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作話てんかん(代理によるミュンヒハウゼン症候群)

内容

「ミュンヒハウゼン男爵」
ギュスターヴ・ドレ

「母親はつねに正しい、と人には教えているし、また、そのように教えるべきだと信じている。しかし、母親が間違うときには、身の毛がよだつほどの間違いをおかすのである。そのことはきちんと認識すべきだ」

ロイ・メドー「児童虐待の奥地」

「人類は、はるか昔から嬰児殺しを繰り返してきたのである。嬰児殺しが起こりうるという冷厳な事実をわれわれは受け止める必要がある」

ロイ・メドー「作話てんかん」

「いかなる子どもも、信頼できる人間によって無条件に愛される権利を有する。私を生んだ女性は「母親」と呼ばれるに値しなかった。彼女は子育てを許されるべきではなかったのだ」

メアリー・ブライク「母が私を病気に仕立てた:代行性ホラ吹き男爵症候群を生き抜いた子どもの物語」

「現在の子どもたちも神聖な追憶をもつようになる…さもなくば生きた生活が中絶してしまうからである。少年時代の追憶から得た神聖な、貴重なものなしには、人間は生きていくことすらできない…追憶は、あるいは苦しい悲しいものでさえあるかもしれないけれど、しかし過ぎ去った苦痛は、後日魂の聖物になるものである。人間というものは概して、過去の苦痛を愛するように創られている」

ドストエフスキー「作家の日記 1877年7月・8月 1-1」米川正夫訳

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冤罪てんかん患者

 いままで何度も、てんかんの診断に目撃証言が大切なことを申し上げてきました。実際、てんかん発作の有無も発作型も目撃者の言葉だけを頼りに推定されることが少なくありません。現代技術の粋を集めた高価な検査機器より目撃者の一言の方がてんかん診療には圧倒的に重要なのです。

 しかし、目撃証言によるてんかん発作診断には大事な前提条件があります。目撃者がみずから目撃したことを嘘いつわりなく話してくれている、ということです。

 もちろん、通常は、それを当然のこととして診療がなされています。

 なぜ、そんなことが看護婦さんの教科書にまで書かれるようになったのか、経緯はわかりません。しかし、さすがに最近の看護師さんの教科書には、そんなことは書かれていないようです。

 しかし、万が一、目撃者が正直に話してくれていなかったらどうなるでしょう。それも、意図的に嘘の証言がなされていたら?

 もし、何らかの意図で嘘の証言をする人間がいて、その人間が並べ立てる嘘八百を医者が真に受け、てんかん発作の診断をしたらどんなことになるか。容易にご想像いただけると思います。冤罪によって有罪を宣告された「犯罪者」のように、嘘の証言によって「冤罪てんかん患者」が仕立てあげられることになります。「冤罪てんかん患者」さんにとってはもちろんのこと、医療関係者にとっても、これは悪夢のような状況です。

 しかし、残念ながら、それが現実に起こりうるのです。

 その悪夢を呼び寄せるのが、今回お話する、捏造され、偽造されたてんかん、作話てんかんです。

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ミュンヒハウゼン男爵

 しかし、作話てんかんのお話をする前に「ホラ吹き男爵症候群」という奇妙な症候群について、すこし触れておきたいと思います。

 ただし、ホラ吹き男爵症候群というのは俗称です。医学書を開いても、そういう名前の症候群はでてきません。正式名は「ミュンヒハウゼン症候群」といいます。

 病名にあらわれるミュンヒハウゼンというのは18世紀ドイツに実在した男爵の名前です。フルネームはヒエロニュムス・カール・フリードリッヒ・フライヘルト・フォン・ミュンヒハウゼンHieronymus Karl Friedrich Freihert von Munchhausen。(以下、岩波文庫のビュルガー編「ほらふき男爵の冒険」を翻訳された新井皓士氏の解説を引用させていただきます)。ボーデンヴェルダーに1720年11月に生まれ、1797年2月に76歳で没した18世紀ドイツの貴族です。18歳の時、男爵はブラウンシュヴァイツ家の公子アントン・ウルリヒ公につきしたがってロシアに赴きました。ウルリヒ公がロシアの皇女のもとに婿入りすることになり、ロシアに随行したのです。そして、ロシアに創設されたブラウンシュヴァイク騎兵連隊の旗手となります。その後、中隊指揮官に任命され、1739年の対トルコ戦争にも参加します。そして、ロシア軍の騎兵大尉にまで昇進しました。しかし、30歳の時、ドイツに帰郷して、結婚、その後40年以上、みずからの所領で暮らしました。そして、その間、座談と狩猟の名手という評判を得ました。

ギュスターヴ・ドレ
「ミュンヒハウゼン男爵物語」

 このミュンヒハウゼン男爵がまだ存命中の1780年代、ベルリンで「Mーh-s-の物語」という笑話集が「おもしろ文庫」の一冊として出版されます。「ポーランドの雪原で我が輩は道に迷ってしまった。夜が更け、仕方なく、雪の上に突きでている杭に馬をつなぎ、夜を明かすことにした。翌日昼に目覚めると、太陽がさんさんと降り注ぎ、雪は溶け、雪原はかき消えていた。そして、我が輩は墓地で寝ていることに気づいたのである。頭上からは、馬のいななきが降りおちてきた。みると、我が輩の馬が、教会の塔の十字架に手綱で吊り下げられ、助けを求めていた。前の夜、雪原の中で杭とみえたものは、じつは、教会の十字架だったのである。教会が隠れるぐらい降り積もっていた雪が一晩のうちに溶け、馬が教会の てっぺんから吊り下げられたという次第だ。我が輩は短銃で手綱を撃ち、馬を教会から解放してやった」

 このようなほら話がロシア、ポーランドを舞台に延々と続きます。「M-h-sー」とミュンヒハウゼン男爵を暗示する表題がついていますし、ミュンヒハウゼン男爵自身が著者ではないかとの説もあったようですが、今に至るも、この本の著者は確定していません。少なくとも話の内容は男爵の座談とはあまり関係がないようです。ドイツで昔から流布していた民間伝承のほら話がほとんど なのです。それを知る人ぞ知るミュンヒハウゼン男爵の冒険談ということにして、何者かが一冊の本に仕立てた、ということのようです。

 数年後、「Mーh-s-の物語」は英訳され、「マンチョーゼン男爵の奇妙きてれつなロシアの旅と出征の物語 Baron Manchausen's Narative of his Marvellous Travels and Campaigns in Russia」というタイトルでロンドンにおいて出版されます(Rudolf Erick Raspe The surprising adventure of Baron Munchausen)。英訳したのは詐欺師的傾向のあったドイツ人鉱物学者、ラスペです。この英訳本はイギリスで評判をとり、出版の翌年には新たなほら話がつけ足され、第二版が出版されます。そして、7版まで版を重ねました。こうして、ミュンヒハウゼン男爵は「ほらふき」としての国際的名声をえることになったのです。

 2年後、詩人のゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが、ラスペの本をこんどは英語からドイツ語に翻訳します。その際、さらに新たに話をつけ加えています。

 たとえば、ベーコンの脂身で数十羽の野鴨をとらえる話です。

ギュスターヴ・ドレ
「ミュンヒハウゼン男爵物語」

 犬の引き綱に脂身を結わえ、湖を泳いでいる野鴨に放り投げると「一番近くのカモがスルスル泳ぎ寄りパクリと呑んだ。続いて他のカモどももこいつの例にたちまち倣ったのであります。なにしろ結わえてあるのは脂身スベスベの奴ですからして、全然咀嚼消化されずに尻からツルリと出る。すると次のカモがそいつをパクリとやる。するとまたツルリ、というわけで…ひもに通した真珠のように、カモさんたちは数珠つなぎになってくれたのであります」

 それをいそいそと引き寄せ、数十匹のカモを吊り上げた、といった類の駄法螺話です。話の舞台も、ポーランド、ロシアに加え、トルコ、エジプト、セイロン、北米と世界中にひろがり、果ては、月世界にまでホラ吹き男爵は足をのばします。

 18世紀末に独英2カ国で出版された「ホラ吹き男爵」の物語は評判を呼び、すぐに、海賊版も数多でるほどでした。19世紀にはいると、さまざまな言語に翻訳され、多くの作家がさらに加筆訂正して出版、児童書にまで翻案されました(日本でも高橋健二訳が児童書として出版されています(ミュンヒハウゼン著 高橋健二訳「ほらふき男爵の冒険」 偕成社文庫)。20世紀にはドイツ、ロシアなどで何度か映画化され、ファミコンのロールプレイイングゲーム(PRG)にまでなっています。こうして、西欧では「ミュンヒハウゼン(マンチョーゼン)」の名は世界を股にかけて旅する大ボラふきの代名詞となったのです。

 そして、20世紀半ば、このほら吹き男爵の名前を冠した病気まで現れることになります。

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ホラ吹き男爵症候群(ミュンヒハウゼン症候群)

 「1951年3月16日、ロンドンのミドルセックス病院精神病態観察病棟にトーマス・ビーチズと名乗る47歳の男がハロー病院から転送されてきた。男は転院の3日前、3月13日にハロー病院に腸閉塞の疑いで入院、手術を受けていた。開腹術をうけたのであるが、腸管も含め、腹腔内には何の異常も認めなかった。術後、男は病棟看護婦にくってかかるようになった。麻酔をかけられている間に看護婦が勝手に自分の財布をいじったというのである。そして、ついには、けんか腰になり、即座に退院すると息巻いた。暴力をふるううえ、開腹後一日しかたっていないのに、歩いて病院をでていこうとするので、精神状態を観察するため、この男は我々の病棟に転送されてきたのである。

 トーマスは分別もあり、言うことにも結構説得力があった。

 そして、腹壁には手術痕と思われる歳を重ねた瘢痕組織の塊が累々と盛り上がっていた。

 かれの説明によれば、1942年、商船に乗っていて、日本軍の魚雷攻撃を受け、腹部に複数の傷を負ったということであった。その後、日本軍の捕虜となり、1945年までシンガポールに抑留され、その間、腹部の複数の瘻孔から便が漏出したとのことである。終戦で解放されたのち、トーマスはフリーマントル病院に入院、瘻孔を閉鎖する手術を7ヶ月間に11回受けた。その後、当院転院4日前までは、海で過ごしていたということであった。

 しかし、話の内容が「ホラ吹き男爵」的特徴を有するため、かれの行動について、つっこんだ調査がなされた。すると、8日前、まだ海の上にいたはずのかれがロンドン、バルハム地区のセント・ジェームス病院に腹痛を訴えて入院していたことが判明した。さらに、一年前にも、トーマスは同じ訴えで同じ病院に入院していた。

 そのうえ、1943年、シンガポールにいたはずのこの男は、当院に入院していたことが判明した。右下腹部瘻孔からの排膿を認め、入院したのである。当時、彼は『魚雷攻撃を受けた際にできた古傷がはじけた』と主張していた。

