ言えることは、かれが自分の望んでいた休息を見出したということです。しかし、いまとなって、よくあることですが、だれもがかれの才能をさかんに賞めたてています…….ああ、お母さん、かれはあんなにぼくの、ぼく自身の兄さんだったのです」
このように書いたテオも兄の死から6カ月後、死んでしまいます。妻のヨハンナはテオのこの悲痛な手紙を引用した後「テオの弱い健康はくじけてしまった。6か月の後、1891年1月25日、かれは兄の後を追ってしまった。二人はオーヴェールの小麦畠のなかの小さな墓地で仲良く並んで眠っている」と記し、手記「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出」を終えています。
夫の死の記録にしては、素っ気ないほどの簡潔さです。

テオ (1889年)
死の4年前、1886年頃からテオは激しい咳を伴う体調不良に悩まされ、心臓が弱っていました(「テオというもう1人のゴッホ」マリー=アジェリーク・オザンヌ フレデリック・ド・ジョード著 伊勢英子 伊勢京子訳 平凡社)。しかも、原因不明の発作におそわれ、脳溢血の後のような麻痺が一時的に出現したこともありました。その後、フィンセントがアルルに移った直後の春にも体調を崩したようで、テオがかかりつけ医の「グリュビのところへ行った(No 489. 1888年5月20日頃)」ことを知ってフィンセントは心配しています。そして「精神遅鈍????極度の疲労感????はこの心臓病から起こりうる」と書いていますから、心臓と脳の不調を疑わせる症状がテオにはみられていたようです。治療の一つとしてヨードカリが使われていたようで、さらに、女性に接することを控えるようグリュビが言うだろうとフィンセントは予測しています。「唇を固く結んで「女はいかん」と言うときのグリュビの顔をみたかね。あんな風な顔は見事な一枚のドガになるよ」などと書いていますから、フィンセントも同じことをこの医者から言い渡されたことがあったのでしょう。
このように、もともと思わしくなかったテオの健康状態はヴィンセントの死によって一挙に悪化します。それでも、いったんはもち直しますが、2か月もたたないうちにぶり返し、ガッシュへの手紙にも「幻暈がしますし、どんな文字にも目がくらみます」と書いています。医者が処方してくれた薬でよくなるどころか「幻覚や悪夢に襲われ…….それをおわらせるために窓から身を投げそうになったほど」でした。10月に入ると尿がでにくくなり、その一方で、錯乱状態になって、暴力までふるうようになります。ヨハンナと息子を殺そうとさえししました。このため、テオはパリの病院に収容されます。入院後、ある程度落ち着きを取り戻したため、オランダでの治療を要望するヨハンナの意向もあり、テオはユトレヒトの精神病院に移されます。しかし、転院時、テオは時間も場所も認識できず、オランダ語、フランス語、ドイツ語、英語をごちゃ混ぜにした訳のわからない言葉を発していました。脈は弱く、早く、左目の瞳孔が右目の瞳孔より小さくなっていました。入院後、歩くことに困難を覚えるようになります。尿にくわえ、便も出にくくなり、その一方で、失禁もみられるようにもなりました。病状は急速に進み、見舞いにきたヨハンナのことさえ見分けがつかず、彼女が持参した花束もすぐにめちゃくちゃにしてしまう有様でした。さらに、突然、錯乱状態になり、自分の服、マットレスなどまわりのものを手当たり次第に引き破り、机や椅子を投げ飛ばしました。そして、それが終熄すると、落ち込んで、フランス語で頭痛を訴えました。睡眠が乱れ、錯乱状態もおさまらず、鎮静剤が投与されました。やがて、痴呆症状は急速に進行、わずかに「フィンセント」という言葉にだけ反応するようになります。舌がふるえ、食事がとれなくなり、嘔吐を繰り返し、げっそりやせ細って、衰弱がすすみ、1881年1月25日、兄の自殺の6か月後、テオは死にます。34歳でした。
尿がでなくなり、幻覚症状を伴う意識レベルの低下がみられたことから、ピサロの息子は父親にテオの死因を尿毒症と報告しています(「ゴッホ 一〇〇年目の真実 デイヴィッド・スウィートマン著 野中邦子訳 文藝春秋)。この腎臓病死因説は長い間信じられ、尿路結石による慢性腎疾患、慢性腎炎からくる高血圧と尿毒症でテオの病状が説明されることもありました。1989年にゴッホの伝記を上梓したスウィートマンも「厄介な腎臓病にかかり」と書いています。ですから、1989年の時点までは一般的にはそのような認識だったわけです。
ところが、1992年、例のオランダのヴォスクイルが、テオが最後に入院したユトレヒトの精神病院から公開されたデータをもとに、その死因について従来とまったく異なる事実を明らかにしました(Voskuil pha(1992) het medisch dossier van Theo Gogh. Ned Tijdschr Geneeskd 136, 1770-1780)。ヴォスクイルによれば、ユトレヒトの精神病院の診療録には、転院時の症状として歩行障害、言語障害、失認、異常興奮、誇大妄想、瞳孔不同が記載されていたとのことです。また、パリの病院からの紹介状には麻痺性痴呆と同義語である全般性進行性麻痺 paralysie progressive generalの診断名が記載されており、ユトレヒトでの最終診断も「急速に進行する麻痺性痴呆」だったというのです(ただし、死亡診断書は失われ、残っていないようです)。1886年にみられた一時的な片麻痺が麻痺性痴呆の初発症状だったようで、1880年7月にフィンセントがテオ夫婦と甥に会いにパリにでてきたときには、麻痺性痴呆の症状はもっとはっきり認められたはずだとヴォスクイルは指摘しています。そのことがフィンセントの自殺に影響を及ぼした可能性すらあるというのです。
麻痺性痴呆は梅毒の晩期症状です。見当識障害、記憶力低下などの痴呆症状にくわえ、情動不安定、人格変化、妄想、幻覚、錯視、異常行動をきたします。さらに、脊髄障害を合併することも多く、きちんと立っていられなくなり、尿閉、便秘などの膀胱直腸障害がみられるようになります。また、アーガイル徴候と呼ばれる瞳孔異常も特徴的な所見です(アーガイル徴候は瞳孔の大きさを制御する神経核がある中脳の障害によっておこるもので、光刺激にたいして瞳孔が縮小する対光反射が消失する一方で、近くのものをみるときの瞳孔縮小機能は阻害されないものをいいます)。テオの末期症状はたしかに神経梅毒症状と考えると矛盾なく説明できるのです。とくに、瞳孔不同がみられたというのは神経梅毒を強く疑わせる所見で、眼底出血でも起こさないかぎり腎不全で瞳孔の左右差をきたすことはありません(ユトレヒトの診療録には対光反射の記録がなくアーガイル徴候の有無は不明です。しかし、神経梅毒では対光反射が左右不平等となって瞳孔径の左右差が出ることがあります)。また、「死の4年前から心臓が弱っていた」というのは、梅毒のいまひとつの晩期症状である梅毒性大動脈炎のせいだった可能性があります。梅毒性大動脈炎では、主として、上行大動脈が脆弱となり、大動脈弁閉鎖不全、冠状動脈狭窄をきたし、これらは最終的に死に直結します。
梅毒はらせん型をした細菌、梅毒スピロヘータ(トレポネーマ)が人体に感染することによって起きる病気です。ご存じのように、性病の一種で、性行為によって皮膚の微細な傷口や粘膜から長細いらせん状のスピロヘータが侵入、感染が成立します。感染して3週間ぐらいで、外性器などの感染部位に下疳と呼ばれる軟骨ぐらいの硬さの硬結性潰瘍が形成されます。この時期を第一期梅毒といいます。
下疳は3~6週間で消失しますが、症状がなくなったからといって、梅毒スピロヘータが体外に放り出されたわけではありません。無治療感染者の約4分の1では、知らないうちにスピロヘータが血流やリンパ流にのって全身の臓器に拡散していきます。これに対して人体も激しい抵抗を示し、その激烈な免疫反応によって全身に発疹が出現、皮膚や皮下組織の一部は溶けて、鼻などの顔面、手掌、性器などに特徴的な無痛性潰瘍性病変、扁平コンジローマを形成します。こうした皮膚病変のために頭髪が部分的に抜け落ちたり、鼻や口の一部が欠け落ちたりすることすらあります(フィンセントがアントワープで梅毒と診断されたとしたら、おそらくこの第2期梅毒のときだろうと推定されます)。ただし、梅毒に特徴的なこうした皮膚症状の重症度はさまざまで、ほとんどみられないこともあります。
外見上の変化に加え、梅毒第2期には、微熱、食欲低下、体重減少、関節痛、リンバ節腫脹などの全身症状もみられることがあります。さらに、このらせん型の微生物は脳脊髄を覆う髄液内にも侵入、まれに無菌性髄膜炎症状を引き起こすことがあります。
生体の旺盛な免疫反応によって殆どの場合、梅毒スピロヘータは第2期梅毒の時期に体外に駆逐されます。しかし、治療がなされないと、一部の感染者は、長い潜伏期間を経て麻痺性痴呆(別名、進行麻痺)や脊髄癆などの神経梅毒や梅毒性大動脈炎へと進行、死に至ります。
神経梅毒は、脳や脊髄にとりついた梅毒スピロヘータが原因となって血管が炎症を起こして閉塞し、このため、血管周囲の組織が血行障害をきたすことによって生ずる梅毒合併症です。血液が行き渡らなくなり、大脳皮質や深部の神経核や脊髄後索の神経細胞が変性脱落するのです。すると、脳機能に狂いを生じて、感情の起伏が激しくなったり、偏執的になったりといった性格変化がみられるようになります。また、てんかん発作を起こすこともあります。その一方で、注意力が散漫となり、幻覚、錯視、妄想などの精神症状も出現してきます。さらに、記憶力、判断力、洞察力が失われ、うまく喋ることができなくなり、最終的に、痴呆状態に陥いります。一方、脊髄後索には身体の位置を脳に知らせる神経線維が走っており、この神経線維が消失していくことによって、身体のバランスが失われ、立っていられなくなります。さらに、脊髄の共通の症状として、便の失禁や便秘、排尿障害もみられます。
テオの時代、梅毒は不治の病でした。水銀治療などというものが一応ありましたが、これは、治療効果より副作用のほうが圧倒的に勝るという悪夢のような治療法でした。さらに、グリュビがテオにも処方しているヨードカリも抗菌剤として当時用いられていましたが、梅毒を根絶するにはほど遠い薬です。ようやく梅毒治療に希望の光がみえてきたのは1910年、ドイツのパウル・エーリッヒと日本の秦左八郎が有機ヒ素化合物、サルバルサンの効果を報告してからです。ただし、サルバルサンもヒ素中毒の問題を抱えていました。しかし、その後、ペニシリンが出現し、梅毒はほとんど姿を消します(ただし、エイズの流行で、最近、また、問題となってきています)。
テオやフィンセントの頃は梅毒の「全盛時代」でした。ペニシリン発見前の1906年、ワッセルマンが血液による梅毒診断、ワッセルマン反応を開発、これにより、梅毒感染者の大量スクリーニングが可能になりました。さっそく、パリ、ベルリン、ニューヨークの成人でワッセルマン反応による調査がなされ、成人の梅毒罹患率が8~14%であることが判明しました。20世紀への変わり目、パリなど西欧諸国の大都会でいかに梅毒がありふれた病気であったかがわかります。実際、ゴーギャン、ニーチェなどテオやフィンセントの同時代人で梅毒に罹患していた有名人は少なくありません。ただし、梅毒感染者の全員がテオのような末期症状に至ったわけではありません。第一期梅毒症状がみられる無治療感染者のうち大動脈の合併症がみられるようになるのは10%、中枢神経の症状がみられるようになるのは8%にすぎません。しかし、そうはいっても、当時の梅毒による影響は甚大でした。19世紀から20世紀に移り変わる頃、中年の中枢神経疾患、循環器疾患の主要病因は梅毒だったといわれています。現在のメタボリック症候群の座を当時は梅毒が占めていたのです。
さらに、神経梅毒はてんかんのイメージにも影響を与えていたようです。神経梅毒にてんかん発作がみられることは先ほど述べましたが、中には、神経梅毒によるてんかん発作出現後に痴呆症状があきらかになる患者もいました。まるで、てんかん発症が引き金となって痴呆症状を引き起こすかのような印象を与えていたのです。19世紀のてんかんの研究は、精神病院収容されるような精神症状、知能障害を合併した重篤なてんかんを対象としていたために、痴呆とてんかんとの関連性が重視される傾向がありました。神経梅毒の存在は、それをさらに強化する要因となっていたのです。ドストエフスキーがてんかんをもつ主人公の小説に「白痴」という題名をつけたのも、もしかしたら、こうしたことが関係していたかもしれません。しかし、現在、てんかん発症によって痴呆に到ることは、特殊な、まれな病気に罹患した人をのぞき、まず、ありません。その理由の一つが、てんかんと痴呆を合併する代表的疾患、神経梅毒の激減ではないかと思われます。
進行性麻痺は梅毒の初感染から15年~20年で発症しますから、テオが梅毒に感染したのは13歳から18歳にかけてということになります。
1876年9月末、19歳の秋、ハーグのグーピル画廊に勤めていたテオは重い病に倒れます。高熱が続き、起きあがれなくなったのです。キニーネ(抗マラリヤ薬で、おそらく単なる解熱剤として処方されたのでしょうが、サルバルサンやペニシリンがない時代、熱に弱い梅毒スピロヘータを押さえ込むためにマラリヤに罹患させ、その後キーネを処方してマラリヤ原虫を死滅させるという「マラリヤ療法」という荒療治がありましたが、テオがマラリヤ療法の一環としてキニーネで治療されたのかどうかはわかりません)が処方されましたが回復せず、食欲をなくし、不眠状態となってしまいます。発病から10日目に父親が訪ねたときには、テオは、目はうつろ、抜け殻のようになっていました。この時期イギリスにいたフィンセントも心配して「家からの便りできみの病気を知った。ああ、きみのそばにいてやりたいのだが」(No 75. 1876年10月3日)と手紙に書いています。熱は3週間続いてようやくおさまりました。
この高熱のエピソードがあった2年前、17歳頃からテオは「灼けるような性欲に苦しめられ」ハーグの娼館「快楽列島」に足繁く通っていたました。時間的経過を考えると、テオが梅毒に罹患したのはこのときだと思われます。そうだとすると、19歳の時の不明熱は梅毒第2期に発症することがある急性梅毒性髄膜炎だったのかもしれません。この合併症は若年に多く、全身倦怠、発熱、頭痛、食欲低下など無菌性髄膜炎と類似の症状がみられます。
ヨハンナや息子のフィンセントの手記をみる限り、ヨハンナはテオの死因が梅毒だとは知らなかったようです。
麻痺性痴呆が発症するのは初感染から15年から20年してからで、その間、第二期梅毒から10年以上まったく無症状です。当時、麻痺性痴呆が梅毒感染既往のある患者にみられることは知られていました。しかし、その関連について決定的な証拠はでていませんでした。アルフレッド・フルニエが1870年代から脊髄癆と梅毒の関連について指摘し始めていましたが、かれば麻痺性痴呆と脊髄癆の病因的関連について正式に報告したのはテオが死んだ3年後、1884年のことです。しかも、その後も麻痺性痴呆と梅毒の関連については論争が続き、1905年の時点でも麻痺性痴呆の梅毒説に強硬に反対する神経学者がいました。結局、1913年、野口英世とムーアが神経梅毒患者の脳標本に梅毒スピロヘータを確認して、論争に決着がつきます。テオの死後20年以上たってのことです。主治医はテオの末期症状の原因として梅毒を疑っていた可能性はありますが、確証がないのですから、そのことをヨハンナに告げなかったとしても不思議はありません。
ついでながら、梅毒は、さきほどのべたように第二期梅毒あたりで一番感染力が強く、性行為を通じて人から人に感染したり、胎内感染を起こしたりする可能性がありますが、発病から4年を過ぎる頃から感染性が急 速に低下します。麻痺性痴呆症状が出る時期には、梅毒スピロヘータは性器や血液中には存在せず、他人にうつことはありません。ですから、ヨハンナやその子のフィンセントが梅毒に罹患する可能性はまったくなかったわけです。実際、二人とも、長寿を保ち、梅毒症状も出現していません。
フィンセントは無名な画家として死にました。不可解な自殺を図ったこの奇妙な画家の画業や手紙が、そのまま、世に知られることなく永遠に埋もれてしまったとしても、何の不思議もありませんでした。
それをほとんど独力で奇跡的におしとどめたのがヨハンナでした。

ヨハンナと息子
テオが死んだ後、ヨハンナは幼い息子フィンセントをつれてオランダに帰り、「子どもに新鮮な空気を与えるため」アムステルダムから24キロメートルほど離れた小さな村ブッスムに居を構えます。周りから早く「始末」するよう「忠告」された200点の絵と膨大な数の手紙の束が一緒でした。子連れの寡婦としての生活の中でヨハンナはテオとの結婚時代に中断していた日記を再開します。その最初の言葉は「すべては夢にすぎない」というものでした。
生活の資を稼ぐため翻訳の仕事をする一方で、下宿屋を始めますが「あらゆる世帯の苦労のために家事の奴隷に堕すことのないよう、気をつけねばならない」と彼女は日記に書き記しました。「精神を活発にさせておかねばならない。テオはわたくしに芸術について多くのことを教えてくれた????というのがまずければ????かれは人生について多くのことをわたくしに教えてくれた。子どもの世話のほかに、もう一つ別の仕事をかれはわたくしに残していった。それはフィンセントの作品である。それを世に示し、できる限りそれが正当な評価を受けるようにする仕事である。テオとフィンセントが集めたすべての宝????それらを子どものために汚されないように保存すること、これもまたわたくしの仕事」だというのです。そして「わたくしは人生に目的がないわけではない。しかし、ひとりぼっちで、寂しく感じる」とつけ加えています。

イサーク・イスラエルス
「ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル」
1925年(ヨハンナ63歳)
寂しさを紛らせてくれたのはフィンセントからテオへあてた膨大な数の手紙でした。ヨハンナは友人にあてて書いています。「テオの発病以来、これらの手紙はすでにわたくしの生活の大きな部分を占めております。こちらに帰って私たちの家で過ごした寂しい最初の夜、わたくしは手紙の包みを取り出しました…….私が求めたのはフィンセントではなくて、テオでした。わたくしは言葉の一つ一つを吸収し、どんなちょっとしたことまで心に深く刻み込みました。わたくしは感情だけでなく、全精神でもって手紙を読みました。そして、それがずっと続いたのです。フィンセントの姿が眼の前にはっきり浮かんでくるまで、何べんも何べんもくり返し読みました」
ヨハンナはさまざまな機会を作って義兄のすばらしさを世間に知らしめようと努力します。下宿をフィンセントの絵で飾り、ベルナールたちの協力を得て展覧会を開きます。そのかいあって、ゴッホの絵画は後期印象派を代表する輝かしき成果と評価されるようになります。一方、ヨハンナは日付のないテオ宛の膨大な数のフィンセントの手紙を丹念に読み比べ、手紙の日付を推定するという、気の遠くなる作業を延々と続けました。そして、1914年、テオの亡骸をオーヴェールにあるフィンセントの墓の横に移したのち、一個人による「世界遺産」ともいうべき書簡集の出版にこぎつけます。
フィンセントはしばしば「狂気の画家」と呼ばれてきました。これは、いうまでもなくアルルにおける「耳切事件」が原因です。しかし、耳切事件以前も以後も、かれの絵や手紙には明晰な知性が認められ、狂気のかけらさえうかがえないことも、これまた、しばしば指摘されてきました。実際、耳切事件以降の絵や手紙を見ても、フィンセントは人一倍知識も豊富で、論理的で、判断力に優れています。自己省察力も一段と鋭くなっています。もちろん、だからといって、フィンセントが精神の変調をきたすことがなかったということではありません。あきらかに、かれは繰り返し何らかの精神変調を伴う発作(クリーゼ)におそわれ、その最初の例が耳切事件でした。しかし、クリーゼはつねに一過性でした。回復すれば見事な絵を描き、論理的な手紙を書くことができたのです。
では、その繰り返しおこった一過性の精神変調発作、クリーゼが一体何であったのか、はたして、それはてんかん発作だったのか、が何よりもここで論ずべき本題なのですが、しかし、その前に、耳切事件以前について、ひとつ確認しておかねばならないことがあります。
耳切事件前、フィンセントが意識喪失を伴うような精神の変調をきたしたという記録はありません。しかし、最初の失恋事件後から、フィンセントは常識ではちょっと考えられないほどの気分の上下動をくり返しています。もちろん、気分の変動は多かれ少なかれ、どんな人にもみられます。しかし、そのことが、日常生活に深刻な影響を与え、学業や仕事を阻害するとなると、これは、病的といわざるをえません。フィンセントの場合、気分の変動がかれの人生を大きく狂わせてしまったわけですから、そこに、何らかの疾患の存在を想定せざるをえないのです。
その場合、最初に念頭に浮かぶ疾患は、以前、躁うつ病と呼ばれていた双極性障害です。
フィンセントは、生涯を通じて何度も病的な抑うつ気分を経験しています。すでにハーグのグーピル商会に勤務している頃から「テオ、きみにパイプたばこを喫うことを大いにすすめる。これは憂うつ症にはいい治療薬になる。ぼくは最近ときどき気が滅入ってしまう」(No 5)と書いていることは以前述べました。さらに、ロンドンの最初の失恋後も病的鬱状態を想定しなければ説明がつかないほどの気分の落ち込みを経験しています。そして、これが、かれの人生を決定的に変えてしまいます。また、ボリナージュにいるときも「人生はいいものだ、大事にしなければいけない貴重なものだと感じて、久しぶりに陽気な、生き生きした気分になった。というのも、このところ僕にとって人生は次第に何とはなしに貴重さが薄れ、大して重要ではない、どうでもよいものになってきた、もしくはそんな風に思われてきたからだった(No 132. 1879年8月15日)」と書いています。例の、「決別の手紙」の一節ですから、聖職者を断念したあとの空虚感を語っているのでしょうが「人生の貴重さ」が薄れるのは鬱の特徴的症状です。そして、一年後の再開された手紙には「あれこれの仕事に関与することを拒まれ、あれこれ必要なものは手の届かぬところにあって、困窮の中に閉じこめられた気持ちになる。そのためにメランコリに陥らざるをえないし、さらに友情や気高い、まじめな愛情があってしかるべきところに空虚を感じてしまう。そして気力そのものを蝕む恐ろしい落胆を覚える(No 133F. 1880年7月)」と書かれています。
さらに、ヌエネンで農夫や職工の描写に励んでいたときも「僕は暗い気持ちで、こんなに暗い様相を呈した新年を迎えたことがない」と書いていますし、同じ頃、父親は「今朝、わたしはフィンセントといろいろ話した。かれは優しい調子だった。あれが言うには気分が沈んでいるのは特にこれといった理由はないとのことだ」と記しています。また、アントワープの冬が耐え難くなって気力が低下し、テオのいるパリに突然現れていますし、そのパリでの二度の冬にも、気分が落ち込み、一年目はテオがそのあおりを食らって耐え難い思いをしています。さらに、2年目はフィンセントがアブサンなどで気を紛らわそうとして症状をさらに悪化させ、パリを逃げ出しています。
一方、躁状態に舞い上がることもありました。
躁状態として一般的によく指摘されるのはアルル時代です。アルル時代の恐るべき絵画制作量、そして、その絵画にみられる輝かしい色彩、それを説明する膨大な量の手紙、それらは、躁的エネルギーの高まりがなせる技だったというのです。しかし、アルル時代を躁病期と考えうるかどうかはちょっと議論のあるところです。通常、躁状態においては気分が先走ってしまい、まとまりのある行動がとれなくなるとされています。ところが、アルル時代にフィンセントは絶妙な色使いと見事な画面構成による膨大な数の絵画の傑作をものにしています。また、それを説明する手紙の数々も論理的で見事な文章でつづられています。一般的な躁状態においては入院を要するほどおかしな行動に走りがちになり、生産的な活動や思考は通常不可能です。たしかに、この時期、躁病的エネルギーの高まりはあったのでしょうが、それを「病的」と考えていいのかどうかについては答えを留保しておいたほうがよさそうです。もっとも、本人自身も書いているように、アルル時代のような高揚したフィンセントの精神状態では、たとえば、外来業務、病棟業務、当直業務、種々雑多な管理業務を義務づけられた哀れな勤務医は、ちょっと勤まらなかったでしょうが。
躁病的エピソードはむしろアルル時代以前にみとめられます。一つは、ジョーンズ師の助手をしていたロンドン時代です。両親のもとに帰る前、フィンセントは異様に長いまとまりのない手紙をテオに書いています。あれこそ、躁病的文章そのものです。当時、行動面において具体的にどのような症状があったのかわかりませんが、あれほど順調にいっていると思われたジョーンズ師のもとでの教会の仕事を放りだしてオランダに帰ってしまい、その後、ロンドンに戻らなかったところをみると、本人も不安に感じるほどの精神的変調をきたしていたものと想像されます。
さらに、アムステルダム時代、神学校入学の受験勉強中も躁状態にあったことが疑われます。棍棒で自らを叩きながら勉強したというのは、いくら「神にならいて」の影響があったにしても、常軌を逸した躁病的エピソードですし、何よりも、「語学の天才」フィンセントがギリシャ語の文法を覚えきれなかったのは、躁病的空回りと考えた方が納得できます。
ベルギーの福音伝道学校に通っているときも、父親のもとにフィンセントが「やせて、夜も眠られず、神経がいらいらした興奮状態に陥っている」ので家に連れ帰るよう学校から勧告の手紙が届いています。
また、ケーに失恋したときの「ランプ手かざし事件」をはじめとする異常な行動も躁病的エピソードを疑わせます。実際、当時フィンセントは「憂鬱になったりはしない……せっかく元気になったところだから、気を落としたりしない」と手紙に書いています。
ちなみに、躁的エピソードは「気分が異常かつ持続的に高揚して、開放的または易怒的な、いつもと異なった期間が少なくとも一週間持続する」と定義されています(米国精神学会 DSM-IV-TR。精神疾患の分類と診断の手引き 新訂版 医学書院)。躁状態になると本人はいつもご機嫌かというと、そうとばかりはいえません。定義にあるように、「易怒的」なこともあるのです。
お子さんがまだ小さい頃に躁うつ病に罹患された敷島カエルさんは次のように書いてみえます(敷島カエル コントロール不能な躁状態 躁うつ病体験記 加藤忠史編 「躁うつ病はここまでわかった」日本評論社))
「躁がピークに達すると、両親に怒りの感情が出てきておさえられませんでした。普段考えられないようなひどいことばが浮かんできて、それを親にぶつけるのです…….激しくなってくると親のほうも「また病気になってる」などと言ってくるのです…….「こんなに苦しい気持ちはあんたらにはわからへん」など、両親に対してあんたらなどと平気で言っているのです。その激しさは相当なもので、本当にひどかったです。かなりの迫力で一方的に意見を言うのです…….私の中でどんどん進んでいく発想に周りの人はついていけなくなって、といいますか、あきれて無理矢理病院に連れて行こうとします…….躁状態の私は病人扱いされることをものすごく嫌がり、とにかく「両親に反発しているだけ」の一点張りです。」
フィンセントの父親やテオへの理不尽な言葉や態度、あるいは、「ヘール事件」を考える上で参考になる手記です。さらに、敷島カエルさんは「病気になってもっとも苦しかったのは、自分のために何もできないことではなく、人に何もしてあげられないことでした…….人は誰かのために何かをすることで、心が満たされ、喜びを与えられるのです」とも書いてみえます。「一体僕は何の役に立ちうるのか、僕はいわば役に立つ、有用な人間たりえないのか」ということが自分の悩みだと訴えたフィンセントと響きあうような言葉です。
双極性障害(躁うつ病)ではうつ状態、躁状態以外に、その二つが混じり合った躁・うつ混合状態(不快躁病)になることもあります。混合状態になると苛立ち、怒りっぽさ、敵意、焦燥、不安、不機嫌、不満、陰気、無愛想などが目立つようになります。気分は落ち込み、しかも、行動上はいらいらと落ち着きがなくなり、これらを埋め合わせようとアルコールや薬物の濫用に走ることも少なくありません。この状態の時、自殺率も高くなるとされています。フィンセントにもこの混合状態があったと推定されます。

ウィレミーン
ちなみに、双極性障害を疑わせる症状は、ひとりフィンセントだけのものではありませんでした。鬱症状にパイプ煙草が効くとアドバイスしているぐらいですから、テオにも鬱症状はあったのでしょうし、もう1人の弟も30代半ばに、自殺しており、やはり鬱病だった疑いがもたれています。妹のウィレミーンも鬱気分を訴えていたようで「きみがいっているような憂鬱な気分にやられたときの薬は僕の知るかぎり、薬草のなかにはみつからない…….ぼくは普通そんな場合悪いコーヒーを多量飲むようにしている…….この飲料の昂奮作用によって、強力な想像力が働き…….一徹一刻な信念をえさせてくれるからだ」(W4. 1888年6月)」とフィンセントはアドバイスしています。
ただし、ウィレミーンの鬱気分は厳密に言うと他の疾患によるものだったと考えられます。
「酒も飲まなければ自堕落な生活もしていないのに、写真に写った彼女は精神病患者の目をしている(No 481)」とフィンセントはテオに書いていますが、彼の見立ては不幸にも的中してしまいます。ウィレミーンは30代に精神的におかしくなって精神病院に入院、残りの半生をそこで送ることになります。入院してから2年間は精神症状が進行性に悪化、その後、20年間は病状が落ち着きましたが、50歳になってひどい痴呆状態に陥ったようです。ヴォスクイルは彼女が入院していた精神病院の診療録を調査し、彼女が失調感情障害(統合失調感情障害)に罹患していた可能性が高いと報告しています。双極性障害に統合失調症が合併したような病態です。

セント叔父
しかし、フィンセントと同じような双極性障害に罹患していたことが親族の中でだれよりも疑われるのは、フィンセントと同名の叔父、セント叔父です。
セント叔父は画商として大成功を収めましたが、しばしば原因不明の変調をきたしました。このため、太陽を求めて南フランスで静養することが少なくなかったといわれています。日光浴によって元気をとり戻したというのです。変調を繰り返し、しかも、日光が有効な疾患といえば、まず思い浮かぶのが季節性感情障害、とくに、冬季うつ病です。
季節性感情障害というのは季節によって躁状態とうつ状態をくり返す躁うつ病関連疾患です。冬季うつ病は、秋頃から抑うつ状態が始まり、春の訪れとともに軽快するということをくり返す季節性感情障害で、オランダなどのように緯度が高く日照時間が短い国に住む国民に発症率が高いことが知られています。症状は、無気力、無関心などのうつ症状が主体ですが、過眠傾向、過食傾向も付随してみられます。逆に、日光が強く、日照時間の長い夏には軽躁状態になることもあります。根本的な病因はまだ十分解明されていませんが、松果体ホルモン、メラトニンの過剰分泌が何らかの形で関与していることだけはたしかなようです。メラトニンは暗所や夜間に分泌が増える「睡眠誘発ホルモン」で、日照時間の減少する冬に多く分泌されます。そして、おそらく、冬季のメラトニンの過剰分泌そのもの、もしくは、それをきたす何らかの要因が、気分を落ち込ませるのだろうと考えられています。したがって、治療としては、セント叔父が行ったように、日光に恵まれた土地への転地療養、あるいは日光浴によってメラトニンの分泌を減らすようにします。しかし、そんな優雅な治療法が許される恵まれた環境にいる人はまれですから、現在では人工的につくりだした高照度の光を浴びる光療法が一般には行われています。
季節性感情障害は人類が日照時間の少ない高緯度で生活するようになった時から延々と存在していたものと推定されますが、疾患として確立されたのは最近のことです。もちろん、セント叔父の頃は知られておらず、おそらく、かれは経験によって、転地療養、日光浴療法をおこなっていたのでしょう。
このセント叔父は軽躁状態に陥ることもあったようです。その被害者の一人がグーピル商会ハーグ支店の支店長テルステーフでした。テルステーフはセント叔父が「随分気むずかしい、臍曲がりな方」で「同じことをぶつくさ倦きもせずよくいいつづけ」たとテオに手紙でこぼしています。ハーグ支店のことに「随分ちょっかいをだし」、セント叔父が引退してハーグを出発したとき自分は「命拾いのため息を吐いた」というのです。やたらと手紙も書いたようで「あのころひどく嫌な思いをさせられた手紙をいまでも束にしてお目にかけることができます」とテルステーフは吐き捨てるように書いています。
傍迷惑な行動はほかでもやっています。
フィンセントのケーへの失恋騒動の時、家族親戚がこぞってフィンセントを押しとどめようとしているなか、全然予期しなかった人間が好意的にみてくれている、とフィンセントはテオへの手紙に書いています。その「予期せぬ人間」というのがとっくの昔にフィンセントに愛想を尽かしていたはずのセント叔父です。フィンセントが冗談めかして「ケーが運営している「だめです、絶対にだめです」製粉所には小麦を供給しないでください」と言ったのがどうやらいたくお気に召したようで、フィンセントに「一生懸命仕事をして、成功すれば…….チャンスがあるだろう」とフィンセントを焚きつけたのです。フィンセントの頭を冷やそうと躍起になっているフィンセントの両親やストリッケル夫妻たちの神経を逆なでするような傍迷惑な「助言」でした。フィンセントの躁的行動にセント叔父の躁的気分が完全に同期してしまっていたようです。
アカデミックな絵画が支配する保守的絵画市場で、セント叔父がバルビゾン派やハーグ派などの「自然派」絵画に目をつけ大成功を収めた陰には、躁的エネルギーを基盤とした相場師的事業展開があったのかもしれません。
神戸大学の服部晴起氏と久留米大学の前田久雄氏は双極II型障害が「芸術家などに多く、創造性に富み、嵐のような波乱万丈の生涯を送る…….生活史を聴取すると、結婚や転職をくり返していたり、ドラマのような激しい愛体験がなされたりすることも多い。大きな社会的成功を成し遂げた人物に精神科治療の関与をぎりぎりのところで避けえた「なまの」双極II型障害の姿がみいだせることも少なくない」と書いています(「双極II型障害の治療双極性障害の治療スタンダード」樋口輝彦、神庭重信編 清和書店)。ファン・ゴッホ家の二人のフィンセントにぴったり当てはまるコメントです。
ファン・ゴッホ家のように家族性発症がみられるという意味で躁うつ病(双極性障害)は遺伝性疾患の一種といえるでしょう。実際、心理的要因によって症状が左右されるとはいえ双極性障害は基本的に「心の病」ではなく「体の病」です。気分の問題というと私たちはどうしても「気のもちよう」で何とかなると考えがちです。しかし、何ともならないのです。たとえば、脳梗塞で脳の運動神経路への血流が途絶して、手足が麻痺してしまった場合には誰も「気のもちようで何とかなる」とは思わないでしょう。それと同じように、双極性障害でも「何ともならない」のです。完全には解明されていませんが、双極性障害ではモノアミンと総称されるセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンという化学物質が関与する神経伝達に異常があることがわかっています。この異常は脳梗塞のように目で見てわかる異常ではありません。しかし、脳の不調であることに変わりはありません。また、この脳の不調によってもたらされる気分の障害は手足の麻痺のように目に見えるものではありません。しかし、双極性障害は脳の異常によってもたらされる気分の筋力低下であり、気分の不随意運動なのです。まだ、双極性障害をもたらす遺伝子異常は同定されていません。しかし、候補遺伝子はたくさん同定されてきています。いつの日か、遺伝子が確定され、双極性障害が「心の病気」ではなく、「体の病」であることが目にみえる形で示される日がくるかもしれません。
ところで,フィンセントにもセント叔父のような季節性の気分変動がみられていたことはいうまでもないでしょう.おそらく,冬が近づくと抑うつ気分がひどくなって耐え難くなったのでしょう,この「放浪の画家」は冬になると他の場所へと唐突に「逃亡」する癖がありました.エッテンの実家からハーグに出奔したのも,ドレンテからヌイエンの実家に逃げ帰ったのも,アントワープから突然パリに現れたのも,そして,パリからアルルへ旅立ったのも冬でした.「日本的」と信じる光を求めて芸術的欲求でアルルへ移り住んだということになっていますが,もしかしたら,気分を癒してくれる「光」がそこにあることを無意識のうちにフィンセントは感じとっていたのかもしれません.
さらに,フィンセントはクリスマスにしばしば人生の節目を経験しています.グーピル商会をクビになったのはクリスマスに勝手にオランダの実家に戻ってしまったからですし,クリスマスの教会儀式に出席しないと宣言して父親と衝突,ハーグに出奔しています.そして,アルルでの春から夏にかけての高揚の後に,クリスマスの夜,耳切事件がおこります.耳切事件自体は躁うつ病の症状ではありえませんが,冬に入ってからの気分の落ち込みが,発作性精神変調を引き起こす何らかの誘因になった可能性は否定できません.