 しかし、同時に、トーマスはつじつまの合わない説明もしていた。入院前、反社会的精神病質としてシェンリー病院に転送され、2ヶ月間経過観察がなされた後、退院したというのである。そのシェンリー病院の調べで、この男が長年にわたって反社会的行動を繰り返し、犯罪行為により三度起訴されていることが判明している。さらに、2度、ウェストパーク精神病院に収容されていた(そして、2度とも、逃亡)。

 また、この男は1949年6月23日、ノーフォーク・ノーウィッチ病院にも入院していた。病名は、やはり、急性の腸閉塞である。この病院では、33年間英国空軍に籍をおき、1942年にはドイツのマンハイム上空で撃墜されたと話していた。撃墜後、8回の腹部手術と3回の消化管吻合術が必要になったというのである。ここでは、モルヒネ、点滴、胃内吸引による治療を受けたが、開腹術を拒否、制止を振り切って、3日後、退院している。

 結局、今回は何ら身体的異常を認めず、転院3日後、3月19日にトーマスは退院した」

 これは、リチャード・アッシャーがランセット誌に「マンチョーゼン症候群Munchausen's syndrome」として1951年に報告した症例の概略です。第1例目のこの男は、七転八倒する腹痛を訴えて次から次へとさまざまな病院に出現、その迫真的演技で開腹術を必要とする重篤な急性腹症を起こしているかのように医者に錯覚をおこさせていたのです。そして、実際、開腹手術を何度も繰り返し受けていました。腹壁の複数の手術痕はその「勲章」でした。さらにこの男は架空の病歴をでっち上げてそれらの症状を説明していました。日本軍の捕虜になったことも、ドイツ軍に撃墜されたこともでたらめの作り話だったのです。

 アッシャーはこの男に加え、同じように腹痛、嘔吐、下血などの症状をでっちあげ、繰り返し開腹術を受けていた女性症例2例を提示しています。そして、さまざまな場所(病院)に足跡を残し、作り話を吹聴して回る、この奇妙な症例の1群を、世界中を旅して回るホラ吹き男爵に敬意を表して「ミュンヒハウゼン(マンチョーゼン)症候群」と呼ぶことを提唱しました( Asher R. Munchausen's syndrome (1951) Lacet 1:339-41。Munchausenは本来Munchhausenとドイツ語で表記すべきですが、ロンドンでラスペが本を出版した際、ミュンヒハウゼン男爵の名前からウムラウトを省略し、さらにhも一つ取り払っていました。このため、英語圏ではマンチョーゼンMunchausenという綴りが定着しました。アッシャーもそれを踏襲しているわけです。そして、かれの論文の後、英文ではマンチョーゼン症候群Munchausen syndromeという表記が一般的になります。こうした表記上(発音上)の問題がある上、日本ではこの男爵の名前から「さまざまな場所を転々とするホラ吹き、大口叩き」を連想する方も少ないでしょうから、以下、この症候群をホラ吹き男爵症候群と呼ぶことにします)。

 最初に診察したときから「ホラ吹き男爵症候群」と見抜くのは不可能だ、とアッシャーはコメントしています。それほど、患者たちの演技と嘘は巧妙で、真に迫っているのです。そのうえ、医者のほうも、自分の体を切り刻んでもらうために、症状をでっち上げ、迫真の演技をしてみせる、そんなばかげた患者が自分の目の前に現れるとは夢にも思っていません。簡単にひっかかってしまいます。

 ただし、複数の手術痕(とくに、腹壁)、けんか腰で予測しがたい行動様式、訴えられる症状と身体的徴候との不一致などが、ある程度、診断の参考になるかもしれない、とアッシャーは指摘しています。論文に書かれた3例は急性腹症の疑いで開腹術を受けていますが(急性腹症型)、喀血、吐血があるように見せかける急性出血型、激しい頭痛、意識障害を演出して開頭術を受ける神経型など、ありとあらゆる症状、病気を騙って病院に出没するとアッシャーは解説しています。

 この症候群の最大の謎は、動機です。

 何らかの利得を目的とする詐病と違い、医者をだまし、自らの体を切り刻んでもらっても、普通に考えれば、患者たちにとって、なにも得るものがありません。

 強いていえば、患者を演じたいという欲求、患者として同情され暖かな介護を受けたいという欲求、あらゆる人間を騙しつくしたいという狂おしい欲求が満足されるぐらいです。嘘をつくために嘘をついているとしかみえないのです。

 そして、その「嘘をつく情熱」がでっちあげられた症状や捏造された病歴に迫力を与えます。患者たちはどうやら四六時中とりつかれたように医療機関を騙すことを考えているようです。その「努力」のおかげで、騙すことにかんして彼らは一種の「天才」となりおおせているのです。通常の医療関係者は医者も含めてこの「天才」には太刀打ちできません。嘘を見抜くことができず、内心、何かおかしいと思いながら、信じてしまい、振り回されることになります。

 この患者たちの行動様式は、詐病などの虚偽性精神疾患とは一線を画する病態の存在を示唆しています。アッシャーがこの記念すべき論文を書いたのも、一つの症候群として捉えることが診断も含め臨床的に意味のあることであろうという考えからでした。

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「ホラ吹き男爵症候群」その後

 アッシャーの論文以前にも似たような症例の報告はあったようですが、あまり注目されることはありませんでした。ところが、ほら吹き男爵を引き合いに出したことが功を奏したのでしょう、アッシャーの論文は注目を集めました。そして、この論文以降、「ホラ吹き男爵症候群」の症例報告が相次ぎます。

 16年後の1967年、米国医学雑誌JAMAの総論でアイルランドたちは、アッシャーの報告以後、英語論文29編に59例が報告されていると記しています(Ireland P, Sapira JD, Templeton B.(1967)Munchausen's Syndrome: review and report of an additional case. Am J Med Associate 43:579-92)。

 国別でみると英国からの報告が66%と圧倒的に多く、ついで、米国、フィンランド、スコットランド、オーストラリア、カナダの順です。

 男性患者が女性患者より圧倒的に多く、約3倍です。年齢は19歳から62歳、平均39歳ですが、この「年齢」はホラ吹き男爵症候群が疑われた時点のもので、症状をでっちあげ、病院を受診するようになったのはそれよりずっと前、おそらくは成人に達してまもなくのことだろうと推定されます。

 入院回数は平均で24回。しかし、アイルランドたちが報告している37歳の黒人男性は40回入院し、32回救急外来にやってきていました。さらに、178回入院したという53歳男性が英国から報告されていて、おそらくはこの時点での「ギネス記録」と思われます。

 報告がなされている59例中36例(61%)が開腹術を(それも多くは複数回)受けていました。一方、7例(12%)には頭蓋骨穿頭孔が(これも複数)認められました。9例(15%)が吐血・喀血、8例(14%)が発熱、4例(7%)が血尿を症状としてでっち上げ、訴えていました。さらに、34例(58%)は医療関係者の制止を振り切って退院しており、18例(31%)は何らかの形で警察のやっかいになっていたことが判明しています。ほぼ、アッシャーが記載した行動パターンどおりです。

 患者の精神構造についてさまざまな検討がなされていますが、症例がある程度集積されたこの時点でも、明確な結論はでていません。

 少なくとも、患者たちが反社会的性格を有していることだけはたしかなようです。社会秩序からはみだしたところで生活しており、自分勝手で、他人へ迷惑をかけないようにしようとする配慮がみられません。このため、交友関係を形成、維持することもできません。怒りっぽく、気分屋で、反抗的で、自尊心や羞恥心ももちあわせていないようにみえます。そして、あてどなく、独りで、放浪して回ります。

 警察にやっかいになることが多いということも、この症候群の患者たちの反社会的性格を物語っています。しかし、犯罪内容は、しみったれた盗み、酔っぱらいによる迷惑行為、といった軽犯罪がほとんどのようです。入院させられることを狙って犯罪をおかすことさえあります。

 こうした反社会的性格は、小児期の不適切な成育環境に起因しているのかもしれません。親から拒絶され、否定され、貶められ、十分な愛情や安心感を与えられず、きちんとした親子関係が築けなかったことが異常行動の一因として、一応、推定可能です。実際、「ホラ吹き男爵」的行動は、自らを認めてもらおうとする挑発行動にみえないこともありません。反社会的行動、自己破壊的行動も、子ども時代から延々と続く、耐え難い不安を和らげる手段なのかもしれません。しかし、ほとんどの患者は家族との接触が途切れており、過去について本人が語る内容も、ほとんどが眉唾物です。信頼のおける生育歴情報がえることができません。ですから、本当に小児期に問題があったのかどうか 確認のしようがないのです。

 知能は平均か平均以下ですが、何らかの器質性脳障害を有しているわけではなさそうです。ロールシャッハなどの性格検査では一定した結果がでていません。しかし、「きわめて情緒不安定な精神病質者」で、「攻撃的で落ち着きが無く、注目されることを執拗に望み」、「返事は逃げ口上的」で、「気分の上下動が激しい」といった性格特徴は多くの患者に共通して指摘されています。

 「ホラ吹き男爵症候群」の異常行動パターンを何とか矯正しようと、さまざまな努力がなされました。しかし、どれもうまくいっていません。うまくいかないのは「治療」自体が行えないからです。もともと、どの患者も「治療」を望んでいません。そして、たいていは「治療」がはじめる前に行方をくらましてしまいます。

 万が一「治療」することができても、結果は思わしくないようです。たとえば、精神病院に入院させ、カウンセリングが繰り返しおこなわれた女性患者の1例が紹介されています。もういいだろうと外泊を許可したところ、この女性はすぐに姿をくらましました。そして、次から次へとさまざまな病院に出現、もちまえの演技力でふたたび「ほらふき男爵的」入院を繰り返したのです。

 カウンセリング以外にも、睡眠療法、インシュリン誘発性昏睡療法、電気ショック療法、そして、ロボトミーまで、さまざまな試みがなされています。しかし、患者たちから「入院願望」を消しさることに成功した「治療」はありません。

 しかし、あきらめてはならない、とアイルランドたちはコメントしています。人の手を借りて自分の体を傷つけようとする不幸な人間にたいし、医療機関から閉め出すだけで、こと足れりと考えてはならない、というのです。それでは、カップとベルだけを与え、社会からハンセン氏病患者を隠蔽していた中世暗黒時代となんらかわるところがない、とかれらは警告しています。中世の暗黒時代に戻らないためには寛容と忍耐、そして、長期にわたる粘り強い経過観察が必要で、そのためには、精神病院に入院させ、監視下におくことぐらいは最低限試みるべきではないかとアイルランドたちは提唱しています。