もっとも、フィンセントの気分の変動はつねに季節や日照と結びついていたわけではありません。そのいい例が、最初の失恋劇です。それは、5月から7月頃に起きたと考えられますが,夏の陽光は(霧のロンドンでは夏といえども十分な日射が不足していたのかもしれませんが)彼を気分のどん底から救い出してはくれませんでした。
ところで、先ほど、双極Ⅱ型障害ということばを唐突に使ってしまいましたが、ここで、すこし説明いたします。
双極性障害という言葉の前身は躁うつ病です。躁うつ病はクレッペリンというドイツの精神科医が20世紀の変わり目に確立した疾患概念で、躁状態とうつ状態が交互に現れる病態の総称です。しかし、その後、躁状態はみられず、抑うつ状態だけが見られる「単極性」の「大うつ病」が結構多いことが知られるようになってきまし。中年のきまじめな「メランコリー好発型」性格の人に起きやすいといわれる有名なうつ病がその代表例です。そこで、気分障害の疾患は単極型大うつ病と双極性障害(躁うつ病)の二つに大別されることになりました。
ところが、一見、単極性大うつ病にみえるのですが、よくよく話を聞いてみると、実際には軽い躁状態(軽躁状態)がある患者さんが結構多いことが知られるようになってきました。こうした患者さんは、単極型大うつ病、双極性障害のいずれのカテゴリーにも入りませんから、以前は、診断名をつけることが困難でした。
こうした「軽躁状態のみられるうつ病」の患者さんの半数はアルコールや薬物を濫用しており、性格的にも衝動的で、怒りっぽく、神経質で、大袈裟で、傲慢で、人とのトラブルが絶えない方が少なくありません。神経症、人格障害と誤診されかねない病像を示すことさえあるのです。このため、双極性障害のような気分障害ではなく、違ったカテゴリーの精神疾患と誤診され、治療されてしまいがちです。しかし、神経症などの治療を受けてもなかなかよくなりません。ところが、躁うつ病の治療で軽快するのです。
また、せっかく気分障害と診断されても、軽躁状態には本人は気分爽快で「病的」とは思っていないので、患者さんはうつ状態だけを問題として医者に訴えません。このため、軽躁状態が見逃されてしまい、単極性大うつ病と誤診されることになります。しかし、単なるうつ病として治療をうけると、抗うつ薬によって軽躁状態が頻繁に誘発される危険性があります。そして、急速交代型といって、時間単位、日単位で躁状態とうつ状態が入れ替わるやっかいな病像を示すようにもなります。
こうした臨床的事実の積み重ねから、「軽躁状態を伴う双極性障害」の重要性が認識されるようになりました。そして、1994年、米国精神医学会はDSMという精神疾患の分類の第4版で従来の躁うつ病を双極I型障害とし、軽躁状態が主体の双極性障害を双極II型障害と定めました。このDSM-IV分類は精神疾患分類の「グローバルスタンダード」で、アメリカのみならず、日本も含めて世界中で使われています。ちなみに、さきほど述べた季節性感情障害がみられる患者さんの約一割は双極I型障害、三割は双極II型障害といわれています。
双極性障害は単極型大うつ病にくらべ発症年齢が低く、平均発症年齢は30歳あたりとされています。しかも、10代でも発症することもあります。15歳から19歳あたりに発症の一つのピークがあるという報告さえなされています。このため、双極性障害は思春期の子どもを診るとき小児科医が念頭に置くべき疾患の一つになってきています。学校での問題行動、学業不振、不登校、引きこもり、多動の原因となっていることがあるからです。
というと、思い起こされる方もみえるかもしれません。フィンセントが突然中学校を中途退学してしまったエピソードです。あれは双極性II型障害の初発症状だった可能性もあるわけです。
ついでながら、アメリカでは、双極II型障害が話題になるにつれ、10歳以下でも双極性障害を発症しうるという極端な説もでてきており、5歳の自殺例さえ報告されています。そのアメリカからの報告によれば、幼少時の双極性障害は急激かつ持続する怒りの爆発のような問題行動として現れるとされています。ただし、幼少期の双極性障害の存在については疑問視する声も少なくありません。
先ほど、双極II型障害では躁状態ではなく軽躁状態が出現するといいましたが、軽躁状態と躁状態の差を、DSM-IV分類は程度の差、具体的には、入院を要するかどうかの差と定義しています。これでは今ひとつピンときませんが、帝京大学の内海健氏は、躁状態では纏まった作業が不可能だが、軽躁状態では決定的な破綻が生じず、場合によっては一定の成果をもたらすこともありうる、とやや突っ込んで説明されています(うつ病新時代 双極II型障害という病 内海健 勉誠出版)。このため、本人には病的であるという認識、病識が生まれにくいのが問題となります。周りも病的とまでは考えないことが多いのです。しかし、周囲の人間は迷惑を蒙ることが多いので注意をすることになります。ところが、本人には病識がないので怒りだします。うつ状態を経験した双極II型障害の人々にとって心が晴れやかで絶好調の軽躁状態は「理想状態」であり、その理想状態を阻止しようとする人間は親であれ兄弟であれ、敵にしかみえないのです。
ただし、病気の経過の中で、軽躁状態の期間はきわめて短く、全体の1.3%にすぎません。経過の半分はうつ病相が占め、2.3%が混合状態、そして、残りの半分近くが一応症状のない期間ということになります。軽躁病相の期間は驚くほど短いわけで、その上、本人は自分が病的だとは考えていませんから、前にも言いましたように、双極障害としての診断が遅れてしまうのです。
双極II型障害では抑うつ状態の病像も単極性大うつ病や躁うつ病(双極I型障害)とちょっと違っているようです。内海氏は双極II型障害における抑うつ症状の出現様式として、症状発現が不揃いになりがち(不全性)で、症状が変動しやすく(易変性)、しかも、抑うつの出現に場面選択性(部分性)があると指摘しています。不全性というのは、たとえば、抑うつ気分にありながら結構動き回ったりして、古典的な抑うつ症状(抑うつ状態になると億劫で動けなくなるのが普通です)とちょっと異なる風変わりな抑うつ症状をさします。その中には先ほど述べた混合症状が混じっている可能性もあります。易変性は数時間単位、数日単位で症状の改善増悪をくり返すことです。しかも、それが些細なことを契機としておこるため、心因性反応と勘違いされてしまいます。むら気、気まぐれなど性格的な問題と誤解されることもあります。部分性というのは、抑うつ気分がどんな状況でも持続してみられるわけではなく、状況によって出現したり消失したりすることです。仕事の時には抑うつ状態、しかし、家ではむしろ軽躁状態で元気いっぱい、といったパターンです。内海氏の言葉によりますと、こうした部分性をもつ双極II型障害の患者さんは「ぬけぬけ」とした印象を与え、当然、わがまま、身勝手と受け取られることも少なくありません。このため、この場合も、うつ症状ではなく性格の問題と誤認されてしまいます。
以上のうち、易変性で思い出されるのが妹にテオが書いた「かれのなかにはまるで二人の人間がいるみたいだ。一人は驚くべき才能に恵まれた、優しい、繊細な心の持ち主、もう1人は利己的な、無情な人間…….二人はいつでも正反対の議論をしあっているのだ。気の毒に、かれはかれ自身の敵なのだ」という有名な手紙の一節です。このテオの手紙やゴッホの行動様式を基にフィンセントが分裂病(統合失調症)だったと主張する議論もあります。「二人の人間」がいて、人格が解離しているから、分裂病だというのです。しかし、これは、ちょっと、単純にすぎます。分裂病では、たとえば「電波に命令されて行動する」ような了解不能な人格が片一方に現れ、これをもって人格が「分裂」し「解離」していると判断します。しかし、テオはここでフィンセントの感情、気分、判断がまるで別人のようにコロコロ変わってしまうといっているだけだと思われます。万が一、了解不能の異なった人格が交互にあらわれたのであれば、テオもその異常性に気づき、妹にも兄が病気かもしれないと書いたはずです。「かれは彼自身の敵」という「かれ」も「敵」も了解可能なフィンセントという正常な人格であり、だからこそ、「気の毒」なのでしょう。テオにとってわけがわからないは、理由もなくフィンセントの感情、気分、判断が短時間のうちに変わってしまうことです。それは、数時間単位、数日単位で症状の軽快増悪をくり返す双極II型障害の易変性のせいと考えた方が納得がいきます。
内海氏はさらに双極II型障害の患者さんは感情表出が豊かで、うつ状態にあっても魅力的なきらめきを見せることがあると指摘しています。また、こうした人々は、逼塞し停滞した状態を忌避し、つねに現状を乗り越えようとし、転職をくり返したり、頻回に転居したり、結婚離婚をくり返すことも少なくないようです。人生を停滞させず、つねに回転させておくことが、精神安定剤代わりになっているのです。フィンセントは妹のウィレミーンに「「転ぶ石は苔をつけない」という、そうではないか(W11. 1889年4月10日)」と書いていますが、双極II型障害の患者さんも「苔をつけない転ぶ石」でありたいと願っているのです。
ところが、こうした状況打開行動において「一見軽やかに踏み出すようにみえても、どこか他人をあてにしたところがあり、ひそかに依存している。たとえ躁的な誇大性に縁取られている時でも、存外寂しがり屋である。心中ひそかに他人を頼む所があり、賞賛されることを望んでいる。彼らの人のよい所でもあり、また甘いところ、さらにはいささかずうずうしいところでもある」と内海氏は付言しています。つまり、心の安定のために人への依存が目立つことがあるというのです。そして、「他者を必須のものとしている点は同じだが、それを「支配」という形で転化させる」と「おせっかい」「仕切りたがり」ということになります。こうして、やたらと世話を焼いたり、仕切りたがったりする双極II型障害患者が現れることになります。そして、これが昂じると「自分がいなければどうにもならないだろう」という万能感をもつ人間も出現、そのひとりよがりは周りに煙たがられ、敬遠されるようになります。セント叔父に悩まされたテルステーフに聞かせてあげたかった病態です。
「寂しがり屋」にもかかわらず、意外と孤独に耐える面もあるようです。内海氏はこのことを「一人でいられる能力」と表現しています。「無理をして人間関係の中に入ろうとする傾向があると同時に、少し落ち着くと、一人で家事をしたり、読書をしたりして時をすごす」「自閉能力」があって、氏の臨床経験では「再現性が高い所見」だそうです。
以上で、「耳切事件」以前のフィンセントの足跡を双極II型障害という観点から眺めてみると、納得のいく点が少なくないことはご理解頂けるかと思います。もちろん、百年以上前の人間の精神疾患がそう易々と診断できるわけではありません。とくに、フィンセントが本当に軽躁状態ですんでいたのかどうかは確認しようがありません。ですから、もし双極性障害に罹患していたとしても、I型かII型かの鑑別は不可能です。しかし、細かいことを気にしなければ、双極II型障害という手がかりによってフィンセントの行動の不可解な側面が氷解することも結構あるのではないかと思います。
現在、双極II型障害の治療はリチウムや、抗てんかん薬でもあるバルプロ酸、カルバマゼピン、ラモトリジンなどの気分安定薬によって行われています。そして、それに抗うつ剤や精神安定剤が追加されます。しかし、もちろん、フィンセントの時代にそのような薬はありませんでした。代わりにフィンセントが「気持ちを落ち着かせるため」愛用したのは煙草、「昂奮作用によって、強力な想像力が働き…….一徹一刻な信念をえさせてくれる」「悪いコーヒー」、樟脳、酒などでした。アルコールに抗うつ作用があるのは事実です。しかし、アルコトールはモノアミン神経の制御機構を攪乱し、最終的には双極障害を悪化させます。
薬以外には認知行動療法、心理社会的治療、電気けいれん療法、運動療法などがあります。このうち、電気けいれん療法がフィンセントの病態を考える上で注目すべき療法ですが、これについては、のちほど考えてみたいと思います。
ここでは運動療法に少し触れておきます。
軽度の抑うつ気分に適切な運動が効果的なことはよく知られています。ただし、ただひたすら運動すればいいというものではありません。早足で歩いたりする単純な有酸素運動がよいとされているのです。野球のように運動量が変動するスポーツはあまり効果的とはいえません。ここで、思い出されるのが、ボリナージュ時代の2回の無謀な徒歩旅行です。とくに、画家ブルトンをたずねていった時は真冬の雪の中、国境を越えて70キロ、一週間歩き続ける旅でした。ところが、このみじめな旅のさなか、どういうわけか、突然、フィンセントは「自分の精力がよみがえっているのを感じ」て画家の道を目指すことを決意します。もしかしたら、このとき、フィンセントは徒歩旅行という「単純な有酸素運動」によって抑うつ状態から抜け出したのかもしれません。そして、軽躁状態へと飛翔したのかもしれません。ついでながら、フィンセントは、この時のみならず、生涯、しばしば、癖のように、長い距離を歩き回っています。無意識のうちに、徒歩の抗うつ効果に気づいていたのかもしれません。
先ほどご紹介したように、双極II型障害の人は芸術家にもみられますし、セント叔父のような社会的成功者にもみられます。内海氏も「その人生もまた変化に富む。軽躁病相に限らず、病前、病間期を通して行動的であり、しばしばその人生は波乱に満ちている。たとえば、それは学業や職業の中断や変更、多数のロマンスあるいはカルト文化への嗜好などに反映される。また、単極型うつ病や躁うつ病にはあまりみられない創造性を発揮することがある。天才とまではいかなくとも、才人にはしばしば出会う。こうした従来の疾患にはない、ある種の魅力のようなものを、双極II型障害はもっている」と述べています。その例として内海氏があげているのはゲーテ、フルシチョフですが、それ以外にも有名人としてリンカーン、ダイアナ妃、シューマン、チャイコフスキー、ヘミングウェイ父娘、パティー・デュークなどが双極性II型障害だったといわれています。
しかし、だからといって、双極II型障害が天才を生み、社会的成功者を生むと考えるのは早計でしょう。双極II型障害の発症頻度については諸説あってはっきりしませんが、0.5%ぐらいだろうとされています。てんかんとたいしてかわりません。これだけの発症頻度であれば、双極II型障害が天才や社会的成功者を生むのではなく、てんかん同様、たまたま天才が双極II型障害に罹患しただけかもしれません。そして、てんかんと同じように、双極II型障害は天才や社会的成功者となることを妨げる決定的阻害要因にならないということなのでしょう。
決定的阻害要因にならないといいましたが、双極性II型障害というのはかなり深刻な病気です。躁病エピソード、大うつ病エピソード、混合エピソードをくり返すうちに、まともな社会生活ができなくなることがまれではないからです。まじめで、几帳面で、愛想のよかった人が、嘘つきで、だらしなく、利己的になる-----そういったたぐいの人格水準の低下さえみられることがあります。
しかも自殺率が20%近いとされています。実際、上に挙げた有名人の多くは、フィンセント同様、自殺などで非業の死を遂げています。これでは、がんなどよりよっぽどたちの悪い病気だとさえいえます。種類にもよりますが、初期がんであれば、手術などの治療によって数ヶ月で社会復帰できることは少なくありません。ところが、双極II型障害では悪化のたびに一般社会生活からの待避を余儀なくされます。しかも、それが何度もくり返される可能性があります。たしかにがんでは再発に脅える生活を余儀なくされます。しかし、5年生存率80%以上という初期がんは少なくなく、それならば、双極性II型障害よりよっぽど生命予後はいいことになります。
テオはフィンセントを「自身の敵」と表現しました。しかし、おそらく、フィンセントの敵の正体はこの相当悪性な疾患でした。そのような「敵」が自身の中にいることをもちろんフィンセントは気づいていたはずです。繰り返し手紙の中で漏らしているように、フィンセントは「メランコリー」がしばしば襲ってくることを自覚していましたし、これに、相当苦しめられていたと想像されます。一方、時として、危険なほど自分の感情が高ぶり、精神が高揚することも認識していたでしょう。そして、それらが一緒くたになってかれの人生を引き裂いてしまいました。
ただし、フィンセントはそれらをある特定の疾患の人間に共通してみられる症状とは夢にも思ってもいなかったでしょう。病気を外側からみるのと内側からみるのでは大きな違いがあります。たしかに、私たちはフィンセントの生涯において双極性障害に類似した症状の数々を確認できます。しかし、双極性障害の一症状にすぎないものも、フィンセントにとっては、たんなる症状ではありませんでした。またしても湧きあがってくる耐え難い気分の落ち込みであり、えたいの知れない感情の爆発でした。そして、それらによって通常の生活がかなわぬほどに人生がひび割れました。しかし、かれはそうした気分の変動がもたらすものを避けることのできない自らの運命としてうけとめるしかありませんでした。
問題は、症状ではなく、フィンセントがその「運命」にどのように対処したかです。
「ぼくの人生がけっして充分平安でなかったことを思うと、ついいつも内心、気持ちが穏やかでない。苦々しい幻滅、障碍、変転、それらがよってたかって、ぼくの芸術家としての生涯を自然に精一杯発展さすのを妨げたのだ。(W11. 1889年4月10日)」とフィンセントは妹に嘆いています。
気分の変動の大波に押し流されるたびに、当然、フィンセントはなんとか態勢を立て直そうとしました。しかし、ことごとく失敗します。まず、愛する女性と家庭を作り、子どもたちに囲まれて生活するという何の変哲もない幸福を断念しなくてはなりませんでした。聖職者という救助ブイにしがみつこうともしました。しかし、それにも挫折します。かれは「不本意の、のらくら者」にならざるをえませんでした。「心のなかでは活動への大きな欲求にさいなまれながらも、なにもしていない」「何か牢獄みたいなもののなかにとじこめられている」ような状態でボリナージュの索漠とした絶望的な冬を越します。そして、結局、絵画に最後のよりどころをみつけることになります。
「僕が見つけたもの、それは仕事だ。僕が見つけられなかったもの、それは仕事以外の人生のすべてだ」とアルル時代、かれは書きます。絵を描き、その合間に手紙を書く以外、人生においてなにも残されていませんでした。仕方なく、かれは一心不乱にそれらに集中しました。絵画も手紙もその苦闘の成果です。それは、感動的なほど輝かしい成果でした。しかし、その最後のよりどころさえ奪われかけます。生きる気力が萎えざるをえなかったのも当然かもしれません。
文芸評論家の小林秀雄は「浪漫主義が流行させた、独創とか個性とかいう言葉は濫用され」「個性という意味が下落」して「単なる個人個人の相違という意味に混同」されていると書いています(小林秀雄「ゴッホの病気」)。そして「だれも、生まれながらの人と違った鼻の形を自慢」しないはずなのに「この鼻が展覧会に陳列されれば、独創的作品だと大真面目に感心する人もでてくる」と皮肉っています。「もし芸術作品の個性ということが言いたいのなら、それは個人として生まれたがゆえに、背負わなければならなかった制約が征服された結果を指さねばならぬ」というのです。まさしくフィンセントのために書かれた文章といっていいでしょう。いうまでもなくフィンセントにはとてつもない制約の壁が繰り返し立ちはだかりました。そして、かれは傷つき、打ちのめされながら、一心不乱にそれに立ち向かっていきました。彼の個性的な絵画と手紙はまさしく「個人として生まれたがゆえに、背負わなければならなかった制約が征服された結果」でした。その制約が双極性障害であろうとなんであろうと、かれにはどうでもいいことだったでしょう。
ドストエフスキーのところで、一つのことに集中して異様な努力を傾けることが天才を成り立たせる条件の一つかもしれないと申しました。いうまでもなく、フィンセントもこの例にもれません。聖職者の道を断念した後、異様な集中力と超人的な努力で絵画に取り組んだことが、かれの天才的画業に結実することになります。
しかし、その集中と努力は痛ましいものでした。
フィンセントが絵画の道を志したときは、すでに、20台半ばをすぎていました。やはり、それなりの才能はあったのでしょう、当初からかれはありきたりの陳腐な絵は描きませんでした。しかし、そうはいっても、その出発点において、フィンセントは素人同然の絵画技術しかもっていなかったはずです。このため、とりあえずプロの技術を獲得するために、修行段階においてすでに何年にもわたる恐るべき集中と努力を要しました。それも、弟の好意にひたすら縋る、肩身の狭い、孤独の中での、先のみえない修行でした。しかも、その間、ケーへの絶望的な恋、シーンとその子どもたちとの悲惨な「家庭生活」とその断念など、心を激しく揺さぶる嵐の中での修行でした。常人には耐え難い苦行です。しかし、自らの人生に於ける可能性をすべて摘みとられたと思いこんでいたフィンセントは、その苦行にさえ「悦び」をみつけました。そして、繰り返し襲ってくる気分の変動に耐えながら、その恐るべき集中と努力によってアルル以降、ようやくその果実を摘みとることができるようになります。痛ましいほどに傷つき、絶望の淵に追いやられた果ての「強いられた」集中と努力だったのです。
哲学者のヤスパースは次のように書いています。
「1912年のケルンに於ける展覧会に於て、ゴッホの驚くべき傑作とともに陳列された全ヨーロッパの千篇一律なる表現派の作品を見ながら、私は狂人たらんと欲しつつも余に健全なこれらの多数者の中で、ゴッホだけが唯一の高邁なる、且つ自己の意志に反しての”狂人”ではないかとの感じを受けた」
この「意に反しての”狂人”」は「意に反しての天才」でもあったのです。
高い代償を払って手にいれた画業という果実ですが、それさえも放棄しなければならないかもしれない事態がフィンセントを襲います。
「耳切事件」です。
耳切事件は有名ですが、前にも申しましたように、詳細はほとんどわかっていません。あれほど自分をさらけだすように語っていたフィンセントも、この行為についてはまったく触れていません。はっきりしているのは、事件が起きたときかれの意識レベルが低下していたこと、それにもかかわらず、耳たぶを切ったり、それを娼家にもっていったりできるぐらい運動機能はまともだったということぐらいです。

「アルルの闘牛場」
1888年12月
耳たぶを切ってお気に入りの売春婦レイチェルにもっていった行為については、土木技師のオリビエが闘牛の儀式をまねたのではないかと言っています(ファン・ゴッホ書簡全集6)。闘牛士が牛を倒すと、熱狂した観衆が「耳!」と叫ぶのだそうです。すると、助手が牛の耳を切り取って闘牛士にわたし、闘牛士は崇拝する貴婦人にその耳を捧げます。
アルルについて間もなく、フィンセントは円形闘技場で闘牛をみたとベルナールに書いており(B3)、耳切事件の起きた12月には「アルルの闘牛場」という絵を描いています。絵を描いた際には、オリビエのいう「耳切儀式」も目撃したはずです。耳切事件の時には「耳切儀式」の光景がまだ鮮明に記憶に残っていたでしょうから、譫妄状態にあって、その儀式を模倣することはありえるかもしれません。
しかし、いずれにしても、問題は、意識レベルが低下した原因です。
「耳切事件」以降、意識減損を伴う発作性精神変調、クリーゼがフィンセントを繰り返し襲うようになります。ところが、このクリーゼの病態が何であったのか、いまだに議論が絶えません。
しかし、とりあえずは、クリーゼの内容を再確認しておきましょう。
フィンセントのクリーゼは「耳切事件」から自殺するまでの18カ月の間に「耳切事件」も含め6回起きたと推測されています。ただし、1889年4月10日のウィレミーンへの手紙にある「これまで全部で4度の大きな発作を起こした」という「大きな発作」をすべてクリーゼとするならば、この時点ですでに4回起きていたことになります。そうすると、通説では、ここまでの時点のクリーゼの数は2回ということになっていますから、2回増え、8回起きている計算になります。クリーゼの期間は最短で7日間、最長で65日間。ただし、シニャックが語っている「テレペン油飲み干し事件」や「ときどき悪夢に襲われる」という「悪夢」がクリーゼと同一性格のものだとすると、もっと短いクリーゼもあったということになります。そうなると、クリーゼの回数も増えます。
クリーゼは急激に始まる突発性発作でした。しかし、クリーゼ中の症状には波があり、クリーゼが消失していく前後には意識レベルもかなり変動したようです。また、クリーゼのあとの「悪夢」の残存も、実際には、クリーゼ消退時における意識レベルの変動の一部だったみることができます。「悪夢」は、字義通りにとれば、睡眠中の症状ということになりますが、どうやら覚醒時にもみられていたようですので、実際には、短い軽度幻覚症状のことをいっているものと推測されます。しかし、そうした「悪夢」も含め、クリーゼ症状が完全に消失すると、知的にも精神的にもまったく正常に復し、フィンセントは論理的な文章を綴り、素晴らしい絵を描きました。
テオや友人の書き残したもの、レー、ペロンたち主治医の記載、それに、フィンセントが手紙に書きのことしたものから判断すると、クリーゼは主として聴覚性幻覚(幻聴)、視覚性幻覚(幻視)、それに妄想から成り立っていたようです。妄想は宗教的色合いを帯びることもあり、ときとして、偏執性の被害妄想のかたちをとることもありました。こうした精神症状にともない、感情が異様に高ぶり、叫びまわるなどの行動異常もみられました。その一方で、気力を喪失したようにぐったりすることもありました。大声で叫んだのは、自分を守ろうとして、それがかなわなかったからだ、とフィンセントは説明しています。クリーゼ中、幻覚、妄想によって強迫観念に襲われながらも、先に述べたように、運動機能は充分保たれていました。このため、「耳切」をはじめとする危険な強迫的行動も可能であり、監禁を余儀なくされたのです。
クリーゼ中は意識の混濁、見当識障害がみられ、その間のことはほとんど覚えていません。しかし、時として、クリーゼ後、幻覚妄想内容を追想できることもありました。ですから、クリーゼのいずれかの時期には追想可能なまで意識レベルが復することがあったものと推測されます。実際、クリーゼ中の幻覚妄想を現実のものと思ってしまうことがあると、クリーゼ後に言っています。一方、クリーゼ中、もしくは、その直後、ズンデルト時代のような遠い過去を鮮明に思いだすこともありました。
さらに、クリーゼ直前に予兆のようなものを感じることもあったようです。ただし、いつもそうだったかどうかはわかりません。
以上の症状を一言でまとめますと、フィンセントのクリーゼは譫妄発作ということになります。
譫妄というのは、錯覚、幻覚、妄想を伴う意識障害のことです。念のために確認しておきますと、ここでいう幻覚とは、現実に見えていないもの、聞こえていないもの、存在していないものが、見え、聞こえ、存在しているように感じることをいいます。一方、妄想とは、ヤスパースによると「誤られた判断」であり(ヤスパース著西丸四方訳「精神病理学原論」みすず書房)、「非常な信念、何ものにも比べられない主観的な確信」がその特徴です。そうした信念、確信を抱いている当人に、経験上こうであるはずであるとか、こうだからこうなると説得しても、全く通じません。もちろん、妄想を抱いている本人が信念をもって確信している内容は実際にはあり得ないものです。
意識低下を基盤として、こうした幻覚と妄想が錯覚も交えて認められるのが譫妄です。再び、ヤスパースの定義によれば次のようになります。
「譫妄の特徴は患者が外界から背離していることである。彼はその譫妄世界の中に生活しており、この世界は錯覚や真性幻覚や妄想様着想から成り立っている。しばしば非常な不安と衝動的活動に患者は支配される。理解力はごく悪く、意識は低い波の頂きにしか達せず、持続的状態はまさに眠ろうとしているが眠りはしない状態にある。注意を極度に緊張させると波の頂きは一時的に上らせられて、理解力が比較的よくなり、譫妄の体験が退く」
フィンセントのクリーゼがヤスパースの譫妄の定義に概ね合致することはご理解頂けると思います。
ただし、譫妄というのは発熱と同じでたんなる症状にすぎません。意識障害をきたす病態はすべて譫妄をきたします。アルコール、薬物、麻薬などによる中毒と禁断症状、腎臓、肝臓などの疾患による中毒物質の蓄積、低血糖、電解質異常、脳炎などの感染症、てんかん、頭部外傷による脳機能障害、脳出血、脳腫瘍など、いくらでも候補をあげることができます。そうした中から、鑑別診断として、臨床経過や状況からとうていあり得ないものを省いていきます。
鑑別に当たっては、臨床経過に目をつけるのが常套手段です。とりあえず、「急性発症緩徐回復型」、「進行型」「周期型」の3つに大別すると便利です。急性発症緩徐回復型というのは、脳炎や脳出血のように急激に発症し、その後ゆっくり回復していくものをいいます。進行型は脳腫瘍や変性疾患のように脳内に余計なものが増大したり、異常物質がたまって神経細胞が徐々に死滅したりして、神経症状がゆっくりと、しかし、確実に進行していくものをいいます。最後の周期型というのは、てんかんや偏頭痛のように症状が間歇的に出現するものをいいます。
いうまでもなく、フィンセントのクリーゼは周期型です。したがって、脳腫瘍、脳出血、脳炎などはクリーゼの原因としてはあり得ないということになります。一方、くり返しけがをしていたという証拠もありませんから、頭部外傷も病因とは考えられません。しかし、そうやって除外していっても、まだ、多くの疾患、病態がフィンセントのクリーゼの原因の候補として残ります。
フィンセントの病気については膨大の数の論文や書物が書かれています。しかし、甥のフィンセント・ファン・ゴッホは、そのほとんどが「事実をよくみていない」とコメントし、叔父の病気についてもっとも重要なものはオランダのフロニンゲン大学教授クラウスによる論文だと書いています。実際、「書簡集」のなかでフィンセントの病気に関し内容が紹介されている論文は1941年に発表されたクラウスのもののみです(それ以外に、「1957年には新しい診断が提出されている。つまり、質のよくないアプサントをのんだことからくるアルコール中毒という判定である」というコメントがありますが、、これは、後ほど述べるガストーの論文のことをいっているのかもしれません。しかし、ガストーの論文は1957年ではなく、1956年の発表ですからこの推定は当たっていないかもしれません)。
クラウスは、フィンセントが何らかの精神病質に悩んでいたことはたしかだが「これに対して私はむしろ特別な名称は与えまい」と宣言します。なぜかというと「ファン・ゴッホ問題の精神医学的な面を正しく理解するためには、あまりに診断の決着をつけようとする気持ちにとらわれすぎたかたちでこれに近づくことは望ましくない」からだというのです。
クラウスが俎上にあげて論じている疾患は、てんかん、精神分裂病、麻痺性痴呆などですが、いずれも疾患特有の症状がないという理由でかれはその可能性を否定します。「診断の決着」をつけることを拒否したクラウスは「精神病質を基礎にもった心因性発作」ぐらいが「彼の病的状態の診断に一番近いものとなろう」と結論づけています。「病気」においてさえ、一般的診断名を拒否するほどフィンセントは「個性的」だったというのです。
甥が推奨するだけあって、その後も、クラウスの主張をひっくり返せるほどの論文はあらわれていないのかもしれません。
しかし、ともかくも、クラウス論文後もフィンセントの病気については様々な仮説が提出されました。モンローによれば1922年から1981年にかけて152編の論文でフィンセントの病気の「後追いretrospective」診断がなされているということです。その中で、もっとも多い診断名がてんかんの55編、ついで精神病性神経症41編、分裂病13編、性格障害10編、躁鬱病9編の順です(Monroe RR (1991)J Nerv Ment Disease 179、 241)。これ以外にも、神経梅毒などが有力な候補と思われた時期もあったようですし、モンローの論文以降、メニエール病、急性間歇性ポルフィリア、ジギタリス中毒、鉛中毒などが新たに病名リストにつけ加わっています。
この中で、躁鬱病については事細かに論じましたので、もういいでしょう。かれが躁鬱病(双極II型障害)に罹患していたのはほぼ間違いないでしょう。しかし、譫妄発作が躁鬱病で起こることはありません。耳切事件以降のクリーゼについては躁鬱病以外の病因を考える必要があります。
躁鬱病を除いた中では、何といっても、てんかんを候補として挙げている研究者が多いわけですが、もちろん、多数決が診断の妥当性を保証してくれるわけではありません。てんかんではないと主張する研究者も少なくないのです。
非てんかん説論者の筆頭といえばヤスパースでしょう。彼は1921年に芸術と精神分裂病との関連を考察した「ストリングベルクとファン・ゴッホ」という本を出版、そこで、フィンセントが精神分裂病に罹患していた可能性が高いと指摘しています(カール・ヤスパース著 村上仁訳 「ストリングベルクとファン・ゴッホ」山口書店)。
ヤスパースは20世紀初頭、精神病理学に革命をもたらし、その後、大哲学者となった人ですから、影響も大きく、これを今でも定説と考えている人も少なくないようです。実際、「ストリングベルクとファン・ゴッホ」はフィンセントの人生、思想、芸術に関してヤスパース一流の鋭利な考察を施した名著です。その見事な切れ味の一端は冒頭に掲げた文章や、双極性障害について述べたとき引用した文章からもご想像いただけるかと思います。
ところが、フィンセントがてんかんではなく精神分裂病(いまは統合失調症と呼ばれるようになっています)に罹患していたとするヤスパースの根拠は信じがたいほど薄弱なものです。てんかんとの鑑別について彼は
「ゴッホが精神病に罹って居たことは疑いない。問題はいかなる精神病に罹って居たかということである。ゴッホを治療した医者たちが下した癲癇という診断は、全然根拠がないと私は思う。彼には癲癇性痙攣発作も特有な癲癇性痴呆もみられない」
と書いているだけです。
これは、どう考えても説得力に欠けます。
いままで何度も申してきたように、てんかん発作がつねにけいれんのかたちをとるわけでありません。欠神発作やある種の部分発作のように、けいれんのような異常運動がみられないてんかん発作はいくらもあります。また、「特有な癲癇性痴呆」がてんかんにつねに合併するわけでもありません。「癲癇性痙攣発作も特有な癲癇性痴呆もみられない」からといっててんかん発作でないというのは、それこそ「全然根拠がない」でしょう。
「精神的なものは身体的なもののように感覚的に知覚できないので、行えることは心の中に描き出すことであり、感入することであり、直感することであり、了解することである」と宣言し諸々の精神現象を切れ味鋭く描きだした人が、なぜ、こんな初歩的誤りに気づかなかったのか、よく分かりません。当時のドイツの精神医学領域におけるてんかんの一般常識がその程度だったとも思ってしまいそうですが、ガストーによれば、てんかん患者がすべて「痙攣発作」を示すわけではなく、痴呆になるわけでもないことぐらい、ヤスパースは知っていたはずだそうです。もしそうだとすると、精神現象の諸相をみごとに切り分けてみせた人間の手になると思えないぐらい、その鑑別は安易だといわざるをえません(ヤスパースにやや遅れて活躍したドイツの精神科医シュナイダーは「癲癇発作にはまた単なる失神発作もあ」り「小発作あるいは欠神と呼ばれる」と1933年初版の精神病理学の概説書に書いています(クルト・シュナイダー著、西丸四方訳「臨床精神病理学序説」みすず書房)から、たしかにがストーのいうとおりのようです。ただし、同時に「大抵の癲癇患者は時のたつにつれて一定の様式の精神的変化を起こす。変化は知性の領域にも人格の領域にも起こる。迂遠な、杓子定規な、信心に凝った、涙脆い、蔭日向の多い性質、精神的視界の狭窄、饒舌な愚直性、粘着性、自己の状態に対する不可解な多幸性などがかかる状態の性格特徴としてよくみられる。記憶の著しい障碍も、重い癲癇痴呆に陥ったものに見られる」ともコメントしています)。
一方、フィンセントのクリーゼを精神分裂病で説明することにも相当な無理があります。ヤスパース自身そのことは認めています。「私の精神病学者としての良心は……診断に幾分不確実さが存することを附言する必要を感じる」と断っています。たしかに、クリーゼ中、フィンセントが幻覚妄想など、人格の崩壊ともとれる症状を何日にもわたって示したことは事実です。しかし、問題は、発病後1年以上、クリーゼとクリーゼの間、完璧な省察力と熟達の絵画技術を保持し、人格崩壊の兆しすらみせなかったことです。たしかにそういうことは精神分裂病ではまれだ、とヤスパースは認めています。しかし、あり得ないことではないと弁明します。「ゴッホの場合には自殺のため、その後の経過が不明になって居る。経過が観察できたら医学的資料が不足して居ても、確かな診断を附け得たであろう」というのです。つまり、精神分裂病としての完全な姿がフィンセントに現れる前に、かれは死んでしまったというのです。