 しかし、アイルランドたちの総論が書かれてから半世紀以上たっているにもかかわらず、治療に関しては進展がみられていません。

 たとえば、2002年にターナーとリードがランセット誌に書いた「ほら吹き男爵症候群」の総論(Turner J, Reid S. (2002) Munchausen's syndrome. Lancet 359: 346-9)をみてみると、三徴として病気の捏造、病的虚言(幻想性虚言症)、遍歴癖があげられていて、症候群の定義そのものはかわっていません。

 しかし、治療予後にかんしても、あまり変わりばえしません。患者たちの異常行動ははなから管理不能と考えられ、対策としては、ブラックリストを作成し、病院に受診できないようにしているところがほとんどです。アイルランドたちの理想論を実行に移すのはなかなか難しいようです。

 ちなみに、国際疾病分類第8改訂版(ICD-8)では「ホラ吹き男爵症候群」が「症状あるいは機能不全を意図的に作成したり偽装する」虚偽性精神障害の一つとして位置付けられています。すなわち、「疾病や機能不全がないにもかかわらず、繰り返し、執拗に症状を偽装し、そのためならば、自ら、切り傷、擦り傷を作って血を流したり、服毒することさえ」あり、「苦痛の模倣、出血などの訴えが説得的で執拗で、理学所見とはあわないにもかかわらず、多数の病院で無用の検査や手術がなされることになる」症候群ということになっています。一方、米国精神医学会「精神疾患の分類と診断の手引き」DSM-IV-TRでも虚偽性精神障害の一つと位置付けられています。「病人を演じるという内的な(そして病的な)欲求がその動機となっていて、詐病のように、そのことによって経済的な利益を得たり、罪から逃れようとする意図は認められないもの」という定義がなされています。

 ただし、有名な割には、「ホラ吹き男爵症候群」はさほど多い病態ではないようです。虚偽性精神障害の約一割を占めるに過ぎないと推定されています。

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代理によるミュンヒハウゼン症候群
(代行性ホラ吹き男爵症候群)

 ホラ吹き男爵症候群」はやっかいな病気です。医療側は多大な迷惑を蒙りますし、医療費が無駄に使われることになります。そして、本人も「傷つき」ます。

 しかし、それでも、傷つくのが本人だけなら、まだましかもしれません。

 というのは、中には、病院とのつながりを保ち、同情的な医療スタッフに囲まれ、献身的な親という賞賛の言葉を勝ちとろうとして、自分の子どもを利用しようとする人間がいるからです。母親が(まれに、父親や継母が)自分の子どもをだしにして「ホラ吹き男爵症候群」的欲望を満足させようとするのです。これが「代理によるミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる「病態」です。ただし、この奇妙な症候群名は、元来、「子どもがホラ吹き男爵症候群を代行させられている小児虐待症候群」という意味で提唱されていますので、ここでは、「代行性ホラ吹き男爵症候群」と呼ぶことにします。

 この症候群を最初に記載したのは、アッシャーと同じ英国人で、ロイ・メドーという小児科医です。論文が発表されたのもやはりランセット誌で、1977年のことです(Meadow R(1977).Munchausen syndrome by proxy: the hinterland of child abuse. Lancet 2:343-5)。

 メドーはこの論文で症例を2例呈示しています。

 1例目は6歳女児です。腐敗臭を放つ血尿を繰り返す奇病に罹患しているというふれこみで、この女の子は英国リーズにあるメドーが勤務していた病院の小児腎臓科に紹介されてきました(メドーは若い頃、発達精神医学にも興味を抱いていたようですが、論文発表当時は、小児腎臓学を専門としており、英国小児腎臓学会の創設メンバーの1人にもなっています)。

 「母親は乳児期早期からこの女児のオムツに黄色い膿が付くことに気づいていた。そして、生後8か月からは尿路感染症が疑われ、抗生物質が間歇的に投与されるようになった。しかし、尿路感染症はいっこうに軽快しなかった。

 こうして、3歳からは、7種類の抗生剤がかわるがわる持続的に投与された。抗生剤のせいで薬疹を生じたり、真菌症(抗生剤によって細菌が死滅した隙間をぬってカビ(真菌)が増殖する疾患)に罹患したりする羽目に陥ったが、相変わらず、腐敗臭のある血尿が、発熱、下腹部痛を伴ってみられた。外陰部痛、帯下が認められることもあった。

 女児の両親は30代後半で、父親は夜勤勤務が多い職に就いていた。母親も尿路感染症に罹患したことがあるが、3歳の弟は健康だった。

 女児は、紹介の時点で、すでに、2つの病院で、尿路造影を2回、排尿時膀胱尿管造影を1回、麻酔下の内診を2回、膀胱鏡検査を2回受けていた。しかし、異常は一切、認められなかった。強力な抗生剤が投与されたが、病勢は強まるばかりだった。

 担当医たちは困惑していた。原因がわからないばかりではない。膿性血尿がみられた数時間後に、まったく正常な尿が排泄されるということが幾度となく繰り返されていたからである。

 紹介されてきたとき、女児は健康そうで、発達も正常であった。

 まず疑われたのが、尿道あるいは膣に開口し何らかの感染を繰り返している嚢胞、もしくは、異所性尿管だった。そこで、泌尿器科の協力も得て、膿尿で来院した直後に徹底的に検索しようということになった。

 しかし、うまくいかなかった。

 膿尿のたびに3度検索が行われたが、感染源は特定できなかった。さらに、単純骨盤レントゲン撮影、膣造影、尿道造影、注腸造影、恥骨上膀胱穿刺、膀胱カテーテル検査、尿培養、剥離性尿路上皮細胞診が行われたが、やはり、原因はわからなかった。

 この間、両親はきわめて協力的だった。とくに、母親は女児が入院している間中、ずっと付き添っていた(かつてのイギリスでは入院するときは子どもでも1人のことも少なくなく、日本のように入院している病児に四六時中保護者が付き添うということはめずらしいことだったようです)。母親は女児のことをつねに気にかけ、愛情をこめて接していた。しかし、女児の病気の原因についても、医者に負けないくらい、気にかけていた。病因検索への母親の飽くなき情熱は、女児本人への気がかりを回るほどだった。

 膿尿、発熱のクリーゼのたびに緊急入院を繰り返し、検査のために緊急麻酔が施されたことまであった。入院は週末の休みに多い傾向がみられた。

 問題は回答不能にみえた。つじつまの合わないことが多かった。異常尿は分単位で正常尿に戻った。そのうえ、膿尿の起炎菌がくるくる変わった。早朝尿からは大腸菌が検出され、その後、数回、正常尿が続き、夕方の尿からは大腸菌とはまったく異なるプロテウス菌や腸球菌が検出された。

 この時点で、母親の心性や行動様式が、以前診た症例(症例2)の母親に類似していることに気づかれた。そして、母親が申し立てる病歴はすべて嘘ではないかという疑念が生じた。実際、よくよく検討してみると、母親が管理していた尿だけに異常が認められていたのである。

 仮説を検証するため、入院中、ベテラン看護師が排尿時に付き添い、排尿直後から尿検体を厳重な監視下におくようにした。すると、まったく正常な尿が何日も排泄された。そして、4日後、監視の手をゆるめた。排尿時、母親だけが付き添うようにしたのである。あるいは、排尿後しばらく、母親の手許に女児の尿を残すようにした。すると、母親は血に染まった、粘膜の破片の浮いた細菌尿をもってあらわれた。ついで、ふたたび、排尿と尿検体を看護師の厳重な管理下においたところ、尿所見は正常に復した。7日間に女児は57回排尿し、うち、看護師の監視下に採尿された45回の尿はまったく正常であった。一方、母親の手にゆだねられた12回の尿は血を含み、さまざまな細菌が混入していた。

 この間、女児の母親は月経中だった。母親を説き伏せ、母親の尿も検査し、警察の鑑識課に女児の血のまじった尿と母親の尿の分析を依頼した。すると、母親にしかみられないはずの赤血球酸フォスファターゼBb型が女児の血尿から検出された。

 膿混じりの女児の血尿が母親により偽装されたものであることが明白となったのである。

 しかし、それまでに、母親の偽造によって女児は12回も入院させられていた。腎盂造影膀胱造影、注腸造影、尿道造影などのレントゲン検査も繰り返し行われていた。さらに、麻酔下の検査を6回、膀胱鏡を5回、8種類の抗生剤を含む有毒な薬による不愉快な治療をうけ、尿道カテーテル、膣ペッサリーが施され、抗菌クリーム、抗真菌クリーム、エストロゲンクリームが塗布されていた。尿培養が150回おこなわれ、16医療機関を受診させられていたのである。

 結局、母親は嘘でかためた人生を送っていたということになる。そこで、精神科に紹介されたが、娘の尿に偽造工作していたことを母親は頑なに否認した。

 母親が精神科に通っている間に、女児は「健康」になり、何の症状もみられなくなった。「リーズに通うようになって、娘はすごくよくなった。私たちの願いは聞き届けられたのだ」と両親は喜んだ。

 その後、この母親の尿路感染症の病態がかなりひどいことが判明した。しかし、自分の尿路検索の際にも、体温表を改ざんし、紅茶を入れたカップで体温計を暖めたりしていた。

 この女児は夫婦が長らく待ち望んでやっと生まれた子供だった。しかし、出産後、夫の愛情が自分から子どもに移ってしまったと母親は感じていたようである」

 「この男児は生後6週目から高ナトリウム血症をともなう発作を繰り返していた。突然、嘔吐し、傾眠傾向に陥り、病院にやってきたときには血清ナトリウム濃度値が160mmol/Lから175mmol/Lにまで異常に上昇していた(血清ナトリウムは139mmol/Lから146mmol/Lぐらいまでが正常値で、160mmol/L~175mmol/Lというのは普通では考えられない高値です。血清ナトリウム濃度が高まると細胞外の浸透圧が高まり、細胞内の水分が吸い取られ、細胞膜機能を維持できなくなります。このため、脳機能を含めて、体全体に変調をきたし、不隠、易刺激性、傾眠傾向、異常運動がみられるようになります。そして、筋肉の異常な攣縮をきたすようになり、死に至ることもあります。原因としては、経口摂取不能による水分摂取不足、下痢、嘔吐などによる水分喪失、ホルモン異常、そして、塩分の過剰摂取が推定されます)。尿中にも過剰な塩分が検出された(通常以上の塩分が排泄されたということですから、ホルモン異常や腎臓のナトリウム排泄機能低下によって尿中にナトリウムを排泄できなくなり、そのために高ナトリウム血症になっているわけではないことを示唆しています)。

 男児は健康な両親から生まれた3番目の子どもで、嘔吐発作の間は、健康そうで、発達も正常だった。それまでに、3つの医療センターでレントゲン検査、生化学検査を含む徹底的な検索が行われていた。しかし、嘔吐発作、高ナトリウム血症の原因を突きとめることはできなかった。少なくとも「高ナトリウム発作」以外のときは、内分泌機能も腎機能も正常だった。塩分を負荷してもナトリウムはきちんと尿に排泄され、高ナトリウム血症に陥ることはなかった。