しかし、これはかなり苦しい言い訳です。例のDSM分類によれば分裂病(統合失調症)の特徴的症状として「妄想、幻想、まとまりのない会話(例:頻繁な脱線または減裂)、ひどくまとまりのないまたは緊張病性の行動、感情の平板化、思考の貧困、または意欲の欠如」が挙げられています。たしかにこれらはすべて、フィンセントのクリーゼにみられたものです。しかし、繰り返しになりますが、それらは発作的にみられていたにすぎません。たしかに、分裂病ではそのような発作性の症状の悪化がみられることはあります。しかし、その後、フィンセントのように完全に正常に復するということはきわめてまれです。
DSM分類の統合失調症の定義には症状の持続期間の限定がついています。「おのおの(の症状)は1カ月の期間ほとんどいつも存在」というものです。もちろん、機械的に診断基準を当てはめ、だから、分裂病(統合失調症)ではないといえるわけではありません。しかし、1カ月という期間の限定がついているのにはそれなりの理由があります。分裂病は脳の何らかの機能異常によって起きる精神の「変性」疾患です。症状は徐々に、しかし、確実に進行します。1年以上にわたってその精神の「変性」の進行の痕跡すらみられないのはやはりおかしいと考えるべきです。そのことは、耳切事件直前と自殺直前のフィンセントの絵と手紙を比較してみればすぐにわかります。この間、変質徴候の進展はどこにもみいだせません。先ほどの臨床経過による鑑別からいくと、統合失調症は原則として「進行型」であり「周期型」ではないのです。
進行性麻痺説についてはヤスパースが次のようにコメントしています。
「ゴッホが屡々黴毒に感染する機会をもったことは確かだ。しかし麻痺性痴呆は身体的症状によってのみ確定し得るものであるが、それに就て我々は何等知る所がない。この疾病を暗示する唯一の事実は彼の最後の作品の一部にみられる乱雑さと、ゴッホ自身が述べている手の運動の不安定さである。しかしかくも激しい精神病に罹りながら二ヶ年も完全の批判力と熟練とを保持することは麻痺性痴呆に在っては不可能である」
さすがというか、これにつけ加えることはあまりなさそうです。クリーゼ後、フィンセントはつねに明晰な知性を取り戻しており、テオにみられたような進行性の痴呆状態に陥っていなかったことは明白です。先の鑑別診断からいうと、麻痺性痴呆も「進行型」であって「周期型」ではないのです。アントワープ時代にフィンセントが梅毒の診断を受けたらしいことは前に述べました。しかし、このときすでにかれは33歳でした。それから、アルルでのクリスマス直前の最初のクリーゼまで2年ちょっと経過しているにすぎません。第2期梅毒から麻痺性痴呆発症までには最低15年の潜伏期間があるはずですから、その意味からも、麻痺性痴呆の可能性は低いといえます。
先に述べましたように、フィンセントの病気については精神分裂病、進行性麻痺以外にもさまざまな説が唱えられています。しかし、それらについて一つ一つみていくときりがありませんので、ここらで、もっとも「多くの支持」を得ているてんかん説についてみてみましょう。
てんかん説でつねに引き合いにだされるのが、ドストエフスキーのところでご紹介したフランスのてんかん学の大家、アンリ・ガストーです。
かれは1955年10月28日にハーグの市立美術館で開催されたカンファレンスでフィンセントの病気について講演し、ハーグの美術史家トラルボート、そして、上に述べたクラウスたちと議論を戦わせています。そして、2年後の1957年に長大な論文を書きました。フランス語で書かれていますが、現在にいたるまでフィンセントの病気に関してつねに引用される基本文献です。
論文は4つの話題をとりあつかっています。第1は、フィンセントを実際に診察した医師レー、ペロン、ガッシュたちの診断の検討、第2は、実際にゴッホを診察しておらず、記録によってゴッホの病気を推察し、その病気からゴッホの芸術を論じている医師たち(とくに、精神科医)への論駁、第3がフィンセント生育歴から推定した側頭葉てんかん(精神運動発作てんかん)、および、てんかん性精神病にかんする議論、そして、最後が、アルコール、とりわけ、アブサンの影響に関する推論です。そして、結論として、ゴッホは側頭葉てんかん(精神運動発作てんかん)に罹患しており、このてんかんに特有の精神症状がみられ、アブサンによって悪化したのだと主張しています。
まず、レー医師、ペロン医師の診断についてです。
ガストーの地元、フランスで起こった事柄なので、地元ならではの調査を行っていて、この論文のなかでもとりわけ精彩を放っている部分です。
前に述べましたように、レー医師はフィンセントをてんかんと診断、当時唯一の抗てんかん薬だったブロムを処方しています。しかし、レーが下したのは、たんなるてんかんという診断ではありませんでした。譫妄と興奮からなる「ある種のてんかん」という診断だったのです。ガストーは、このレーの診断がフランスてんかん学の大家モレル、ファレらによって19世紀半ばに提唱された「潜行性てんかんeplepsie larvee(仮面てんかんmasked epilepsy)」という疾患概念を反映していると指摘しています。偶然ですが、耳切事件の年、レーの学友が潜行性てんかんについての学位論文を書き、論文審査にとおっていました。ですから、レーがフィンセントを診て即座に「非けいれん性てんかん」の診断を下してブロムを処方したのはなんの不思議もないとガストーは述べています。
ストエフスキーのところで申しましたように、近代てんかん学の基礎を築いたのは19世紀後半にイギリスで活躍したジャクソン、ガワーズです。しかし、それ以前、19世紀初頭から半ばにかけてはフランスが西欧におけるてんかん学の中心でした。フランスがてんかん学のメッカとなった理由の一つは、フランスで18世紀末に行われた精神病患者に対する医療変革でした。フランス革命の余塵さめやらぬ1793年、精神科医のフィリップ・ピネルは閉鎖病棟に鎖でつながれていた精神病患者の拘束を解きはなちました(鎖でつながれていた経験があるかれの部下の提案によってなされたといわれています)。精神病患者が鎖で拘束されることなく療養所や精神病院で医療、介護を受けられるようになったのです。その解放された精神病患者の中にはてんかん患者も混じっていました。ピネルの弟子エスキロールは精神病院に入院しているそうしたてんかん患者を間近に観察し、考察を重ね、その成果を「精神病Maladies mentales(1938年)」に書き著します。これが近代てんかん学の扉を開くことになった、と医学史家のテムキンは指摘しています。そして、エスキロールたちのてんかんにかんする業績はファレ親子やモレルらによって受け継がれ、発展させられます。
このように、19世紀初頭から半ばにかけて、西欧のてんかん学はフランスを中心に発展しました。その影響は今でも残っています。大発作、小発作のことを現在でも英語でGrant mal、Petit malとフランス語のまま記載されることがあるのは、その1例です。エスキロールによって、てんかん発作は大発作Grant malと小発作petit malのおおむね二つに分けられるという説が提唱され、その説がフランスのみならず他の国に受け入れられ、20世紀に入ってからもその医学用語がフランス語のまま残ったのです。
その後、ゴッホが自殺する1890年ごろには、四肢の一部から始まって徐々にけいれんの範囲が広がっていく「ジャクソン型」部分発作の存在もてんかん学の世界で認識されるようになります。しかし、その一方で、エスキロール、モレル、ファレたちは大発作、小発作といった明らかなてんかん発作を示さないてんかんがあるとも主張していました。精神症状だけを示し、「けいれんのない」てんかんがあるというのです(以下、テムキンの「倒れ病Falling Sickness」からの要約です)。
モレルはナンシー近郊の精神病院の院長で、てんかん患者の性格特性や精神症状に注目していました。1853年には、興奮性と易怒性がてんかん患者の際だった特徴だと論述しています。ちょっとしたことで「てんかん性の怒り」を爆発させ、それが1-2時間続くことさえあるというのです。そうした怒りの発作はてんかん発作に引き続いて起きることもあるし、てんかん発作に先行することもあるが、ときとして、てんかん発作と無関係におきることもあり、その場合、「怒りが凝集」してとんでもないことをしでかすことがある、とモレルは書いています。そして、1860年、通常のてんかん発作を示さず、代わりに「てんかん性精神症状」がみられるてんかんを潜行性てんかんeplepsie larvee の名で報告します。こうした症状を示す患者では、しばらくは特徴的な精神症状だけがみられるだけで、てんかん発作を起こすことはありません。しかし、数ヶ月後、あるいは、数年後にてんかん発作がみられるようになり、てんかん性精神異常にとって代わります。明らかなてんかん発作が出現する以前、その特徴的な精神症状がみられる時点でもてんかんと診断できる、ということでモレルは潜行性てんかんという概念を提唱したのです。
ほぼ同じ頃、やはり精神病院(エスキロールのあとを継いだフランス精神医学の中心的人物の一人であった父親のジーン・ピエール・ファレJean Pierre Falretが設立したパリ近郊の病院)の院長をしていたジュール・ファレJules Falletがてんかん患者の精神症状troubles intellctuelsを3つに分けて報告しました。一つ目はてんかん発作の前後、あるいは、発作の最中にみられるもので、おそらく、今でいう、前駆症状、前兆、複雑部分発作、発作後もうろう状態にあたると考えられます。二つ目は、発作と発作の間にみられる「精神症状」です。どうも、これも、複雑部分発作のことをいっているようです。すなわち、大発作(部分発作からの2次性全般化発作)にいたららない、意識減損をともなう部分発作です。そして、3番目が「てんかん性狂気状態folie eplileptique」とでも呼ぶべき遷延性譫妄状態です。
このうち、3番目のてんかん性の遷延性譫妄状態はファレがもっとも注目していたカテゴリーです。譫妄状態はてんかん発作に先行することもありますが、主として、てんかん発作後にみられるとかれは書いています。さらには、てんかん発作が全くみられない患者にもこの「てんかん性遷延性譫妄状態」がみられることもあるとつけ加えています。しかし、そうした患者でも、その後、経過を追ってみていくと、てんかん発作を起こすようになるというのです。モレルの潜行性てんかんの概念と一致する部分です。
ガストーは、耳切事件以降のゴッホにみられたクリーゼはこの遷延性譫妄状態であり、レーもそのように診断して、ブロムを処方したのだろうと推察しています。たしかに、この「てんかん発作が全くみられない患者にみられる遷延性譫妄状態」がゴッホのクリーゼによくあてはまることはご了解いただけるでしょう。
しかし、だからといって、ゴッホのクリーゼがてんかん発作だったといえるわけではありません。譫妄発作はあくまでも譫妄発作であって、てんかん発作ではありません。
繰り返しになりますが、てんかんとは、脳の神経細胞群の過剰放電に起因するてんかん発作が繰り返しみられる疾患群です。19世紀後半にこの概念を打ち立てたのがイギリスのジャクソンでした。しかし、それ以前、てんかんは別の見方をされていました。たとえば、ファレは、意識障害がてんかん発作の本質であり、大発作にみられるけいれん性の運動症状は付随的なものにすぎないと考えていました。ですから、痙攣発作も譫妄発作も同じてんかんの名の下に記載されたのです。しかし、現在は、脳内の異常放電に起因しない譫妄発作をてんかん発作とは呼びません。
先ほども述べましたように、小発作Petet mal、大発作Grant mal、あるいは、欠神発作absenceといったフランス語は現在もてんかん学の分野で使われています。しかし、潜行性てんかんeplepsie larvee、非けいれん性てんかんeplepsie non convulsivanteという用語は捨て去られました。その後のてんかん学の発展によって、意味をなさない言葉になってしまったからだと想像されます。ですから、ガストーがいうようにレーがファレやモレルが提唱した潜行性てんかんと同じ意味でゴッホを非けいれん性てんかんと診断したのであれば、現代てんかん学の常識からいえば、ゴッホのクリーゼはてんかん発作とは別種のものということになります。
ところが、ガストーはレーがゴッホに下した診断、譫妄と興奮からなる「ある種のてんかん」が複雑部分発作を主症状とする側頭葉てんかんとほぼ同一のものと主張します。もちろん、明らかな痙攣発作がゴッホにみられなかったことはかれも認めています。しかし、たとえば、ゴーギャンや監視人プレーの目撃談を引用して、そこには精神運動発作てんかん(側頭葉てんかん)に特徴的な自動症が認められるとかれは指摘します。さらに、遷延性譫妄発作のあとゴッホが何も覚えていなかったことに言及、これはてんかんに特有な現象であるのにヤスパースたちは完全に無視をしてしまっていると論難しています。そして、クリーゼ中のことは全く覚えていないのに、ズンデルト時代の遠い過去のことを同時に思い起こしていることを指摘、当時、モントリオールで盛んにてんかん外科治療を行っていたペンフィールドの報告を引用し、ゴッホのクリーゼ後にみられたこのような記憶喪失は側頭葉を刺激したときのものと類似しているとコメントしています。
しかし、フィンセントが側頭葉てんかん(精神運動発作てんかん)を有していたというガストーの説には、少なからぬ研究者が疑義を表明しています。フィンセントのクリーゼの症状を複雑部分発作も含めた「てんかん発作の一種」とみなすのは、やはり、無理があるからです。クラウスがいうように、精神分裂病同様、てんかんについてもフィンセントのクリーゼには「疾患特有の症状」がないのです。
まず、すぐに問題となるのが、クリーゼの持続期間です。短い、数時間単位のクリーゼもあったかもしれませんが、記録に残っているクリーゼのほとんどは、短くて一週間、長いもので2か月続いています。もしこれがてんかん発作であったとすると、てんかん重積発作ということになります。前にも述べましたが、てんかん発作が起きると脳の生体防御機構が働いて、何とかてんかん発作を止めようとします。このため、てんかん発作の持続はせいぜい数分止まりで、20分以上続く重積状態はまれです。ましてや、それが数週間にわたって続き、しかも、それを何度もくり返すことなど、ほとんどありえません。もちろん、全くないわけではありません。まれですが、そのような報告例はあります。しかし、フィンセントのように長いてんかん重積発作が一年間に6回も起きたという報告があるかというと、これは皆無というしかありません。
しかし、持続時間以上に問題なのが発作症状です。
てんかん重積発作は、痙攣性重積発作と非痙攣性重積発作の二つに大別されます。ヤスパースが言うようにフィンセントのクリーゼには「癲癇性痙攣発作」がみられませんから、てんかん発作重積だとすれば非痙攣性重積発作ということになります。非痙攣性重積発作はさらに欠神発作重積と複雑部分発作重積の二つに大別されます。詳細は省きますが、フィンセントのクリーゼの場合、複雑部分発作重積のほうが可能性としては高いと考えられます。実際、複雑部分発作重積で譫妄症状がみられるという報告はなされています。しかし、問題は、譫妄症状だけが延々と続く複雑部分発作重積があるかということです。はっきり言って、これは、ほとんどあり得ません。たしかに、複雑部分発作重積では、てんかん発作を思わせる症状が全くみられないことがまれではありません。このため、脳波をとって初めててんかん発作の重積と判明する例が少なからずみられますし、複雑部分発作重積の発生頻度は実際より低く見積もられているとさえいわれています。しかし、てんかん発射という異常電流が数日から数週間にわたって脳内に流れ続けるのです。それによってみられる症状が譫妄症状だけということは通常ありえません。それ以外のてんかん発作を示唆する症状も合わさって必ずでてくるはずです。しかし、主治医の記録も、フィンセントの手紙もそのような症状についていっさい記載していません。
そのうえ、おそらくは妄想か幻覚によってでしょうが、それまでまったく普通だったフィンセントが突然、監視人を蹴ったり、テレビン油を呑んだりしていますが、そんな症状が、てんかん発作の開始時からみられ、しかも、それが一週間以上も続くことは皆無といっていいと思います。
たとえば、ヴォスクイルは26年間のてんかん診療の経験でフィンセントのような症状を示すてんかん患者にであったことはないといっています。実際、これまでに、フィンセントのクリーゼのような複雑部分発作重積の報告はどこからもなされていません。おそらく、そのような症例があれば、これほど議論の的になっているのですから、ドストエフスキーの「恍惚発作」のときのように、「フィンセント・ファン・ゴッホのクリーゼ発作」といった表題ででも報告がなされているはずです。しかし、譫妄状態が続き、脳波をとってもみたら律動性の波が持続的に出ていて、紛れもなくてんかん発作だった、というような症例報告は皆無なのです。
このように、フィンセントのクリーゼをてんかん発作重積と考えることにはかなり無理があります。
しかし、本当にてんかん発作がクリーゼの中に隠れていなかったかというと、じつは、そうともいえないところがあります。てんかん発作が終了して数時間から数日間たってから、譫妄などの精神異常がしばらく続くことがまれにあるからです。しかも、せいぜい数時間で消失する発作後もうろう状態と異なり、この「てんかん発作後精神症状」はかなり長期間にわたることがあります。てんかん発作後の精神症状について精力的に研究されている愛知医科大学精神科の兼本先生たちは、てんかん発作後精神症状がフィンセントのクリーゼのように数週間から数ヶ月続くこともあると報告してみえます。おそらく、ファレが記載している、てんかん発作後にみられる遷延性譫妄状態の一部はこの「てんかん発作後精神症状」だったのだろうと推察されます。明確には書いていませんが、じつは、ガストーもこの「てんかん発作後精神症状」を念頭にうかべていたのかもしれません。