 にもかかわらず、発作は頻繁に起こるようになった。しかも、重篤化した。

 生後14か月の時点で、高ナトリウム血症をともなう発作が、在宅時にのみ起きることに気づかれた。実際、母親が付き添っていない長期入院では、発作は起きなかった。しかし、週末、母親が面会にやってくると、高ナトリウム発作が起きた。

 それまでの検査結果から、嘔吐時、男児に大量の塩分が負荷されているのではないかという疑念が浮かびあがってきた。そして、時間経過から、母親が怪しいということになった。しかし、彼女がどうやって大量の塩分を男児に飲ませることができたのかは不明である(正常値上限を1mmol/L上回る146mmol/Lに血清ナトリウム濃度を上昇させるだけにも、塩20グラムを要する。これほど大量の塩を乳児に飲ませるのは至難の業である)。ただし、母親は看護師として働いた経験があるので、胃管チューブや注腸の経験はあったものと思われる。

 小児科医、精神科医、福祉課職員が対策について協議を開始した。しかし、そのさなか、ある夜、男児は極度の高ナトリウム血症に陥り、虚脱状態で病院に担ぎ込まれ、死亡した。病理解剖では「なんらかの化学物質を摂取したためと思われる」胃壁の腐食性変化が認められた。その後、担当医に子どもを診てくれたことへの感謝の意を表したのち、母親は自殺した。

 彼女も家庭を大事にする面倒見のいい母親とみられていた。父親は交代勤務で働いており、家庭での影が薄く、母親のように知的とはいえなかった。学生時代、母親はヒステリックと評判だった。そして、自身、けがで入院したとき、治癒しつつある傷を押し広げようとしたこともあった」

 いずれの例においても、自分の子どもの病状について母親が語っていたことは、嘘で塗り固められたでっちあげでした。しかも、その嘘は念入りに仕組まれたものでした。その念入りに仕組まれた嘘のために、症例1の女児は本物の病気とされ、「医療過誤」によって不愉快な検索や治療を受ける羽目に陥りました。そして、症例2の男児は高ナトリウム血症で何度も入院治療を受け、最後は死亡しました。

 この母親たちの行動様式、心性には共通点がみられる、とメドーは指摘します。病院に協力的で、職員に愛想がよく、子どもの病気の検索や治療に理解を示し、ときには、必要以上の検索、治療を求めてくることがあるというのです。病院に付き添う母親の中には、病院生活を苦痛に感じ、うんざりしてしまうものも少なくないのに、この二人の母親は自分の居場所を見つけたかのように病院内で生き生きと動き回り、病院職員が注目してくれていることに生き甲斐を感じているようにさえみえたのです。

 子どもの症状を大げさに言い立てるお母さんは少なくありません。しかし、それは、適切な治療が迅速にきちんと行われることを願ってのことです。ところが、この2人の母親が嘘までついて子どもの症状大げさに言い立てたのは、診断を誤らせ、間違った治療を行わせるためでした。そして、そのことによって、親切な職員が何かと心配してくれる小児科病棟という環境に居座ることを狙ったのです。さまざまな病院を訪れ、ありもしない子どもの症状を大げさに言い立てていたのも、それが目的でした。その行動様式、心性はホラ吹き男爵症候群のものと類似しています。しかし、この二人の母親はホラ吹き男爵症候群を自分の子どもに代行させていたのです。

 こうして、メドーはこのような症例を「代行性ホラ吹き男爵症候群(代理によるミュンヒハウゼン症候群Munchausen syndrome by proxy (MSbP))」と呼ぶことを提案しました。

 いうまでもありませんが、代行性ホラ吹き男爵症候群は一種の児童虐待です。しかし、そのやり口、執念深さ、計画性は、他の児童虐待にはあまりみられないもので、異質です。多くの児童虐待が、泣く子を黙らせるために体を揺さぶり、結果的に、脳挫傷を引き起こすといった反応性、無計画性の衝動行動であるのに対し、この症候群では、虐待行為が念入りに仕組まれ、しかも、延々と繰り返されます。この異様な症候群を単なる虐待の一亜型と捉えることには違和感を覚える、とメドーはコメントしています。そして、こうした症例をみると、親が申し立てる子どもの病歴や検査所見を疑惑の目でみなくてはならなくなる、と嘆いています。母親はつねに正しい、と人には教えているし、また、そのように教えるべきだと自分は信じている、しかし、母親が間違うときには、身の毛がよだつほどの間違いをおかすのだ、そのことをきちんと認識すべきだ、と書いてメドーは論文を締めくくっています。

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代行性ホラ吹き男爵症候群の概略

 メドーの論文はアッシャーの論文以上に注目を集め、その後、代行性ホラ吹き男爵症候群の症例報告が相次ぎました。10年後、米国コロラド大学のローゼンバーグはそれまでに発表された英文論文からの117例を基に総論を書いています(Rosenberg DA (1987) Web of Deceit: a literature review of munchausen syndrome by proxy. Child Abuse Neglect 11:547-63)。そして、その後、小児虐待の本の中でもこの症候群について解説しています(Rosenberg DA (2001) Munchausen Syndrome by prosy. In Reece RM. Ludwig S Es. Child abuse; medical diagnosis and management 2nd Ed. Lippincott Williams & Wilkins, Philadelphia, p 363-83)。以下、ローゼンバーグが書いたこの二つの文章をもとに、この症候群の概略をみてみましょう。

 ローゼンバーグが集計した117例の中には、メドーの定義からはずれる症例も若干含まれていますが、これについては、坂井聖二氏が懇切丁寧な解説をされていますので、興味がある方は氏の著作をご参照ください(坂井聖二著 「子どもを病人にしたてる親たち:代理によるミュンヒハウゼン症候群」 明石書店)。

 ちなみに、ローゼンバーグは代行性ほらふき男爵症候群を次のように定義しています。

 「保護者またはそれに準ずる人間によって症状が捏造、偽造される小児疾患。捏造、偽造が隠蔽されて、真の原因がつかめないため、子どもは何度も繰り返し医学的検索、処置を受けることになる。保護者から引き離されると、子どもの症状、徴候は速やかに消失する」

 117例の男児と女児の数はほぼ同数でした。診断時年齢は0歳から20歳、発症(保護者による症状、徴候の捏造、偽造が始まったとき)から診断(症状、徴候の捏造、偽造の発見)までには数日から20年を要しています。日本も含め世界中のさまざまな国から報告されており、ある文化に特有な症候群というわけではないようです。

 (メドーたちによる英国での報告では、事故によらざる薬物中毒、窒息(この場合、代行性ホラ吹き男爵症候群的意図のもとに行われたかどうかは問いません)も含めた同症候群の年間発生率は1歳未満の乳児10万人当たり2.8人という推計がなされています("McClure RJ, Davis PM, Meadow SR, Sibert JR (1996) Epidemiology of Munchausen syndrome by proxy, non-accidental poisoning, and non-accidental suffocation. Arch Dis Child 75:57-61)。日本に当てはめると、0歳児だけで、毎年、30例前後がこの症候群の犠牲になっていることになります。さらに、メドーたちの報告では16歳以下の年間発生率が10万人にたいして0.5人と試算されており、これを日本に当てはめると、16歳未満の年間発生数は約107人ということになります。また、この論文では、兄弟がいる家庭の42%で他の子どもも犠牲になっており、偽造薬物投与でもっとも多く使われたのは抗てんかん薬だったとも報告されています)

 ローゼンバークの定義によれば、症状の捏造とは、子ども自身に危害を加えることなく症状をでっち上げることです。たとえば、起こしてもいないてんかん発作があたかもあったかのようにいいつのったり、メドーが報告した第一例のように、尿に細工を施して異常尿を排泄しているかのように見せかけたりすることです。これに対し、症状の偽造とは、直接子どもに危害を加えて症状を引き起こすものです。塩分を大量に投与して高ナトリウム血症を引き起こしたメドーの第2例目がこれに当たります。他に、下剤を飲ませて下痢を引き起こす、鼻と口を塞いで息が止まってしまったかのように見せかける、点滴ルートに便などの汚物を混入させて敗血症を発症させる、といった偽造工作が例としてあげられます。

 4分の1の例では捏造だけが、半数では偽造だけが行われていました。そして、残りの4分の1では捏造、偽造双方がなされていました。さらに、大半の例で、症状の捏造、偽造が入院中にもなされていました。

 捏造もしくは偽造された症状は多岐にわたります。もっとも多かったのは出血に関係するもので(血尿、下血、吐血、喀血など)、ついで、てんかん発作、中枢神経系機能低下、無呼吸、下痢、嘔吐、発熱、発疹の順で報告されています(1993年までに105種類の捏造・偽造症状が報告されています)。複数の症状が捏造、偽造されることもまれではありません。

 捏造、偽造の手法もさまざまです。出血にかんしてだけでも、尿などに血や染料を混ぜるといった単純なものから、ワーファリンのような血液凝固阻害剤を混入するといった手の込んだものまでいろいろです。てんかん発作についても、ありもしないてんかん発作があると訴えるものから、けいれんを誘発する物質や薬物を混入させたり、窒息させ、気絶させて、てんかん発作が存在するかのように装ったりするものまで、さまざまです。そして、嘘の訴えによって、子どもは病院を頻回に受診し、入院させられ、採血、導尿をはじめとする不愉快な医学的検索、医療処置を繰り返し受けていました。

 117例中10例が死亡していました。死亡率は9%ということになります。死因としては窒息が4例ともっとも多く、ついで塩分中毒(3例)、塩分以外の中毒(2例)で、1例は死因が不明でした。10例とも母親の腕の中で死んでいました。さらに、兄弟10名が不審死を遂げていました。兄弟2人が乳児突然死症候群(SIDS)で死亡している例もありました(メドーたちの英国での調査では、97例中15例において、兄弟(18名)が死亡していました。死亡した兄弟のうち5例はSIDSの診断を受けていました。この結果を踏まえさらなる調査が行われ、SIDSの一割前後がじっさいには代行性ホラ吹き男爵症候群によるものであると英国では推定されるようになっています)。

 死に至らないまでも、症状の捏造、偽造によってもたらされた後遺症に苦しめられる子どもは少なくありません。

 8%は何らかの機能異常をきたしていました。食道手術が繰り返し必要となった例や、消化管の機能異常をきたした例、精神障害(引きこもり、被害妄想、感情障害)が残存した例、関節が破壊されて機能しなくなった例、跛行を残した例、知能障害をともなう脳性麻痺が残存した例、皮質盲になった例などです。必要もないのに、開腹され、胃食道逆流防止術がなされた例も少なくありません。結腸切除、回腸造瘻術が行われた例もありました。さらに、栄養補給のために、胃瘻が造成されたり、経鼻栄養チューブをいれられたり、栄養補給のために心臓近くの中心静脈にカテーテルが挿入されたりしていました。