しかし、フィンセントのクリーゼをてんかん発作後精神症状と考える場合でも、問題が残ります。精神症状が出現する前に、明らかなてんかん発作がみられたという証拠がないのです。
テネシー大学のブルマーは、フィンセントがパリにいるときに突然恐怖感に襲われ、上腹部の不快感を覚え、意識が減損する小発作に襲われたと記載しています(Blumer D (2002) The illness of Vincent van Gogh. Am J Psychiatry 159, 519-26)。手が強直性に攣縮し、混迷状態になり、その間のことをまったく記憶に留めていなかったというのです。もし、これが本当なら、これこそ、まさしくてんかん発作、それも、内側側頭葉起源を疑わせる複雑部分発作です。フィンセントの手紙や家族や友人の手記、主治医の診療録にこのような記載がたったひとつでもいいですから残されていたら、いかなる研究者もフィンセントにてんかん発作があったことを疑わないでしょう。ところが、それほど大事な記載なのに、ブルマーはこの記載の出典をまったく書いていません。調べ得たかぎりでは、彼以外にこのようなことを書いている文献や書物は他にありません。もちろん、書簡集にもそのような記載はありません。書簡集にもないのに、その後に書かれた、一つの引用文献も明示されていない論文の記述を鵜呑みにするわけにはいきません。それに、これはパリ時代のことです。耳切事件以降のクリーゼにおいてにこのようなてんかん発作を示唆する症状がみられたという事は、ブルマーも書いていません。
奇妙に思われるかもしれませんが、結局のところ、問題なのは、情報が不足していることなのです。
フィンセントのクリーゼについては、フィンセントが手紙でいろいろ書いていますし、友人やテオや主治医も書き残しています。ですから、情報が十分あるように錯覚しがちです。しかし、てんかん発作の診断という観点からすると、肝腎な情報が欠けているのです。フィンセントの記述は、当然意識がある程度回復したとき、または、意識が消失する直前のものですから、単純部分発作でもないかぎり、あまり、てんかん発作の診断には役立ちません。大事なのは、意識がなくなる直前、そして、意識がなくなっている最中の目撃者の情報です。しかし、フィンセントのクリーゼの場合、これが決定的に欠けているのです。
そのうえ、医師による情報がお粗末です。レー医師はフィンセントの病態を「幻覚と興奮性精神錯乱を特徴とするてんかんの一種で、その発作性変調(クリーゼ)は過度のアルコール摂取によって誘発される」と上司に報告しています。しかし、具体的にフィンセントがどのような症状を示したのかまったく書き残していません。一方、ペロンが記載しているのはフィンセントが「大部分の時は平静である」こと、「半月ないし一月続」く発作を起こし、発作の間「恐ろしい恐怖にさらされ」絵の具やランプ油を幾度も服毒しようとしたこと、発作と発作の間には「完全に平静に、頭も明晰になり、そのさいには熱心に絵に没頭する」ことです。発作、発作と書いていますが、その発作については、恐怖にさらされていたこと、絵の具やランプ油を幾度も彼は服毒しようとしたこと以外、具体的に何も書いていません。一月以上発作が続いたのであれば、たとえば、その間、食事をとれたかどうかなど、さまざまな疑問がでてきますが、そういうことも含め、具体的な記載は皆無です。さらに、ガシェにいたっては、フィンセントの病状に関する何の記録も残していません。フィンセントがまだサン・レミにいるころ、テオに対してガシェは、フィンセントのクリーゼは狂気と関係がないだろうとコメントしたようです。しかし、フィンセントがオーヴェールにやってきてからは、フィンセントの容態に関して何の記録もとらなかったようで、「カルテ」も残っていません。
もしかしたら、長い年月の間に重大な情報が書かれたものが散逸してしまったのかもしれません。しかし、ゴッホは死後10年にはかなりの注目を集めるようになっていますから、ゴッホ関連の書類もそれに伴って重要視されるようになったはずで、一番大事なこうした情報がすっぽり抜け落ちた可能性は少ないように思います。さすがにガシェにたいしては不満を漏らしていますが、癇癪もちのフィンセントがレーやペロンの診療に堪え忍んだところをみると、これが当時のフランスにおける普通の医療だったとも考えられます。しかし、テオに関しては、精神病院にかなり具体的な症状が記載されているのが残っているのですから、もしかしたら、著名画廊の支配人であったテオとちがい、「耳切事件」を起こした、浮浪者同然の貧乏画家に対する医療はそんな程度だった、ということなのかもしれません。
ただし、てんかん発作の鑑別に関してだけいえば、レーやペロンたちと同じ「間違い」を、医者は現在でも犯す危険性があります。ガストーの衣鉢を継ぐフランスのてんかん学の大家、アイカルディはてんかんの診断において「注意深い、詳細にわたる病歴聴取が正確な鑑別診断の基盤であり、偏見に囚われないデータが何よりも必要とされる」と書いたうえで、「医師や看護師などの医療関係者は発作がどのようなものであるべきかという妙な偏見をもっているので普通の人の発作観察よりも当てにならないことがある」とコメントしています。
たとえば、第7シベリア旅団の軍医エルマコフはドストエフスキーが「29歳にはじめててんかん発作におそわれた。発作は、突然の叫声、意識消失、四肢と顔面の痙攣からなり、唇から泡を吹く。いびき様の呼吸がみられ、微弱化した頻脈をみとめる。発作持続は15分で、その後、ぐったりする」と記録に残しています。これは、アイカルディのいう「普通の人の発作観察よりも当てにならない」記述の典型です。どうみても医学書に書かれたてんかん発作の記述の引き写しです。少なくとも、これによって、ドストエフスキーが部分発作をもっていたという診断はできません。
しかし、医者だけを責めるのは片手落ちでしょう。
クリーゼについての情報が乏しいのは、じつは、フィンセントの生活様式が最大の原因だからです。司馬遼太郎がいうところのフィンセントの「人影の少ない寂寥たる環境」が問題だったのです。
フィンセントがドストエフスキーの生涯に勇気づけられたことは以前書きました。しかし、ドストエフスキーの生活環境はフィンセントのものに比べればずっとましでした。少なくとも、フィンセントの同情を受けなければならないほどひどいものではありませんでした。ドストエフスキーもその性格から人とぶつかることがよくありました。しかし、それでも、ドストエフスキーにはかれの発作を観察し、記録してくれる、妻があり、友人がいました。ドストエフスキーにてんかん発作があったこと、それも部分発作があったことが診断可能なのはそのおかげです。ドストエフスキーは有名な「恍惚前兆」を小説に書き残していますが、てんかんの診断という面から見ると、彼が残した有用な情報はこれだけです。医者の記載が当てにならないことは上に述べたとおりです。結局、かれの発作症状を「医学的」にも正確に伝えてくれたのは友人たちと妻でした(ヤノフスキーは医者ですが、友人として記載したためか、ドストエフスキーの発作症状を生き生きと伝えています)。発作を起こしたとき、友人や妻がいたからこそ、200年近く前のことながら、ドストエフスキーのてんかん発作の正確な診断が可能なのです。これは、シーザーについてもいえます。2000年前のことであるのに、シーザーのてんかん発作がある程度診断可能なのは、「完全無欠の俗物」のシーザーがつねに多くの人間に囲まれていたからです。おかげで「発作が始まったなと気がつくとすぐに、すでにゆらぎはじめている意識が病気によってまったく圧倒されて混濁してしまわないうちにと、付近の櫓の中に運ばれて戦闘の間安静にし続けた」というスエトリウスの記述が100年以上たった時点でも可能だったのです。
ところが、それよりずっと最近のことなのに、フィンセントのクリーゼについてはてんかん発作の診断につながる具体的情報がほとんど残されていません。とくに、クリーゼ開始時の目撃者は皆無に等しく、このことがフィンセントにてんかん発作があったか否かの判断を著しく困難にしているのです。耳切事件の時も、その後、2回目のクリーゼを起こしたときも、アルル時代、フィンセントの周りには誰もいませんでした。サン・レミに移ってからも、アルル外泊中にクリーゼが起きたときは結局誰もいなかったようです。サン・ポール療養院で発作が起きた時ですら、目撃証言は限られます。病院においてさえ、フィンセントは孤独だったのです。
しかし、サン・レミ時代の7月の発作にかんしてだけは、わずかながら手がかりがみられます。フィンセント自身が、発作がきそうだという前兆を覚えたと手紙で明言しているからです。ただし、前兆を感じた後どうなったのかについては今ひとつよくわかりません。
ヴォスクイルは1886年7月16日のクリーゼの時、「発作が来そうだ」という前兆を感じた後、フィンセントの一方の手が攣縮し、恐ろしい顔つきになり、地面に倒れたと記しています。ヘンフィルもフィンセントがこの時「けいれんを起こし倒れた」と記していますから、どこかに共通の出典があるのかもしれません。しかし、いずれにも引用文献が書かれておらず、ブルマーの時と同様、これが確かな情報なのかどうかわかりません。少なくとも、調べた限りでは、フィンセント本人や周りの人間はそのようなことを書き残していないようです。フィンセントの友人や家族や主治医の証言だけからてんかん発作の有無を判断することは不可能なのです。
それほどまでにフィンセントは孤立した生活を送っていました。ドストエフスキーの場合も、ペトロパヴロフスク要塞に収容されていたときやシベリアのオムスク監獄に閉じ込められたときは、てんかん発作情報が途絶えています。発作症状の情報という観点からみる限り、耳切事件以降の1年半にわたるフィンセントの生活は「牢獄生活」となんら変わるところがなかったといえます。

ヨハンナ
フィンセントにあった頃
さすがというか、ヨハンナはフィンセントのおかれた悲惨な状況を的確に見抜いていました。結婚を目前に控えた頃、彼女はテオにフィンセントを引き取って一緒に暮らすか、母親の元に戻るよう勧めてはどうかとテオに提案しています。しかし、テオはパリでの同居生活の経験からフィンセントが「最良の友人たちにとってすら、かれと仲の良い関係を続けてゆくのは」困難であることを痛いほど知っていました。自分たちとの生活も母親との生活も、結局長続きしないだろうとテオはヨハンナに答えています。「自然か、ルーランのような非常に素朴な人を相手に一人で暮らす場合以外に、かれにとって静かな生活は不可能」だというのです。危険でも、孤独でも、どうしようもありません。「ありきたりでない人間にはありきたりではない薬が必要」だったのです。
クラウスは一般的診断名を拒否するほど「病気」においてさえフィンセントは「個性的」だったと書いています。しかし、もちろん、個性的疾病など存在しません。フィンセントが堪え忍んだ「人影の少ない寂寥たる環境」がクリーゼにかんする情報を乏しいものとし、「個性的」診断を余儀なくさせたのです。
ここで、もう一度、ガストーの論文に戻ります。
2番目の「実際にゴッホを診察しておらず、記録によってゴッホの病気を推察し、その病気からゴッホの芸術を論じている医師」にかんする考察です。かれは、まず、梅毒による麻痺性痴呆説について、あり得ないと述べています。理由は今まで何度も述べてきたとおりです。ついで、ヤスパースの「精神分裂病説」に対する反論が展開されます。その内容は先ほどヤスパース説について述べた部分と重なる部分も多いので詳細は省きます。要するに、臨床症状、臨床経過から精神分裂病はありえず、また、ヤスパース自身もゴッホが精神分裂病だったと断言しているわけではないということです。
さらに、ガストーはWesterman-Holstijnの精神分析に基づく「ゴッホ精神分裂病説」も検証していますが、ここでは省略します。
その次の、フィンセント生育歴から推定した癲癇性精神病の可能性に関するガストーの考察ですが、おそらく、この部分は論文の中でも一番問題となるところです。
ガストーはドルス牧師とアンナの間に生まれた最初の男児が死産だったことを重視します。さらに、フィンセントの自画像にみられる頭蓋の非対称にも目をつけます。そして、その頭蓋変形は難産に伴う変形ではないかと推定するのです。そして、フィンセントには難産に伴う限局性脳病変、海馬病変があったかもしれないと論を進めます。
海馬を含めた内側側頭葉というのは、以前述べましたように、記憶に関与し、また、種の保存に必要な情動や自律神経機能を統合する役割も果たしているものと推定されています。しかも、内側側頭葉は痙攣閾値が低く、発作焦点を形成しやすくなっています。このため、「てんかん発作のペースメーカー」とさえ呼ばれています。このような内側側頭葉病変があったために、フィンセントは情動不安定で、「てんかん気質」的な奇矯な行動がみられ、てんかん発作も起きやすく、アルル時代、内側側頭葉からの異常放電による複雑部分発作が、クリーゼとしてみられるようになったのだとガストーは推定します。さらに、その若い晩年、ゴッホが性的な興味を失っていることも側頭葉てんかんに共通した特徴だとガストーは指摘しています。
しかし、これはかなり乱暴な仮説です。
てんかん気質というのは、以前述べましたように、てんかんをもっている人に共通してみられるとされる性格のことで、躁鬱的で生真面目である一方で、性的に歪みがみられ、怒りっぽく、すぐに敵意を剥きだしにし、攻撃的偏執狂的、感情的。また、哲学的、宿命論的で宗教的側面もあり、強迫的で罪悪感が強いかたわら、説教的になるともあるとされています。さらに、受動的、依存的で、迂遠、粘着質で、延々と文章を書き連ねる書字過多(hypergraphia)もみられるというものです。こうしたものが、海馬などに問題のある内側側頭葉てんかんに特異的な性格だとガストーが論文を執筆した当時盛んにいわれていたのです。たしかにこうやって並べてみると、フィンセントの性格と合致する面も少なくありません。しかし、内側側頭葉てんかんに特有な性格様式があるかどうかについては、いまだに議論の的です。てんかん専門家のほとんどはその存在を否定しており、てんかん性格を論じる試みそのものに反対する学者もいるということは、ドストエフスキーについて論じたときご紹介したとおりです。
しかし、なにより問題なのは、フィンセントが海馬に異常があったという確証がないことです。だいいち、フィンセントが難産で生まれたという証拠がありません。それに、万が一、難産で生まれていたとしても、それで、内側側頭葉に病変ができるわけではありません。
出生時異常が海馬を傷つけ、内側側頭葉てんかんをもたらすという説は、ガストーがこの論文を書いた当時、カナダのモントリオールで盛んにてんかん外科治療を行っていたペンフィールドが唱えた説です。しかし、この仮説はその後、顧みられることはなくなっています。新生児仮死で生まれた子供に内側側頭葉てんかんが多発するという事実がないことが、その後、明らかになったからです。
結局、ガストーの「フィンセント内側側頭葉てんかん」説は、仮説の上にさらに仮説を強引に積み重ねていったもので、かなり無理があります。クラウスやトラルボートたちも同様に感じたのでしょう。彼らが自分の説を認めず、激しい論戦を戦わしたと論文の前文にガストーは記しています。
しかし、論文の最後で、ガストーはさすがと思わせる議論を展開しています。フィンセントのクリーゼの誘発要因はアルコール、とくにアブサンだったというのです。そして、ゴッホのクリーゼと飲酒の関係を時系列で並べて説明しています。(ただし、ガストーは、ゴッホがアルコールに対して脆弱な神経を持って生まれ、神経内側側頭に傷があったために、アブサン中毒が出やすかったという議論を展開しています。さらに、ガストーはアブサンを大量に飲むようになったパリ時代にすでに軽いクリーゼがあったに違いないと主張しています。もちろん、いずれも、仮説の域を出ません)
譫妄発作の誘因としては膨大な数の病態が想定しうると鑑別診断のところで申しましたが、じつをいいますと、再発性の譫妄発作を示す患者さんが目の前に現れたら、まず、まっさきに思い浮かべるのが、外来性物質による中毒です。そして、フィンセントがクリーゼを起こした状況も考慮に入れると、その「外来性物質」としてまず候補に挙がるのがアルコールです。アルコールの中でも、とくに、アブサンは20世紀初頭に販売禁止になった「悪魔の酒」です。そのうえ、けいれん誘発作用もあるとされています。ですから、てんかん説という観点からも腰を据えて検討すべき対象といっていいいでしょう。

マネ
「アブサンを飲む男」
「緑の妖精」とも呼ばれる薬草系リキュールの一種アブサンは、ニガモヨギからつくられた薬をヒントに18世紀のフランス人医師がフランス革命からの亡命先、スイスで考案した薬酒です。その後、この処方をもとにペルノー・フィス社がリキュール酒として売り出します。そして、1840年代、アルジェ戦争中にアブサンに親しむようになったフランス兵が自国にアブサン飲酒の習慣をもち帰ります。この後、アルコール度70%を越える安価なアブサンは、貧乏人にも心おきなく飲め、強烈な酔いをもたらしてくれる酒としてフランスで人気を博します。1896年には、ブドウペストの流行でブドウ酒の生産量が激減したこともあってフランスにおけるアブサンの年間生産量が急増、12万5千リットルにも達したと言われています。マネの初期の傑作「アブサンを飲む男」は、ルーブル美術館近くで見つけた屑拾いの男を描いたものです。ぼろ切れのような茶色のマントに身を包んだ男の横に薄黄緑の液体を入れたグラスがおかれ、足下にはアブサンが入っていたとおぼしき空の黒い瓶が転がっています。貧しい人間とアブサンの関係を窺うことができる、透明な黒と茶を基調とした美しい絵です(ただし、マネの絵の師匠だったクーチュールは「酔っぱらっているのは画家の方だ」とこの絵を酷評したそうです)。
しかし、アブサンを愛したのは貧乏人だけではありませんでした。その魅惑的な芳香と強烈な酩酊作用に魅せられ、ボードレール、ランボオ、ヴェルレーヌ、エドガー・アラン・ポー、オスカー・ワイルド、ロートレック、ゴーギャンなど多くの芸術家がアブサンを愛飲しました。ランボオはつぎのような詩を書いています。
「来給え、酒は海辺を乱れ走り、
幾百万の波のひだ。
見給え、野生の苦味酒(ビエテル)は、
山々の頂きを切っておとす。
廻国の君子等、どうぞ一つ手に入れては、
アプサンの作る緑の列柱…….