 加害者は母親(98%)がほとんどで、一部、継母(2%)もいました。看護師(27%)、医療事務(3%)、ソーシャルワーカー(2%)など医療関連の職業経験者が目立ちます。

 こうした母親たちには何らかの精神障害、性格異常が隠れているものと推定されます。しかし、心理検査では、この症候群に特徴的なパターンはみつかっていません。また、彼女たち全員に共通した性格プロフィールも認められていません。

 しかし、メドーが指摘したような特徴的な行動様式、心性はよくみられます。

 病院においては、医療関係者にも周りの人間にも愛想がよく、人なつこく、社交的な母親が多いのです。しかし、つきあいが深まると、とげとげしい、やっかいな、厚かましい性格が露わになります。にもかかわらず、一部の母親は世間から、病気の子どもを気遣う素晴らしい人間との評判を得ることがあります(米国では、模範的母親ということで、大統領に表彰された例もあります)。そのおかげで、有利な人間関係、福祉支援の恩恵にあずかっていることがあります。しかし、家庭生活では、情感のかよわぬ夫婦生活を送っていることが少なくありません。

 さらに、母親たちの10%は、メドーが最初に報告した2例のよう、自身、ホラ吹き男爵症候群に罹患していました。疑い例も含めると、約4分の1にホラ吹き男爵症候群的傾向が認められています。また、子ども時代、自身、虐待を受けていた母親も少なくありませんでした。

 母親たちは自分がやっていることを充分認識していました。それどころか、症状、徴候の捏造、偽造は緻密な計画の基に遂行されていました。明確な意志に基づく虚偽申し立てであり、虐待行為でした。二枚舌に包まれ、隠蔽されていましたが、子どもにとんでもない暴力をふるっていたことに変わりはありません。しかし、子どもの症状を捏造、偽造していたことを認めたのは15%にすぎません。7%は一部だけを認めています。そして、8%が起訴されていました。

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隠しビデオ記録診断

 このように、この症候群が疑われても、虐待者は容易に認めようとしません。したがって、確定診断のためには、何とか、捏造、偽造の証拠をつかむ必要があります。

 ところが、これが至難の業です。

 ある種の薬物が混入されているのであれば、血液の薬の濃度を測定すれば混入が証明できます。あるいは、こどもの尿に自分の月経血を混ぜているのであれば、血液型などさまざまな血液成分を分析することで細工を曝露することができます。しかし、そんなにうまく事が運ぶことはめったにありません。点滴ルートに涎を混入させて敗血症を起こさせている場合、血液をどれだけ調べても、細菌は検出されますが、涎の成分を検出することは不可能です。窒息させて、意識を失うてんかん発作を起こしているように見せかけている場合でも、現場を押さえる以外、証明する術はありません。乳幼児の窒息では、成人でみられるような顔面や頚部の出血斑、鬱血、あるいは抵抗のあとはほとんどみられず、外的所見のみで窒息と断定することはできません。

 もちろん、自分のやっていることを十分意識している人間が、虐待行為をみつけられるようなへまを、そう易々としでかすわけがありません。証明は困難をきわめます。

 子どもを母親から引き離してしまう方法だけは、確定のための有力な手段として残ります。母親がいなくなって「症状」が消えれば、彼女が嘘をついたり細工を施したりしていたことは明白です。しかし、母親は一時も子どものそばを離れようとはしません。引き離すためにはもっともらしい理由、もしくは、決定的証拠が必要です。ところが、そこで、証拠を得るのが難しいという出発点に戻ってしまいます。堂々巡りです。

 そこで、捏造、偽造を確認する有力な診断法として提唱されたのが、母子の行動を24時隠しカメラ、隠しマイクで監視し、ビデオ記録に残す方法です。

 隠しビデオ記録による代行性ホラ吹き症候群診断の先鞭をつけたグループの一つが、英国ロンドンのブロンプトン病院小児科、心臓胸部疾患部門のサウスオールたちです。もともと、かれらは乳児突然死症候群(SIDS)の研究を精力的にやっていました。以前から漠然と信じられていた未熟児の無呼吸とSIDSとの関連を明確に否定したのがサウスオールたちです(Southall DP, Rchards JM, Rhoden KJ(1982) Prolonged apnea and cardiac arrhythmias in infants discharged from neonatal intensive care units: failure to predict an increased risk for sudden infant death syndrome. Pediatrics 70; 844-51)。そうした研究の一環としてかれらは原因不明のチアノーゼを繰り返す乳児51例にたいし、呼吸運動、酸素飽和度、呼吸流速、心電図、脳波の長時間記録を行いました。ほとんどの乳児(45例)では、無呼吸が遷延するためにチアノーゼを起こしており、てんかん発作、上気道狭窄が原因のチアノーゼも数例みられました。

 ところが、中に1例、母親が自分の赤ん坊の鼻や口を塞いで、無呼吸を引き起こしている症例がいたのです(51例中1例ですから2%弱の頻度ということになります)(Southall DP, et a. (1987) Apnoeic episodes induced by smothering: two cases identified by covert video surveillance Br Med J 294:1637)。

 その乳児というのは、隠しビデオ診断施行時、1歳10か月の男児です。22歳の母親と51歳の父親の間に生まれた第3子でした。

 この男児は、生後3か月から突発的なチアノーゼのエピソードがみられるようになりました。そして、その後、1歳10か月まで、チアノーゼのエピソードが毎週のように起きるようになります。無数の検査が行われましたが、原因がつかめず、抗てんかん薬やアトロピンによる治療も行われましたが、チアノーゼのエピソードはなくなりませんでした。

 チアノーゼが始まるときの時の様子を母親に聞いても、要領を得ません。

 チアノーゼは子どもが寝ているとき始まるのですが、きまってそのときには母親が横についていないというのです。無呼吸に気づくのは、呼吸モニター装置の警報音が鳴ってからで、ですから、開始時の様子をみたことがないというのです。

 突発的チアノーゼがみられる乳児の疾患としては、なき入りひきつけ、睡眠時上気道閉塞てんかん発作などがあります。しかし、病歴、理学所見からみて、そうした疾患でチアノーゼが起きている可能性はなさそうでした。

 1歳8カ月に精査のため入院したときのことです。呼吸運動、心電図をモニター中にチアノーゼのエピソードがみられました。エピソードは常に母親と病室に2人きりの時に起き、そのたびに、ナースコールが鳴り、看護師が駆けつけました。みると、男の子は意識を失って真っ青になっており、看護師たちはマスクを鼻と口に当て、バッグで酸素を送り込みました。5分ほどで顔色が戻り、意識も回復しましたが、しばらくの間、男児はもうろうとし、そして、その後、眠りました。母親によると、揺りかごのほうから、がたがた音がするのでみたら、この男の子が真っ青になって意識を失っていた、ということでした。

 モニター記録をみると、チアノーゼのエピソードの直前まで、規則正しい呼吸波形が認められました。男の子がやすらかに眠っていたが窺われます。ついで、激しい体動を疑わせる記録が現れました。そして、それと同時に呼吸が停止し、脈拍が急激に上昇、酸素飽和度が徐々に下がっていきます。エピソードの直前、脳波には、てんかん発作を疑わせる律動波はみられていません。しかし、呼吸停止後しばらくして、脳波に脳機能低下を示唆する遅い波が出現、ついで、脳波は平坦化していました。

 モニター記録は、ふつうに眠っていた男の子が、突然、気道を塞がれ、何とか息をしようともがき、それでも、息ができないため、低酸素状態になり、脳機能が低下していく様を示していました。

 この時点で、母親が作為的にわが子を窒息させているかもしれないという疑惑が浮かびあがりました。

 そこで、警察への通報がなされ、病室に隠しカメラと隠しマイクが設置されました。カメラが捉えた映像はビデオに記録され、婦人警官が24時間態勢で監視することになりました。

 監視を始めて16時間後、揺りかごの横に座っていた母親が椅子を押しやり、揺りかごの上にかがみ込みました。そして、Tシャツを男の子の顔の上にかぶせ、鼻と口を塞ぎ、頭をマットレスに押しつけました。すぐに、男の子は目を覚まし、ものすごい勢いで、もがき、苦しみ始めました。婦人警官は看護師に通報、看護師が部屋に駆けつけました。母親は、子どもが目を覚まして叫んだので、あやしていたのだと弁解しました。しかし、映像がビデオに残っていることを告げられ、子どもを窒息させていたことを認めました。母親は逮捕され、子どもは保護されました。

 その後、この症例のことを知った小児科医から似たようなケース(生後6か月の女児)が紹介されてきて、れも隠しビデオ診断によって母親がわが子を窒息させていたことが判明します。この母親は精神科医を受診するという条件で、執行猶予2年の判決が下っています。

 このように、隠しビデオ記録による診断は代行性ホラ吹き男爵症候群診断にきわめて有効でした。

 さらに、隠しビデオ記録は代行性ホラ吹き男爵症候群の慄然たる側面も露わにしました。

 自分の子どもを窒息させる行為は、かつて、外傷が残らない「穏やかな虐待行為Gentle battering」と表現されていました。しかし、この「穏やかな虐待行為」の最中、隠しカメラは気を失うまで激しく手足をばたつかせる子どもの姿を捉えていました。子どもの気道といえども、完全に閉塞させるには相当な力を要します。しかも、意識を失わせるまでには70秒近く首を絞めている必要があります。相手が子どもであっても、人為的に窒息させるのは「穏やか」とはほど遠い行為だということを、隠しビデオ記録診断は改めて思い知らせたのでした。

 隠しビデオ記録診断はこのように母親の虐待行為発見に絶大な威力を発揮し、その後、世界中で行われるようなります。たとえば、アメリカのジョージア州アトランタにあるエモリー大学のホールたちは、代行性ホラ吹き男爵症候群専用の病室を用意しました。バスルームを除き、病室内の様子すべてが映しだされるよう隠しカメラを何台も設置し、音声も記録できるように隠しマイクもセット、24時間監視し、病室内の映像と音をすべてビデオに記録できるようにしたのです(Hall DE eta al. (2000) Evaluation of covert video surveillance in the diagnosis of Munchausen Syndrome by proxy : lessons from 41 cases.Pediatr 105:1305-12)。

 この特殊な病室での「診断」を求めて、1993年から1997年までの4年間に41例が紹介されてきました。そして、そのうち23例(56%)が代行性ホラ吹き男爵症候群と確定診断されました。そして、確定診断がなされた23例のうち、18例(78%)において隠しカメラや隠しマイクが活躍しました。57%では隠しビデオ記録診断以外に診断方法がなく、21%では隠しビデオ記録診断によって疑念が確実なものとなったのです。ただし、残りの22%では、隠しビデオ記録診断はあまり役立たず、他の方法で代行性ホラ吹き男爵症候群の確定診断に至っています。

 隠しカメラは母親たちがこどもの首を絞めたり、点滴ルートに自分の尿を混入させたり、胃瘻チューブから抱水クロラール(催眠薬)を注入したりする姿をはっきりと捉えていました。

 さらに、隠しマイクは、友人や親戚に電話でとんでもない嘘をついている母親たちの声を拾っていました。ある母親は、自分が望んでもいないのに、医者が手術をしたがっている、と電話で訴えていました。実際には、こどもが健康であることを分かってもらうために医者のほうがあの手この手で母親に説得を試みていたのです。もう1人の母親は家族に、子どもがてんかん発作を繰り返していると電話で報告していました。しかし、隠しカメラは子どもが一度もてんかん発作を起こしていないことを映し出していました。

 病室に誰かがいる間はとても子どもを気遣っているようにみえるのに、子どもと二人きりになると、途端に、子どもに何の関心も払わなくなる母親もいました。

 隠しビデオ記録診断で代行性ホラ吹き症候群が診断されたのち、主治医はソーシャルワーカー、警察官同席のもとに母親に「診断」を告げました。証拠を示し、彼女たちが子どもの病気を捏造し、演出し、偽造したと結論せざるを得ないと伝えたのです。それを聞いて45%の母親が罪を認めました。

 このように、隠しビデオ診断は母親の虐待行為発見に絶大な威力を発揮しました。

 しかし、当然のことながら、プライバシーの侵害ではないかという批判も浴びました。

 「母親をスパイするSpying on mother」という表題で、厳しい制限のもとで隠しビデオ診断を運用するよう求めるコメントがランセット誌に載り、論争が巻き起こったこともありますEditorial (1994). Spying on mothers. Lancet 343:1373-4)。隠しビデオ記録診断という「陰湿な診断方法」への違和感が批判の根底にはどうやらあるようです。医者が汚い手を使って親を訴えているというイメージでみられたのです。しかし、ホールたちはプライバシー侵害への懸念よりも子どもの命を守る方を優先するべきだと主張しています。隠しカメラは、自分を守ってくれるよう同意書を書くことのできない子どもたちを保護するために行われるのだ、というのです。もちろん、一人の医者が勝手に隠しカメラ、隠しマイクを設置することがあってはならないが、職種をまたがる複数の人間が同意するなかで行われるのであれば、隠しビデオ診断が濫用されることはない、とかれらは強調しています。

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作話てんかん

 さて、前置きが長くなりましが、本題の作話てんかんです。

 最初の論文がランセット誌に掲載されて以来、メドーのもとには代行性ホラ吹き男爵症候群が疑われる症例の情報が方々からよせられ、7年足らずの間に76症例の詳細な病歴がかれの手許に集積されました。捏造・偽造症状としてローゼンバーグは出血に関連したものを一番手に挙げていますし、無呼吸がトップだったという報告もあります。しかし、メドーの手許に集められた76例においてもっとも多かった捏造・偽造症状はてんかん発作でした(ただし、その発作の中には、窒息による無呼吸によって引き起こされる発作も含まれています)。半数近い32例が嘘に気づかれるまで、てんかんと診断されていたのです。さらに、一度もてんかん発作を起こしたことがないのに睡眠中に「ひきつけて」いると妻が言ったがために長年抗てんかん薬を飲み続けている成人男性例がいることも判明しました。そこで、最初の論文から7年後の1984年、メドーはてんかん発作が偽造・捏造されていた小児例32例と成人例4例を作話てんかんと題して再びランセット誌に報告しました(Meadow R (1984). Fictitious epilepsy. Lancet 2:25-8)。

 他の代行性ホラ吹き男爵症候群と同じように、被害者は男女ほぼ同数でした。てんかん発作の偽造・捏造が判明し作話てんかんと診断された年齢は4か月から21歳、ほとんどが学齢前の幼児で、5歳以下が20例と大半を占めています。捏造・偽造された発作の病歴は短いもので1カ月、長くて20年で、多くが嘘と見破られるまでに4年以上を要しています。発作型としてなんといっても多かったのは大発作(強直間代発作)です。しかし、全般発作、部分発作を含むあらゆる形の発作が捏造され、偽造されていました。発作は、夜、睡眠中に起こるという申し立てが大半を占めていました。そして、頻発傾向がみられ、通常の抗てんかん薬ではコントロール不能でした。ほとんどすべての症例で、母親以外の人間も「発作」を目撃していることになっていましたが、後で確認すると、目撃しているはずの人間は皆、その事実を否定しました。

 約3分の2の症例では、てんかん発作があるという嘘の申し立てが行われていただけでした。しかし、残りの3分の1では母親が人為的に発作を引き起こしていました。手や枕で鼻や口を塞いで窒息させたり、頚動脈洞を圧迫し、徐脈、心停止を引きおこすことによって「発作」が誘発されていたのです。薬によって発作が引き起こされたと推測された例もありました。こうした「誘発」発作は自宅でもみられましたが、入院中にも起き、むしろ、後者の方が多いぐらいでした。入院中の発作の場合、ナースコールで看護師や医者が病室に馳せ参じ、意識を失い、けいれんしている子どもを目撃するといった場面が繰り返されています(4例では、本当のてんかん発作もあり、他の2例は髄膜炎、頭部外傷といった「本当」の病気をもっていました。しかし、そこに、捏造・偽造された「てんかん発作」が病歴の上に覆い被さっていたのです)。

 てんかん発作以外の症状が捏造、偽造されていた例も少なくありません。半数で食物アレルギー・下痢、血尿、吐血などの出血、行動異常、無呼吸発作、腹部症状といったてんかん発作以外の症状が捏造され、偽造されていました。

 作話てんかんの32例には合計33名の同胞がいました。そして、同胞33名中9名が、やはり作話てんかんの犠牲者でした。また、他の兄弟5名ではてんかん発作以外の症状が捏造、偽造されていました。さらに、7名の同胞が幼児期に原因不明の突然死をしていました。そして、1名の同胞は人為的窒息によって脳障害が残存していました。

 作話てんかんを捏造・偽造していたのは、全員、母親でした。ほとんどの父親は妻がそんなことをしているとは知らず、事実を告げられても、とまどうばかりでした。ただし、2例では、父親と母親が共犯関係にあった疑いがもたれています。

 ところで、この32家族の中には作話てんかんの犠牲になっている成人例が4例いました。2例は兄弟例ですが、残りの2例は犠牲者の父親、すなわち、てんかん発作の捏造・偽造者の夫です。父親ふたりはいずれも、夜間、睡眠中に発作を起こしているという妻の申し立てで、長年、抗てんかん薬を服用していました。しかし、発作を目撃していたのは妻だけだったのです。このことからもうかがわれるように、作話てんかんの家庭でも、家を取り仕切っているのは母親でした。父親は影が薄い存在でした。

 5例の母親は看護師などの医療関係の仕事をした経験がありましたが、ほとんどは専業主婦でした。しかし、母親の半数近くは「病院中毒」といってもいい存在でした。子どもが入院すると、四六時中付き添い、子どもから離れようとしません。そして、病棟職員とファーストネームで呼び合う親密な関係になりました。さらに、他の患者の母親や見舞客の面倒をみて病棟内をとり仕切ることもありました。母親たちにお茶を勧め、見舞客がくると病棟を案内するのです。新米看護婦や新米医者よりよほど看護や医療処置のことを知っている、と評判になった母親もいました。新人の看護師がやってくると、どうやって幼い子どもの面倒みたらいいのか解説し、酸素テントや救急処置器具の使い方まで手ほどきするのです。職員の自宅の電話番号を聞きだすものもいました。そして、退院後、何週間にもわたって夕方になるときまって職員のところに電話をかけてきて、子どものことについて一時間近く話し続けるのでした。同じ病棟に入院している子どもの母親と親密な仲になることもすくなくありませんでした。しかし、病院以外に友人はあまりいない様子でした。少なくとも、見舞いに訪れる友人はほとんどいませんでした。

 作話てんかんに気づかれ、母親から引き離されると、いずれの症例でも、頻回に起こっていたはずのてんかん発作が跡形もなく消え去り、抗痙攣剤が減量中止されました。しかし、それまでに、でっち上げられたてんかん発作によって、多くの症例が無用の検査、無用の治療を 受けていました。発作が「難治」ですから、普通のてんかん以上に検査回数が多く、薬の種類や量も増えていました。70回以上も採血検査を受けている例がいる一方で、4歳の時点ですでに8種類の抗てんかん薬が試みられている例もありました。ステロイド療法、さまざまな食餌療法を受けている幼児もいました。でたらめに抗てんかん薬を服用させられていた例も少なくありません。ある期間、処方量をはるかに超えて大量に服用させ、その後、全くの服用させなくなるといった具合です。過量服薬と怠薬が混在していたのです。怠薬時に、発作があったと救急外来に現れ、担当医がそれまでの処方量では無効と考え増量したため、こんどは眠気、眼振などの中毒症状がもたらされることもありました。そして、この「奇病」に対し、さらに、苦痛をともなう検査が行われました。

 大半の子どもは満足に学校にも行っていませんでした。そのうえ、ローラースケート、自転車、水泳など「危険な」遊びはすべて禁止されていました。こうして、健全な成長が歪められることになりました。発作があるのだとしょっちゅう母親から聞かされていたため、てんかんもちだと信じこむようになった犠牲者も少なくありません。成人してからも、自分は障害があり、病弱だと思いこまされてしまっていたのです。

 そして、中には、みずから、てんかん発作の話を捏造して医者に訴える症例もいました。つまり、ホラ吹き男爵症候群の病像を呈するようになったわけです。さらには、運動機能に何の問題もないのに歩けなくなり、車椅子生活に入ってしまった症例もいました。10年以上も難治てんかんだと繰り返し吹き込まれ続け、成人する頃には病人としての行動が板に付き、後戻りができなくなってしまったのです。

 病気の偽装が疑われた時点で、証拠を掴むべく、さまざまな試みがなされました。しかし、困難を極めました。薬物が血液から検出されたり、首や顔に圧痕がみられたり、偶然、母親が発作を誘発しているところが目撃されたりする例もありましたが、ごく一部の例に限られます。結局、何よりも役に立ったのは病歴の注意深い検討だった、とメドーはコメントしています。母親は発作が託児所、保育園、学校など、自分がいないところでも目撃されていると申し立てていました。ところが、当該職員に尋ねると、誰も発作を目撃しておらず、発作などまったく起きていないという答えが決まって返ってきます。そこで、母親の付き添いなしで入院させると、あれほど頻発していたはずのてんかん発作が消失、抗てんかん薬をすべて中止しても再発しませんでした。