(渇の喜劇 III 友達 ランボオ詩集 アルチュル・ランボオ著 小林秀雄訳)」
しかし、やがて、アブサンは嗜虐性の有毒な酒とみなされるようになります。
19世紀後半、フランスやアメリカの医学雑誌にアブサンの危険性を指摘する論文が次々に発表されます。アブサンを大量に飲むと、胃腸症状をきたし、てんかん発作を起こし、幻聴、幻視を誘発することもあるというのです。アブサンの常飲は言語障害、睡眠障害、知的荒廃をもたらし、死に至らしめることもあるとの報告もなされました。そして、これらを総称してアブサン中毒と呼ばれるようになります。1913年の国際会議では、アブサンによって幻覚を伴う狂気が激烈な特発性譫妄発作のかたちで出現、時として、危険な暴力行為を反応性に誘発することもありうる、と報告されました。いうまでもなく、フィンセントのクリーゼそのものです(そして、ファレが記載している遷延性譫妄状態にもぴたりと当てはまります。もちろん確証はありませんが、モレルやファレが提唱した仮面てんかんの中にはアブサン中毒に起因するものが含まれていたのかもしれません。そうだとするなら、アブサンの発売が禁じられとともに、「仮面てんかん」も姿を消し、それがゆえに、現代てんかん学に仮面てんかんの概念が残らなかったのだと考えることができるかもしれません)。
アブサンはニガヨモギに加え、アニス、ウィキョウ、ヒソップ、ベンケイナズ、ショウブなど10種類近くの植物をアルコールに漬け、蒸留して作られます。その中で一番問題視されたのがニガヨモギから抽出されるアブサン油の主成分であるツジョンthujonです。
ツジョンはケトン体の一種である芳香性テルペン化合物です。アブサンの原料となるアブサン油を5%濃度のアルコールに溶かし、その0.05mlをウサギの静脈に注入すると自律神経系の昂奮をきたし、やがて、ウサギは意識を消失し、てんかん発作に似たけいれんを起こします。そして、アブサン油から抽出したツジョンだけを静脈に注入しても間代から強直に変容するけいれんを引き起こします。このため、20世紀になって、ツジョンは動物実験におけるてんかん発作誘発剤として重宝されるようになったほどです。さらに、ツジョンに繰り返し曝露されると中枢神経の恒久的な異常をきたすことも知られるようになりました。
19世紀後半、飲酒によって精神異常、知的荒廃をきたす人間がうなぎ登りに増えました。そして、動物実験の結果が喧伝されたため、アブサンが攻撃の矢面に立たされることになります。多発する殺人事件や暴力事件がアブサン依存症と関連づけて論じられるようになりました。そして、ついには、アブサンは人間を廃人に至らしめる悪魔の酒と呼ばれるようになります。
こうして、20世紀前半、フランスも含め、ヨーロッパのほとんどの国でアブサンは販売禁止となり市場から姿を消します。
アブサンで身を持ち崩したといわれた芸術家も少なくありません。中でも、詩人のヴェルレーヌと画家のロートレックは有名です。ヴェルレーヌが妻子を虐待し、詩人ランボーにむけて拳銃を撃ち放ったのはアブサンのせいだとされています。一方、ロートレックはアブサンで命を縮めたといっても過言ではない天才画家でした。フィンセントがアブサンを呑むようになったのはパリ時代のことのようですが、その習慣を植え付けた一人がロートレックではないかといわれています。ロートレックがフィンセントを連れ回してアブサンを飲ませたというたしかな証拠があるわけではありません。しかし、かれがアブサン指南役にふさわしい生活を送っていたことは事実です。

ロートレック
「ル・ディヴァン・ジャポネ」
ロートレックは13歳の時、たて続けに2度足を骨折しました。それ以来、足の成長が止まり、成人してからの身長は142センチしかありませんでした。しかも、どういうわけか、骨折後から、鼻が異常なほど大きくなり、唇は分厚く紫色に腫れあがり、初対面の人間が思わず顔をそむけるような異様な容貌になってしまいました。成人して画家の道を歩むようになると、姿形が問題にならないことも魅力だったのでしょう、夜のモンマルトルを連日、徘徊するようになります。モンマルトルのキャバレーやダンスホールを毎晩のように渡り歩き、明け方まで浴びるように酒を飲みまわったのです。19世紀末のパリといえばだれもが思い浮かべる、ムーラン・ルージュをはじめとするキャバレーの洒落たポスターは、こうした生活の中からうまれました。しかし、その自滅的生活がたたって、34歳の時にはすでに肉体はぼろぼろで、ロートレックは療養所生活を余儀なくされます。しかし、そんな状態になっても、いつも手にしていたステッキに酒を注ぎ込めるよう細工をほどこし、監視の眼をかいくぐっては酒を飲み続けました。そして、36歳の若さで死んでしまいます。

ヨハンナと息子
ロートレックはアブサンの入ったグラスが置かれたテーブルの前に座っている鋭い眼差しのフィンセントのパステル画を描いています。また、フィンセントもアブサンを主題とする絵「アブサンのある静物」をパリ生活2年目の春に描いています。おそらく、この頃、フィンセントはアブサンを常飲していたのでしょう。
しかし、このパリ時代の悪習をフィンセントはアルルに移ったのち一時、絶ちます。
パリを発ったとき自分はアル中への道をまっしぐらに進んでいた、とアルルについてしばらくしてフィンセントは書いています(No 481. 1888年5月4日)。そこで、酒も煙草も控えることにしたのですが、そのために鬱状態になって喪心してしまい、ひどい目にあったとこぼしています。同じ年の4月に「目下のところ…….静かに自制している。まず胃の調子を治さなければならないからだ(B4. 1888年4月20日頃)」とベルナールに書いていて、アルル到着時は相当胃の調子も悪かったようです。パリで「飲み過ぎた悪いブドウ酒のせいで引き起こした症状だ(No 480.1888年5月1日)」とテオには書いていますが、おそらく、胃腸障害をきたすアブサンの影響もあったと思われます。しかし、アルルではブドウ酒でさえ「ごくわずかしか飲まない」ので「悪くならずに回復しつつある」と報告、9月には「体力はなくなるどころか回復して、殊にも胃はいっそう丈夫になっている(No 530. 1888年9月1日)」と書いています。どうやら、鬱状態になっても「夜のカフェ」でアブサンを浴びるほど飲むのは控えていたようです。これは、当時のフィンセントがおかれた環境を考えると、奇跡的といってもいい自制心です。フィンセントが滞在していた当時、アルジェ外人部隊の駐屯地アルルはフランス国内平均の4倍のアブサン消費量を誇っていたのですから。
ところが、ゴーギャンがやってくると、アブサンを大量に飲む習慣がもどってしまいます。耳切事件の前々日、フィンセントがゴーギャンに向かって、アブサンの壜を投げつけたというゴーギャンの記述が示すとおりです。おそらく、ゴーギャンは何気なくパリやブルターニュの生活パターンをアルルにもち込んだのでしょう。しかし、結果的にフィンセントがたてた節酒の誓いを破らせることになりました。アブサンにおぼれる習慣が一旦戻ると、アブサンが溢れている土地柄ですから、とどめようがありません。しかも、冬が近づき、例によって鬱状態に落ち込んできてアブサンなしではいられなくなります。当時、適量のアブサンは鬱に有効との論文がでていましたが、フィンセントも実体験としてそのことを知っていたでしょう。とくに、ゴーギャンがアルルを出て行くと宣言してからは、耐え難いほどに気分が落ち込み、アブサンの消費量も一気に増えたことでしょう。アブサンの急性中毒症状がでても当然でした。
アブサンを飲み過ぎると危険であることは、当時、一般にも知られていました。しかし、ツジョンが抽出され、その有害作用が指摘されるのは20世紀前半のことです。アブサンそのものが危険という情報はフィンセントの時代、一般には、まだ、充分に行き渡っていなかったようです。飲み過ぎがいけないという程度の認識だったのでしょう。しかも、アブサンの消費量が全国平均の4倍のアルルにあっては、フィンセントのアブサン飲酒量はとくに目立ったものではなかったはずです。まわりの人間がフィンセントのクリーゼとアブサンとの関連に注意を払わなくても不思議はありません。さすがに主治医のレーはアルコールを控えるようフィンセントに指示しています。しかし、とくにアブサンを特定して禁止はしていません。このため、耳切事件以降もフィンセントはアブサンを絶つことはなく、おそらくそのことがクリーゼの再発をもたらした可能性があります。
たとえば、シニャックはフィンセントが「ほとんど何も食べなかったが、飲むものの量はいつも多すぎた、いちにちを燃えるような太陽や炎熱のなかにすごして帰ってきて……カフェのテラスに腰を下ろすのがつねだった。アブサンとブランデーとがかわりばんこに立て続けに続いたものだった(A16)」と書き残しています。これが、パリ時代のことなのか、アルル時代のことなのかはよくわかりません。ただ、「ああなっては抗えるものでなかったろう」と続けていますから、黄色い家でテレビン油を飲み干そうとする前、「抗え」ず、「アブサンとブランデーとがかわりばんこに立て続けに続いて」アブサンの急性中毒を引き起こした可能性があります。
さすがに、耳切事件から数ヶ月たった頃には本人もアルコールの害についてすこしは自覚するようになり「アルコールはぼくの狂気の大きな原因の一端」(No 585. 1889年4月21日)と書いています。しかし、「その害は徐々にやってきて、治るとしてもおもむろに治ってゆくはず」であって、禁酒で治すということは「とんでもない迷信だと思いたい」ととんでもない希望的観測を述べています。せっかくの自覚も何にもなりません。さらに「自殺したあのマルセイユの画家はけっしてアブサンの結果自殺したわけではなく、誰もそれを彼に提供しようとしなかったし、彼にはそれを買う術がなかったという単純な理由からだ。それに彼がアブサンを飲んだからといっても、ただ自分の楽しみのためだけでなく、すでに彼は病にかかっていて、飲むことで身をもたしていたのだ(No 588. 1889年4月30日)」などと書いています。「自殺したあのマルセイユの画家」というのはフィンセントが多大な影響を受けたモンティセリのことです。尊敬する先輩画家をこんな風にいっているぐらいですから、アブサンを絵画制作のための必需品ぐらいにみなしていた可能性は充分あります。
サン・ポール療養院に移ってからも、アルル市民病院同様「普通より少し多く葡萄酒を、たとえば四分の一リットルでも半リットルでもくれればそれでよい」と呑気なことをいっています。こんな具合ですから、病院から外泊するとき安価で「よく効く」アブサンを飲んでいた可能性は充分にあります。実際、サン・ポール療養院から「ぼくはここで酒を飲まずにいるが、それは飲まずにおれる可能性があるからで、以前は他にどうしようもなかったから飲んでいた(No 599. 1889年7月5日)」と書いたあとで、「よく計算して飲めば????じっさい????-頭さえよければ、いっそう敏活に頭が働く状態」になるとつけ加えています。こんなことを書くぐらいですから、アブサンを飲んでも少しも不思議はありません。ただ、ペロン医師は、外泊させるとろくなことにならないことに、さすがに気づいていたようです。「アルルへ非常にゆきたいのだが、さすがにこの数日行かせてくれとは頼めなかった。きっと彼(ペロン博士)は反対するだろうからね。もっとも以前のアルル行とその後続いて起こった発作の間に関係があると彼が考えているとはまさか思っていないが。(No 609)」とフィンセントは書いています
このように、「耳切事件」前にフィンセントはアブサンを大量に飲んでいたと思われますし、耳切事件後、退院して、黄色い家に戻ってから「クリーゼ」が再発するまでにも、アブサンを飲んだ可能性があります。サン・ポール療養院時代は、1889年7月7日、10月3日前後、1890年1月19日、2月22日の4回、サン・レミからアルルを訪れています。そして、このうち後の2回では、直後(1月21日、2月22日)にクリーゼを起こしています。アルルでアブサンを飲んで急性中毒を起こした可能性が充分にあります。一方、7月7日の後にもクリーゼを起こしていますが、この時は、クリーゼを発症したのは7月16日で、10日近いタイムラグがあり、急性中毒とは考えられません。しかし、アブサンがクリーゼの引き金を引いた可能性は否定できません。
クリスマスの頃にもクリーゼが起きていますが、この時、アブサンを呑んだかどうかは書簡集からだけでは窺い知ることができません。
ガストーはクリスマス週間にアルコール度の高い酒がこの時期、療養所で許可されたと書いていますが、その根拠となる出典は不明です。その後、ヘンフィルもガストーの論文からの引き写しかもしれませんが、クリスマスの時飲酒したと記しています。しかし、ヴォスクイルはその事実を否定しています。そのうえ、クリーゼが起きたのはクリスマスイブではなく、その前日だと訂正しています。もしそうであれば、このときは、アブサンとの関連性はないことになります。しかし、実際にどちらが正しいのかよくわかりません。
フィンセントがアブサンを完全に絶ったのは、結局、自殺直前のことでした。オーヴェル・シェル・オワーズからジヌー夫人に宛てて「飲酒をよしてから、確かに仕事が以前よりよくなったらしく、やはりこれはよかったと思っています(640A. 1890年6月)」と書いています。
こうやってみてくると、クリーゼは概ね、アルコール、とりわけ、アブサンと関連していたと考えてよさそうです。そして、もしアブサンが原因とすれば、ツジョンのけいれん誘発作用から考えて、何らかのてんかん発作がクリーゼに混じって起きていた可能性も充分考えられるのです。
ところが、最近、アブサン中毒の存在そのものを疑問視する意見もでてきています。
19世紀にアブサン中毒の症状とされていたものは、たんなるアルコール中毒にすぎず、アブサンに特有のものではなかったのではないか、というのです。
これに関してはハイデルベルグ大学麻酔科のシュテファン・パドッシュらによる優れた総説があります(Padosch SA、 Lchenmeier DW Krone LU (2006) Absinthism: a fictious 19th with present impact。Substance Abuse Treatment、 Prevention、 and Policy 1-14)。以下はその要約です。
アルコール飲料の長い歴史の中でも、非合法化されたのは、唯一、アブサンだけです。しかし、すべての国で製造禁止になったわけではありません。イギリス、スペイン、チェコスロバキアなどでは製造禁止法が施行されず、細々ながらアブサンが製造され続けました。そして、1988年、ツジョンの濃度を35mg/L以下に保つことを条件にEUはアブサン製造禁止法を廃止するよう各国に勧告しました。アブサン製造を禁じていない国にとって、製造禁止法が貿易障壁に当たるという理由からでした。そして、解禁になった裏には19世紀末から20世紀初頭の「アブサン伝説」への疑念があったのです。
実際、アブサン非合法化前にフランスで繰り広げられた反アブサン禁酒キャンペーンには、うさんくさい面がありました。禁酒キャンペーンだというのに、キャンペーン推進団体の中にワイン業者が混じっていたのです。問題は酒の質であって量ではないとこの「禁酒」キャンペーンは主張していました。当時、フランスの飲酒量がうなぎ登りに増えていました。そして、アルコール飲料の大半を占めていたのはワインでした。ところが、自然の果実、ブドウから作られるワインは健全で、怪しげなハーブを混ぜ合わせて蒸留された高濃度アルコール飲料の「緑の妖精」は不健全だというのです。これが禁酒キャンペーンのメッセージでした。アブサンにアルコール市場を圧迫されているワイン業者が反アブサン運動の陰で糸を引いていたのです。
そんな中でアブサンの害毒が喧伝されたわけですから、それを支持する医学論文もいまひとつ信用がおけません。アブサン中毒の研究でもっとも有名なのはフランス人医師、バレンチン・マグナンのものです。かれは1864年から1874年にかけての10年間、精力的にアブサン中毒についての論本を発表、アブサンを大量に飲むと意識障害を伴う幻聴、幻視がみられると報告しました。これに続いて、アブサン中毒の急性症状として幻暈、発作、神経衰弱、幻覚性錯乱状態、慢性症状として躁状態、脳の軟化、全身麻痺、精神変調がみられるという報告がつぎつぎとなされます。
ところが、1867年から1912年にかけてパリにおいてアルコール中毒で治療を受けた16,532人のうち約7割が慢性アルコール依存症と診断されましたが、アブサン中毒症状を示していたのは1%にすぎなかったという報告がなされました。この時期、パリにおいては大量にアブサンが消費されていました。にもかかわらず「アブサン中毒」はアルコール中毒の1%にすぎなかったのです。アブサン中毒とされていたもの多くがじつはたんなるアルコール中毒だった方がつじつまが合います。
当時の臨床研究はわずかな臨床観察に推論を加えただけで安易に結論を導いているものが少なくありませんでした。そのうえ、アブサンやツジョンの動物実験の結果が無反省に臨床症状と結びつけられました。たとえば、ニガモヨギからの抽出物とアルコールは動物に異なる症状を引き起こすことは、当時からよく知られていました。ニガモヨギの抽出物を大量に投与するとてんかん様発作が起き、突然死に至りますが、一方、アルコールを大量に投与しても、四肢の麻痺がみられるだけで(つまり酔っぱらうだけで)、突然死はみられません。ところが、この動物実験の結果が何の根拠もなく人間に適用されます。アルコールだけではどうということはないが、ニガモヨギの入ったアブサンは有毒だというのです。人間が飲むアブサンは高濃度のアルコールの中にきわめて低濃度のニガモヨギ抽出物しか含んでいないという事実などお構いなしでした。
前にも申しましたように、ニガモヨギの抽出物のなかではツジョンが一番問題で、実際、ツジョンを大量に服用しててんかん発作を起こしたヒトの報告もなされています。しかし、普通にアブサンを飲んだ場合、ツジョンの血液濃度は症状が出るほどまで上昇しないと推定されています。少なくとも、EUの35mg/Lという上限値が守られれば、ツジョンによる有害作用は無視できるのです。
もちろん、アブサン内のツジョン濃度が高ければ話は別です。実際、昔の製法から計算すると、非合法化前のアブサンのツジョン濃度は260mg/Lにまで達していた可能性があるとアーノルドは主張しています。この説を前提してアブサン中毒について論じている論文は少なくありません。
ところが、実際に非合法化前の「歴史的」アブサンを解析した結果、ツジョン濃度はアーノルドたちの「理論値」よりも遙かに低いという報告も一方ではなされています。たとえば、ラッケンマイアーらはフランス、スイス、スペイン、オランダ、イタリアの「歴史的」アブサンを解析し、ツジョン濃度が0.5から48.3mg、平均25.4mgだったと報告しています(Lachenmeier DW, Nathan-Maister D, Breaux T, et al (2008) Chemical compositon of vintage prebanabsinteh with special reference to thujone, fenchone, pninocamphone, methanol,copper and atimony concentration. J Agric Food Chem 56, 3078-81)なぜ、アーノルドたちの「理論値」とこれほどの差があるのかは不明です。
結局、アブサン中毒なるものがあるかどうかを判断するためには、アブサン非合法化後、アブサン中毒が世の中から消失したかどうかをみるしかありません。しかし、残念ながら、これに関して信頼のおけるデータは残されていません非合法化後、アブサン愛飲者たちは他の類似リキュールに飛びついてしまったからです。このため、そうした比較ができなかったのです。