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てんかん:手軽に作りだせる病

 メドーはこの論文を「てんかんの診断は不正確ということで評判だ」という皮肉を込めた文章ではじめています。医者が実際に患者のてんかん発作を目撃することなどほとんどないので、診断を患者本人もしくは「発作目撃者」の説明に依存せざるを得ないというのが、その理由だと説明しています。ですから、作話てんかんが多いのは何の不思議もないというのです。一般の人でも、本や映像でてんかん発作の症状のあらましは、ある程度、知ることができます。そして、そうした情報源から仕入れた知識をもとに、子どもや夫がてんかん発作を繰り返しているという話をでっち上げることが可能です。だから、いとも簡単にひとりの人間をてんかん患者に仕立て上げることができるのだとメドーはいうのです。

 つまり、てんかんは、手軽に作りだせる病気、というわけです。

 そして、メドーは、全国規模で行われる抗てんかん薬治療研究の中にも、作話てんかんが「難治てんかん」として入っているにちがいないとさえ皮肉っています。

 ですから、抗てんかん薬治療の評価をするときには、肉親以外のてんかん発作の目撃者がいることを確認するよう、かれは勧めています。てんかん発作が本当に起きているかどうか疑わしいときには、入院させて、厳重な監視の下に、てんかんの有無を発作表に記録すべきだ、そして、その場合、大事なのは発作表の書式だ、とも書いています。発作表には発作の症状だけではなく、「誰が目撃したか」も明記すべきだというのです。母親だけがてんかん発作を目撃しているときには、あやしい、というわけです。

 たしかに、そうかもしれません。てんかんを診療する医師は、てんかんをでっち上げようとする人間に対し無防備です。

 しかし、それでも、病歴をとるに当たって重視すべきは、発作症状であって、メドーが主張しているように、誰が発作を目撃したかではない、というてんかん専門医からの反論はあるかもしれません。

 フランスのてんかん学の大家、アイカルディは「てんかん発作と非てんかん発作の鑑別は理論上も実際上も難しいが、経験豊富な臨床家は発作を見ただけで、いや、それどころか問診だけで、てんかん発作の匂いを嗅ぎ分けるものだ」と書いています(Aicardi J.(1994) Epilepsy in Children 2nd. Ed. (The International Review of Child Neurology, Raven Press)。充分な発作症状の聴取が前提にはなりますが、てんかん臨床の経験がある程度あれば、作り話のてんかん発作症状には何か疑問を感じるはずだというのです。

 もしアイカルディの言う通りならば、母親が訴える発作の症状がてんかん発作として不自然であることに気づくことは、薬の血液濃度の不自然さ、薬の効果の不自然さ、母親の態度の不自然さなどに気づくことと同様、この症候群を疑う契機になりえます。

 たたしかに目撃者が誰かを確定することは、母親が発作をでっち上げている証拠の一つにはなるかもしれません。しかし、母親のでっち上げを疑う出発点にはなり得ない場合だってあります。乳幼児の場合、四六時中母親がそばにいるのはあたりまえだからです。目撃者が母親だけだからといって、それだけで、母親によるてんかん発作の捏造、偽造を疑うことはわけにはいきません。

 発作症状だけでてんかんを診断することにメドーが疑問視しているのは、てんかん専門医が集まっているセンター病院においてさえ難治てんかんと診断されていた作話てんかん例があったためのようです。しかし、センター病院で作話てんかんと診断されなかったから母親の申し立てる発作症状にてんかん専門医が何の疑問も感じなかったとは必ずしもいえません。どうもあやしい、母親のいっていることは嘘ではないか、と思っても、決定的証拠がつかめないため、確定できなかった可能性だってあるからです。作話てんかんも含む代行性ホラ吹き男爵症候群において、確たる証拠を得ることが難しいことは先に述べたとおりです。

 作話てんかんではどれだけ薬を使っても、発作がなかなかコントロールされません。少なくとも母親の口からは、そうとしか思えない話しか聞けません。そうした場合、まず、発作症状をもう一度よく聞き直し、申し立てられている「発作」が本当にてんかん発作かどうか確認するのが、「難治てんかん」に対処する通常の手順です。それは、お母さんたちの言葉を疑おうが疑うまいが、専門医として当然やるべきことです。自分が処方した薬がまったく効いていないのですから、発作の有無の確認も念入りなものとなります。いくら母親が医療情報を収集し、てんかん発作に精通していても、頭で考え出した架空の発作からは「てんかんの匂い」はしないものです。

 この症候群の存在さえ頭に入っていれば、誰が発作を目撃したかということよりも、発作症状を充分聞きとって、てんかんの匂いの有無をかぎ分けることの方が代行性ほらふき男爵症候群診断の第一歩になる可能性が高いでしょう。

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私の物語:苦痛に満ちた真実

 代行性ホラ吹き男爵症候群の犠牲者はみずから外部の人間に助けを求めることがない、とメドーは書いています。家族から引き離されてしまうことに強い不安を抱いているでしょうし、虐待者をおそれてもいるでしょう。自分が病気だと信じるよう仕組まれて、そこから抜け出せなくなっている場合だってあるかもしれません。いずれにしても、家庭以外の安全な場所を求めて子どもたちが行動を起こすことはめったにありません。ですから、なるべく早く医者が気付き、児童相談所のような公的機関に介入してもらって、犠牲者となっている子どもを保護し、救出する必要があります。

 しかし、なかには、敢然と親に立ち向かっていく子どももいます。

 1997年、100周年を迎えた米国小児科学会雑誌の巻頭に「母が私を病気に仕立てた:代行性ホラ吹き男爵症候群を生き抜いた子どもの物語」という医学論文らしからぬタイトルの論文が掲載されました(Bryk M, Siegel PT (1997). My mother caused my illness: the story of a survivor of Munchausen by paroxy syndrom. Pediatr 100:1-7)。タイトルからお分かりのように、代行性ホラ吹き男爵症候群の犠牲者の手記です。この症候群の実体験が白日の下にさらされたのです。

 体験を語ったのはメアリー・ブライクという女性です。1961年の時点で2歳だったということですから、論文掲載時は38歳ということになります。論文は、メアリーの実体験をはさんで、ミシガン小児病院の児童精神科医、パトリシア・シーゲルが解説する、という形で構成されています。以下は、その論文のあらましです(先ほどご紹介した坂井聖二氏の著作にはほぼ全文が訳出されていますので、ご参照ください(坂井聖二著 「子どもを病人にしたてる親たち:代理によるミュンヒハウゼン症候群」 明石書店)。

 メアリーの病歴は、2歳の時、右足のかかとの腫れで整形外科を訪れたときから始まります。骨折はみられず、蜂窩織炎の診断がなされ、患部の安静を保つために右足にシーネ(副木)を当てて様子をみることになりました。しかし、右足のかかとの腫れはひきませんでした。そして、そのうち、急峻な熱型の高熱が続くようになります。患部の安静をもっと確実なものにするためにギブス固定がなされ、さらに、抗生物質も投与されました。しかし、症状は改善しませんでした。骨の一部をとってきて病理学的検討までなされましたが、熱の原因はわかりませんでした。

 これ以降、メアリーは28回入院し、外科的処置が24回行われることになります。

 輸血が繰り返され、何十回となくレントゲン検査が行われました。膿をだすため、何度も皮膚に切開が加えられ、皮膚と骨の移植まで行なわれました。延々と抗生物質も投与されました。しかし、高熱が続きました。もっとも疑われたのは骨髄炎ですが、レントゲン上、骨髄炎の所見はみられませんでした。

 4歳の時、入院中、メアリーは右大腿骨のらせん骨折をきたします。

 折れた骨同士が歪んだかたちでくっついてしまわないよう、右足に対する牽引治療が行われることになりました。そして、足を索引するため右かかとにピンが挿入されました。ところが、ピン挿入部が感染を起こしてしまいます。そして、その後7年間、ピン挿入部から絶え間なく膿が流れでることになります。

 5歳の時、遊んでいる最中に落下、こんどは左肘を痛めます。ギブス固定がなされましたが、またもや、肘の腫れが悪化、皮膚切開と排膿が必要となります。何らかの感染があることはまちがいないのですが、やはり、レントゲン上、骨髄炎の所見はみられませんでした。

 6歳の時、こんどは右腕までおかしくなります。蜂窩織炎になったのです。あいかわらず、骨髄炎の所見はみられませんでした。皮膚切開と排膿がそれぞれ2回ずつ行われました。

 7歳の時、右腕の皮膚3分の2がはげ落ち、メアリーは救急当直に担ぎ込まれます。右肘には関節拘縮が認められました。例によって、感染が遷延、その間に右腕の筋肉がげっそり抜け落ちました。再び、皮膚移植が2回行われました。

 8歳の時、こんどは左下腿が感染を起こしました。骨髄炎がなぜ右から左へ移動するのか、主治医は困惑するばかりでした。

 ところが、10歳になって、メアリーの病状は劇的に改善します。感染も骨折もまったくみられなくなったのです。10歳以降、行われた手術は矯正手術だけでした。長い闘病生活で、身長は思春期中頃まで、正常値下限ぎりぎりでした。しかし、成人する頃には、平均身長に達していました。

 そして、40歳を前にして、メアリーは沈黙を破ります。

 「私は中西部の小さな大学町で育った。20か月年上の姉と7歳年下の弟がいて、私は次女ということになる。母は大学を卒業し、看護士の免許をもっていたが、私が10歳を過ぎるまで実際に働いたことはなかった。父は大学を中退していた。そして、製薬会社で働くかたわら、副業として、大工の仕事をかけもちしていた。同居の祖母は細菌学者で、父と同じ製薬会社に勤めていた。

 400ページにおよぶ私の診療録の1ページ目は、2歳の時の記録から始まる。わたしが階段から落ち、右踝をひねった、と親は申告している。

 6週間たっても、まだ、私はびっこをひいていた。足は腫れたままで、くるぶしに広範な内出血が認められた。かかりつけの医者は私を整形外科に紹介した。この時紹介された整形外科医がその後8年間、私の主治医となった。

 最初の診断は蜂窩織炎だった。

 ところが、さまざまな抗生剤が数週間にわたって投与されたにもかかわらず、まったく効果があらわれなかった。そこで、皮膚が切開され、排膿がなされた。組織の一部を切り取って組織所見も検討された。しかし、病理結果は『骨周辺部に慢性炎症と旧出血巣を認めるものの原因を示唆する所見なし』というものだった。

 主治医は知らなかったのだ、わたしのかかとの傷が事故でできたものなどではないということを。傷は、母が何度も私の足にハンマーを叩きつけた結果だったのだ。

 虐待について思い出せるもっとも古い記憶は、2歳か3歳の頃のものだ。私は胸にトレーを押しつけられ高い椅子に座らされている。息ができず、もちろん、動くこともかなわない。左足は椅子の脚に布巾で縛り付けられていた。母の髪の毛を引っ張らないよう、両手も縛られていた。抵抗する私に母は怒っていた。彼女のいうことは決まっていた。そして、その後7年間、その決まり文句を繰り返した。