20世紀初頭に多くの国で非合法化されたアブサンは21世紀を目前に控え、解禁されました。そして、いまのところ、20世紀の変わり目に話題となった中毒症状は報告されていません。
しかし、アブサンは、いつの時代にも、幻想、妄想をかきたて、人々を魅了する運命にあるようです。
20世紀初頭の暗いイメージとうってかわり、解禁後のアブサンは媚薬効果があり、精神を高揚させる魅惑的なアルコール飲料として再登場しました。そして、それ相応の価格で売られています。
アブサンに媚薬としてのイメージを植え付けたのは1971年6月号のプレイボーイ誌でした。人類が創り出した「もっとも魅惑的でもっとも安全な媚薬」としてアブサンが紹介されたのです。残念なことに、科学的根拠はまったくありません。しかし、媚薬伝説は消滅せず、ボトルのラベルにそのように明記されたアブサンがいまも市販されています。
その一方でアブサンが大麻に似た精神賦活作用があるという伝説が「科学的根拠」に基づいて広まります。例のマグナンがアブサンにはハッシシと同等の作用があるといったのがこの「アブサン大麻説」の始まりです。そして、1975年、ツジョンと大麻の化学構造が類似しており、ツジョンが中枢神経内の大麻受容体を活性化させるかもしれないという論文がでて、「通説」になりました(Castillo J, Anderson M, Rubottom GM (1975) Marijuna,absinthe and the central nervous system. Nature 253 : 365-6)。こともあろうに、論文が掲載されたのが生物医学系雑誌の最高峰の一つ、「ネイチャー」でした。権威ある学術誌がアブサンを「合法的大麻」だと認定したようなものでした。その後、この説は明確に否定されました(Meschler JP, Howlett AC (1999) Thujone exhibits low affinity for cannabionoid receptors but fails to evoke cannabimimetic responses. Pharmacol Biochem Behav 62: 473-80)。しかし、いまも「アブサン大麻説」を信じている人は少なくないようです。
話をもどします。
それでは、フィンセントのクリーゼはアブサンのせいではなかったのかというと、そうだと簡単に言い切れるわけでもありません。国際会議で発表された「アブサン中毒」の症状がフィンセントのクリーゼ症状にそっくりなことは前に申しました。アブサンに特有でなくとも、「アブサン中毒」といわれていた症状が、当時の様々なアルコール飲料を摂取することで起きた可能性は否定できません。
さらに、フィンセントがとりわけ有毒なアブサンを飲んでいた可能性も考慮する必要があります。一口にアブサンといっても、19世紀後半から20世紀初頭にかけて販売されていたものは、ペルノー社製だけではありません。さまざまな業者が製造しており、製法も相当違っていました。製法が違うと、ニガモヨギ以外に添加される植物も違っていたのです。しかも、ニガモヨギの化学成分も採取地域によって異なっていました。
さらに、粗悪品もかなり作られていました。エメラルドグリーンの色をだすために硫化銅で色づけされることはざらにあったようです。さらに、アンチモニーが混ざっている商品もありました。アブサンに水を加えると乳白色に美しく白濁し、Lauche(いかがわしい)効果と呼ばれていました。この現象をいっそう際だたせるためにアンチモニーが添加されたのです。そのうえ、メチルアルコールが混ざっているものさえありました。先に引用したラッケンマイアーたちの報告では、発売禁止前のアブサンからは過量の銅塩やアンチモニー、メチルアルコールは検出されていません。しかし、彼らが分析したアブサンは、100年近く保存されていたのですから、当時における「高級品」だった可能性が高いと思われます。しかし、粗悪品にはえたいの知れない混ぜものが入っていたおそれが多分にあります。そして、未知のそうした混ぜものがフィンセントにみられていたようなクリーゼ、あるいは、てんかん発作を引き起こしていた可能性は否定できません。ここで、フィンセントのクリーゼが「アルルの飲酒」に強く関連していたことを思い起こしてもいいでしょう。アブサン消費量が異様に高かったアルルでは、紛い物のアブサンもたくさん売られていたでしょう。そうした中で、フィンセント愛用の(おそらくテオに気遣って廉価な)アブサンがクリーゼを引き起こしやすかった可能性は充分ありえます。
ただし、以上述べたことは、憶測にすぎません。結局のところ、フィンセントのクリーゼがアブサンで起きていたかどうかは不明です。そして、ツジョンというてんかん誘発物質を含んだ酒を愛飲していたのは事実としても、フィンセントのクリーゼにてんかん発作が混在していたのかどうかも、わかりません。
このように、フィンセントがてんかん発作を起こしていたという確実な証拠はありません。
しかし、もしかしたら、やはりあったかもしれない、と疑わせる傍証めいたものがもう一つあるようにも思われます。
それは、クリーゼをくり返すようになって以降、フィンセントの双極II型障害の症状が目立たなくなっていることです。
もちろん、耳切事件後もフィンセントは手紙の中で気分の落ち込みを何度も訴えています。しかし、それは、クリーゼの発作からの回復期に多く、鬱による気分の落ち込みというより、クリーゼによる体力の消耗、精神的虚脱感によるものと思われます。少なくとも、実際の行動に結びつくようなひどい鬱症状、あるいは、軽躁状態にはほとんど見舞われていません。
早急に症状を抑えなければならないほどの重篤な大うつエピソードや躁病エピソードでは、服薬による効果発現を待っていらないことがあります。そのような場合に、いまも行われているのが電気ショック療法です。電気ショック療法というのは、簡単に言うと、人為的にてんかん発作を起こして、精神症状を取り除く治療法です。精神分裂病(統合失調症)の治療法として有名ですが、双極性障害にも時として用いられます。薬物療法が効かない難治例にもちいられるのです。それほど有効な治療法です。フィンセントはもしかしたら、耳切事件以降、この「電気ショック療法」を本物のてんかん発作という形で定期的に「施行」していたため、双極II型障害が軽快していたのかもしれないのです。
実際、「耳切事件」以降、フィンセントは「激情」を示さなくなっています。耳切事件以前にみられたような怒りの爆発としては、事件直後のゴーガンに対するものがあります。しかし、これは、事態がまだ十分に飲み込めていないときのもので、とくに理不尽なものではありません。
一方、アルルの住民が市長に請願書をだしたために病院に監禁されたときには、驚くほどの冷静さで対応し、異常行動を誘発するような気分の変調をきたしていません。最終的には飛びでることになりましたが、サン・レミの劣悪な環境に一年近くも耐ええたことも以前のフィンセントを考えると奇跡的といっていいでしょう。また、入浴以外治療らしい治療もせず、発作が起きると莫迦の一つ覚えのように絵画制作を禁ずる元海軍医のペロン医師にも驚くほど寛大でした。ウィレミーンへの手紙(W11)の中でアルルにある「オシリスの巫女にして、テルフイの娘、テーベは嘉せられよ彼女は何人にもついぞ不平を言わざりき」という古代の墓の墓碑銘を何度も引用していて、どうやら、この言葉にひどく感心していたらしいので、それに倣ったという想像も一応は可能です。しかし、耳切事件以前もフィンセントはこれに類する言葉には何度でも出くわしていたはずです。それでも人一倍こらえ性のない行動をくり返していたわけですから、怒りを爆発させなくなった原因がこの言葉とはとてもいえないでしょう。
フィンセントが耳切事件前と同じような気分の落ち込みと理不尽な行動パターンをみせるのは自殺直前だけです。
赤ん坊の看病で疲れ果てたテオとヨハンナに会ったのちフィンセントが「ここへ帰ってきて、ぼくもまたとても悲しい思いをしていたし、君たちを脅かしている嵐が僕にもまた重くのしかかってくるのをずっと感じ続けていた。どうすればいいのか-----僕自身の人生は根底そのものから脅かされ、僕の足取りはよろめいている(No 649. 1890年7月10日ごろ)」と耳切事件以来絶えてなかった気分の落ち込みを訴える手紙を書いています。テオ夫婦の疲労、テオの独立に関する夫婦間の対立、そして、おそらくは、進行性痴呆によるテオの異常言動などを目の当たりにして鬱に落ち込んだのでしょうが、その一方で、同時期、感情を暴発させてもいます。ギヨーマンの裸婦の絵が額に入っていないと言ってガッシュ博士を2度も怒鳴りつけたという例のエピソードです。2回目に怒鳴りつけた時は、自殺に用いたリボルバーを手に脅迫したという言い伝えさえあります。そして「ぼくはガッシュ医師は絶対あてにしてはいけないと思う。第1、ぼくのこれまで見たところでは、彼はぼくより病気がひどいか、でなければ、まずちょうど同じくらいに悪い、ということだ。ところで盲目が盲目を導けば二人とも同じ溝に落ち込むのではなかろうか(No 648. 1890年7月)」とテオに書いています。たしかに、ガッシュ医師はフィンセントのクリーゼの原因が「テルペン油と北欧人には強すぎる日光」だと断言し、カウンセリングめいた会話を交わしただけで、主治医なのに、医学的に有効な手立てを何もしてくれていません。しかし、当時、ガッシュ博士はフィンセントがもっとも頼りにすべき人物だったはずです。それに、フィンセントの絵画に理解を示してくれ、自画像も依頼、エッチング製作の協力までしてくれています。頼るべき人間への攻撃という、昔、ドルス牧師やテオにたいして行ったと同じ行動パターンがここで再現されています。2月の発作以来、すでに4ヶ月近くもクリーゼがなかったことをここで思い起こしてもいいでしょう。クリーゼを誘発したかもしれないアルコールもこの頃にはどうやら完全に断っていたことも以前述べたとおりです。当時、ジヌー婦人に「飲酒をよしてから、確かに仕事が以前よりよくなったらしく、やはりこれはよかったと思っています(640A. 1890年6月)」と報告しています。
クリーゼによって躁鬱症が軽快していたかもしれないというのは、仮説どころか、私の妄想に等しいかもしれません。しかし、一つの可能性として頭の片隅にしまっておかれるのも一興かと思います。
クラウスはフィンセントの病気が「彼の生涯の仕事の文化的な価値に及ぼした影響は、全体として実質的にゼロ」と断定しています。「彼の制作に彼の病気のしるしがあることはたしかだ……けれどもその美は、最後まで無きずで完全なままであった」というのがかれの判断です。フィンセントの絵には「健康な」芸術としての素質がすべて備わっているというのです。
ヤスパースが麻痺性痴呆に関連して同様なことをいっていることは以前触れました。「彼の最後の作品の一部」に「乱雑さ」を認めるが、それ以外については「批判力と熟練とを保持」しているというのです。
また、ヴォスクイルは医学的に考察するより絵画芸術の歴史背景を考察する方がフィンセントの創造性をうまく説明できると述べています。
しかし、従来からフィンセントの絵を病気によって説明しようとする試みが絶えません。
たとえば、ある精神科医はフィンセントの絵にはてんかんの性質が刻印されていると論じています(マンフレート・イン・デア・ベーク著 徳田良仁訳 「真実のゴッホ。-ある精神科医の考察」 西村書店)。これは、先ほど述べた「てんかん性格」仮説の変形です。ベークによるとてんかん気質(闘士型)の造形能力は「即物的で几帳面な再現をみせる写実性」であり、「表現性はかなり質朴な感じ、きめの粗さ、太っ腹、高じた場合は無神経で暴力的になる」「不器用さ」、「ダイナミックで力強い動き」が特徴だというのです。なるほど、フィンセントの絵画にもそんな面があるような気もします。しかし、何の根拠もありません。てんかん性格論が否定されていることは以前述べました。さまざまな病気の集まりであるてんかん症例に共通の性格というのはありえません。ましてや、絵画においてはなおさらです。絵画という物言わぬ視覚上の対象物から私たちは好きなだけ言葉を紡ぎだすことができます。そうやって恣意的に出てきた言葉が、もう1人のてんかんを持つ人間の描いた絵から思いついた言葉と似ていたからといって「てんかんに典型的な絵」と呼ぶのは意味をなしません。それに、だいいち、いままでお話したように、フィンセントがてんかん発作をもっていたかどうかすら怪しいのです。なおさらのこと、かれの絵に「てんかん」を捜すというのはナンセンスです。
では、「双極II型障害」に典型的な絵画傾向があるのかといえば、これに関しても、いまのところ、何も言えません。疾患概念が比較的新しいので、何よりも、知見の積み重ねがありません。しかし、では、今後検討によって何かわかるようになるかといえば、それも、怪しいだろうと思います。てんかんの場合と同じように、疾患という側から絵画を含めた芸術作品を理解する道は狭隘です。なきに等しいといってもいいでしょう。
フィンセントは「ぼくの絵を他人(ひと)の絵と比べてみると、確かにぼくの絵のあるものは病気にやられた男が描いたと思えるふしが歴然としている。はっきりいっておくが、何もそれをわざとやっているわけでない。あらゆる計量をしたあとで結局破調になるのは、ぼくの意志ではかなわぬことなのだ(W16. 1889年11月)」と書いています。かれの数多い作品の中のどれについて、このように書いたかは不明です。たとえば、アルル時代の強烈な色彩は、どうしても、軽躁状態と結びつけて考えてみたくなります。一方、クリーゼをくり返さなければ描かなかったかもしれないと感じさせる絵画も結構あります。ただし、そのような感想は主観的にならざるを得ませんし、はっきり断言できるものではありません。

「農家(北の思い出)」
1890年3-4月
そうした中でわずかながら、クリーゼの影響をはっきり指摘できるのは、サン・レミ時代の1890年3月から4月にかけて書いた「北の思い出」「農家(北の思い出)」「馬鈴薯を刈り入れる農夫」「雪に覆われた畑を掘る2人の農婦」などの作品群だけかも知れません。フィンセント特有の波打つ描線で描かれてはいますが、色彩の精気に乏しく、何だか、隙間だらけの印象を与える絵ばかりです。アルルでひどいクリーゼを起こして、2カ月間にわたって意識が充分に戻らなかった時期に書かれたものです。母親と妹に「病気がごくひどかった時でも、なおそれでも描いていました。ブラバンドの思い出、こけむした屋根の農家やブナの生け垣、秋の夕方の嵐模様の空、赤みがかった蛛の中へ沈んでゆく真っ赤な太陽、また、雪の中のかぶら畑で緑のものを積んでいる女たちなど」と書いているのがこれらの絵だろうと推定されます。「最後の作品の一部」に「乱雑さ」を認めるとヤスパースが言っているのは、もしかしたら、これらの作品のことかもしれません。たしかに、これら数枚の絵からは、発作の直前に書かれた「アルルの女(ジヌー夫人)」や「花咲くアーモンドの枝」にみられる見事な色彩と構成が失われています。しかし、その後しばらくしてから描かれた「黄色い背景の花瓶のアイリス」では、黄色い壁とテーブルを背景に花瓶、緑青色の葉、群青色の花が見事に構成され、強烈な輝きを放っています。いうまでもなく、この傑作から何らかの疾患へとつながる道を見つけることはできません。

「「黄色い背景の花瓶のアイリス」
1890年4月
アーノルドは次のように書いています。「その知性、天賦の才能、絶えざる努力ゆえにフィンセント・ファン・ゴッホは素晴らしく創造的な人物であった。その疾病ゆえにではなく、その疾病にもかかわらず、かれは天才だった。この事実はゴッホの創造したものへの賞賛をいっそう高めることだろう」
これは、アーノルドのみならず、クラウス、ルービン、ヤスパース、ヴォスクイル、ガストーなど、ゴッホの病気に誠実に取り組んだ多くの医学者に共有されている見解だろうと思います。

「医師ガッシュの庭」
1890年5月
そのアーノルドが書いているゴッホの墓にまつわるエピソードを最後にご紹介しましょう。
フィンセントが自殺した後、ガッシュ博士はフィンセントの墓を自宅のひな壇式庭園に生えていた低木で飾りました。その飾り木はフィンセントが糸杉の「模造品」として重宝していたものでした。
ところが、フィンセントが埋葬された墓地は15年後に使用期限が切れ、他の墓地に墓を移さざるをえなくなりました。新たな墓地で割り当てられた土地区画はもとの墓に比べ広く、余裕がありました。そこで、この機会にテオの墓もフィンセントの墓の横に移転することになりました。
移転にあたって、フィンセントの墓が掘り起こされました。そして、例の飾り木の根が棺桶に絡みついているのがみつかりました。まるで飾り木がフィンセントを抱きかかえているかのようでした。ガッシュ博士の息子、ポールは慎重に飾り木の根を棺桶から引きはがしました。そして、飾り木を家に持ち帰り、もとのひな壇式庭園に植え戻しました。ヨハンナの希望で、新しい墓地はフィンセントが好きだった木蔦で飾ることになっていたのです。
あるとき、アーノルドはオーヴェールに赴き、ガッシュ邸をたずねました。すでにガッシュ邸はガッシュ家の手を離れていましたが、新たなオーナーはガッシュ邸の家と庭を大切に保存していました。墓から移し戻された件の飾り木も庭に残っていました。ところが、よくよくみると、その木というのは、ひのき科クロベ属の針葉樹、thuja treeだったのです。にがもよぎが使われる以前、アブサンの中毒成分とされるツヨンはこのひのきが原材料になっていました。その名前thujonもthuja treeからとられたものです。フィンセントを短命に終わらせる一因となったかもしれない中毒物質を産する木が15年にわたってかれの墓の上に枝を伸ばしていたというわけです。

フィンセントとテオの墓
二見史郎、宇佐見英治、島本融、粟津則雄訳 「ファン・ゴッホ書簡全集」1~6 みすず書房
J・V・ゴッホ-ボンゲル編 硲伊之助訳「ゴッホの手紙」上・中・下 岩波文庫
デイヴィット・スウィートマン著 野中邦子訳「ゴッホ 100年目の真実」 文藝春秋
ロバート・ウォレス著 中原佑介監修 巨匠の世界 「ファン・ゴッホ」タイム ライフ インターナショナル
Tralbaut ME. "Vincent Van Gogh" Fine Art Book, New York
高橋秀爾 「近代絵画史(上)ゴヤからモンドリアンまで」中公新書 中央公論新社
インゴ・F・ヴァルター ライナー・メッツガー 著 「ゴッホ 全油彩画」 TASCHEN
インゴ・F・ヴァルター著 「フィンセント・ファン・ゴッホ Van Gogh」 TASCHEN
パスカル・ボナフー著 嘉門安雄監修「燃え上がる色彩-ゴッホ」創元社
「NHK世界美術館紀行2 ゴッホ、レンブラント、フェルメール」NHK出版
マリー=アジェリーク・オザンヌ フレデリック・ド・ジョード著 伊勢英子 伊勢京子訳 「テオというもう1人のゴッホ」平凡社
トマス・ア・ケンピス著 大沢章、呉茂一訳「キリストにならいて」 岩波文庫
マリナ・フェレッティ著 武藤剛史訳「印象派[新版]」文庫クセジュ 白水社
ピエール・シュナイダー著 高階秀爾監修 巨匠の世界 「マネ」 タイム ライフ インターナショナル
カール・ヤスパース著 村上仁訳 「ストリンドベルグとフアン・ゴツホ - 芸術作品と精神分裂病との関聨の哲学的考察」 山口書店
クルト・シュナイダー著、西丸四方訳「臨床精神病理学序説」みすず書房
アルバート・J・ルービン著 高儀進訳「ゴッホ この世の旅人」講談社学術文庫
マンフレート・イン・デア・ベーク著 徳田良仁訳 「真実のゴッホ。- ある精神科医の考察」 西村書店
米国精神学会編 高橋三郎、大野裕、染谷俊幸 訳「DSM-IV-TR。精神疾患の分類と診断の手引き 新訂版」 医学書院
樋口輝彦、神庭重信編 「双極性障害の治療スタンダード」 清和書店
ブライアン・P・クイン著 大野裕監訳 岩坂彰訳「「うつ」と「躁」の教科書」紀伊國屋書店
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