 『あんたのためにやっているんだからね。お医者さんがあんたをよくするためにこの治療をしなさいと言ったんだよ』

 しかし、ハンマーが足に振り下ろされるとき、痛いということ以外、幼い私に何が理解できたろう。私は必死に母から逃れようとした。そのことが母の怒りに油を注いだ。

 『おとなしくしないと、いつまでも終わらないからね』

 自分が悪いせいで母が怒るのだと私は信じこまされていた。たしかに、私はそんなにいい子ではなかったのかもしれない。母を歓ばそうと私は必死に努めた。そうすれば私を愛してくれるだろうと。

 母の「治療」は週三回と決まっていた。いつも、昼のニュースが終わった後だった。学校に通うようになると、夕方近くに「治療」時間がずらされた。姉が歩いて帰ってくる前に「治療」が完了するよう、私は終業の30分前に学校から早退させられた。学校がないときは、姉は友達の家にいくか、外で遊んでいるようにいわれた。家から漏れ出てくる私の泣き声について近所の人が尋ねると、着替えがうまくいかず泣いているのだと母は説明した。

 排膿のために皮膚が切開されると、ハンマーで腫れを作り出すだけでは物足らず、母は皮膚の切開口をとがった器具で突つき、鉢植えの土やコーヒーの出し殻で汚染させた。感染を長引かせるためだ。緑膿菌、ミラビリス変形菌、大腸菌といった細菌が傷口から繰り返し培養された、と私の診療録には書かれている。

 2歳半までに私の右足には開放創と排膿創が何度もできた。母が看護婦なので、私は通常よりも早く退院がゆるされた。そして、家で静脈内に抗生物質が投与された。入院中も私の看護は母に全面的にゆだねられていた。服薬管理や看護記録は母がやっていたのである。

 3歳になった頃、敗血症で私は入院した。9回目の入院だった。そして、抗生物質溶液を私の足に常時潅流させる治療システムが組み立てられた。1カ月の入院中に抗生物質に反応して私は軽快した。ところが、この入院の最中に、2度目の「事故」がおきる。まだ入院中のことである。母が「介護」している最中に私の右大腿骨が螺旋骨折を起こしたのである。看護日誌には(母の筆跡で)『歩き始めて、数歩すすんだところで、何かが折れる音がして、足がだらんとした。医師への上申がなされた』と書かれている。右かかとにピンが打ち込まれ、私は牽引治療を受けた。その後7年間、ピン挿入創は感染を繰り返した。

 この入院の時、はじめて私は、母の「治療」が病院の看護婦がおこなう「治療」と違うことに気づいた。私は、心底、母を恐れるようになった。そして、彼女の力のほどを思い知らされたのである。

 私を傷つけ、私を病的な状態にとどめておくこと-----それが、彼女の私への「愛」だった。本当のことをいっても誰も信じないよ、と母は脅した。そんなことをすれば、永遠に家族に会えなくなるからね、と威嚇するのであった。その後30年間、私を黙らせるのに充分な脅し文句だった。

 右足には何度もギブスが巻かれた。しかし、母はギブスからはみ出たつま先や膝にハンマーを打ち下ろし続けた。腫れのため、ギブスは何度もとりかえられた。一度など、母はギブスを叩いて、粉々に柔らかくした。そして、私が、言うことを聞かず、右足も使って、走り、跳びはね、遊んでいたのだと医者に告げるのであった。

 しばらくして、母は私の左の足も攻撃するようになった。こうして、私は車椅子で移動する以外、ベッドで寝ているしかない生活を送ることになる。

 この間、医者たちは私の病状に困惑していた。なぜ抗生物質が効かないのか、なぜ、骨髄炎がもう一つの足に飛び火してしまったのか。かれらは母に引きずり回され、鑑別診断の堂々巡りをさせられていたのである。

 6歳の時、私は救済の望みを断念することになる。

 ある時、母は私の右腕の皮膚切開が加えられた部分に沸騰するお湯を注ぎ、包帯でぐるぐる巻きにした。そして、翌朝、私を救急外来に連れて行ったのである。私は救急室の顔なじみだった。月に1-2回、貧血のために輸血をうけていたからだ。救急室に担ぎ込まれた私は「これ以上この人に私を傷つけさせないで」とヒステリックに叫んだ。しかし、救急室のスタッフは私が右腕のけがからくる痛みのせいでわけのわからないことを叫んでいるのだと判断し、鎮静剤をうった。

 その後、右腕の皮膚の4分の3が失われ、ぽっかり開いた傷口は2年間閉じなかった。重症火傷のせいだが、診療録には『重度の感染による皮膚喪失』と記されている。

 小学校4年生の時、自分で自分を護るしかない、と私は覚悟を決めた。しかし、おどおどして母親をおそれていた私はどこにも助けを求めることができなかった。何ごともないかのように振る舞いつづけるしかなかった。しかし、そのために、気が狂いそうになった。聞こえてくるのは、娘のために心も身も犠牲にしている素晴らしい人間、という母の評判だった。親戚や母の友人の中には母を聖人のようにいうものさえいた。真実を打ち明けたところで、誰が信じてくれるだろう。

 しかし、ある日の午後、母が「治療」の準備をしているとき、ついに、私は反旗を翻した。学校の先生や病院の先生にぜんぶ喋ってやる、と叫んだのだ。

 なぜ、このとき母が引き下がる気になったのか、分からない。しかし、ともかくも、これ以降、彼女は私への虐待をやめた。おそらく、私が肉体的に強くなってきていて、そのうえ、何事にも反抗するようになっていたためだろう。あるいは、当時3歳の弟の方がずっと御しやすい攻撃対象になっていたせいかもしれない。

 虐待は終わり、私の体調は「奇跡的」な回復を遂げた。私は二つの足を自由に使って行動できるようになった。その後数年、矯正手術はうけたものの、最悪の時は過ぎた。しかし、左右異なる靴のサイズ、腕や足をおおう瘢痕組織は、いまでも母の歪んだ愛を私に思いおこさせる」

 彼女への虐待は終わりました。しかし、母親は虐待をやめたわけではありません。7歳下の弟がたな犠牲者になったのです。メアリーは弟が虐待される現場を目撃したこともありました。しかし、母親が怖くて、やめさせることができませんでした。そのために、彼女は罪の意識に苛まされます。成長してから、弟は無為な時間を何年も過ごすようになります。大学に進学したものの中退、仕事も長続きせず、職を転々とするようになったのです。

 どういう訳か、上の姉だけは虐待されたことがありませんでした。そして、姉はつねに母親の味方でした。虐待を受けている妹や弟の悲鳴を何度となく聞いているはずなのに、虐待の事実をけっして認めようとはしませんでした。しかし、彼女も脅えていたのかもしれません。そして、重くのしかかる精神的重圧が彼女の心を引き裂きます。成人してから姉は怒りっぽい性格になり、何ごとにも満足が得られない人生を歩むことになりました。姉も心の目を開き、現実に起きていた事実を受け止める必要がある、とメアリーは記しています。そのとき初めて幸せを見つけるスタートラインにたつことができるはずだ、というのです。

 ディズニーのおとぎ話にでてくる、光輝く甲胄に身をかためた騎士みたいに父親が自分を救いだしてくれることをメアリーはずっと夢見ていました。母親が自分になにをしているのか、父親は知らないのだ。当初、彼女はそう確信していました。知っていれば、母親の行動を阻止していたはずですから。しかし、それは、とんでもない見込み違いであることがわかりました。

 ある日の日曜日、母親がいなくなったのを見計らい、メアリーは父親に虐待の事実を告げました。すぐに父親は母親を問いつめました。しかし、母親は涙ながらに虐待の事実を否認しました。すると、父親は嘘をつくんじゃないと娘をこっぴどくしかり、二度とこの話をするな、と言い渡しました。母親は父親をいとも容易に操り、自分の都合のいいほうへと事実をねじ曲げることができたのです。そして、幼い娘はそれに太刀打ちできませんでした。父親も真実を知ろうとする勇気に欠けていたのかもしれません。

 結局、この母親は他人に注目され、同情されるためにこどもの「病気」を利用していたのでした。少なくとも、メアリーはそのようにみています。

 母親のグロテスクな行動は何人もの人間の人生をめちゃくちゃにしてしまいました。そして、その中には、母親自身も含まれています。論文が発表される時点までの15年間、母親は自身の右足に血栓と蜂窩織炎を伴う「問題」をかかえていました。そして、それは、ついには、重篤な感染症にまで発展しました。抗生物質による治療にもかかわらず、感染症はくすぶり続け、母親は鎮痛剤依存症になってしまいます。医者は母親が自分で足に傷を付けているかもしれないと父親に告げました。もちろん、母親はそれを否定し、父親は母親の言を信じ、医者を変えてしまいます。

 そして、ついには、母親は処方箋偽造の罪で逮捕されます。鎮痛剤をせしめるために偽の処方番号を騙って複数の調剤薬局に電話していたのです。麻薬リハビリテーションプログラムを受けるという条件で何とか起訴は免れましたが、その後、母親の「体調」は悪化し、車椅子生活を余儀なくされます。足を切断せざるをえない事態にまで発展、メアリーは母親が病気を自作自演しているかもしれない、と担当医に告げました。

 途方もない嘘つき、人を欺く名女優、とメアリーは母親を評しています。しかし、それでも、自分を虐待したことを今は許している、とメアリーは書き記します。

 ただし、現在も母親が自分自身を傷つけ、家族や友人を欺いていることには怒りを押さえることができない、ともメアリーは付言しています。

 母親は娘や息子や自分自身を痛めつけた事実を認めていません。そして、親戚、母親の友人、近所の人々はいまだに彼女を理想的母親とみなしているのです。

 結局、メアリーは母親との信頼関係を築くことができませんでした。しかし、今も、本当の母親の愛を味わいたいと切望することがある、と秘めた心情を吐露しています。

 母親の予言は当たりました。メアリーは両親とも姉とも弟ともほとんど会えなくなってしまいました。しかし、母親が勝ったわけではない、とメアリーは書いています。家族を失った後、強くなり、真実と愛に基づく新たな人生を築くことに彼女が成功したからです。

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回復:いまだ心を苛む真実

 虐待が止んだ後もしばらくは、いつ母親の「治療」が再開するかもしれないという恐れと不安におののく日々が続きました。しかし、時がたつにつれ、自信が芽生え、家でも、いいたいことを言えるようになります。

 「私の十代は、母との戦いで明け暮れた。しかし、知られては困る母の秘密を握っているおかげで、私が優位に立つことが多かった。これに対し、母は、私が人に依存せざるを得なくなるように仕向ける、という戦略をたてた。私をおとしめ、私の自尊心を砕こうとした。私の病気が家族の中で話題にのぼることはなくなった。しかし、それは、『生きてこられたことを感謝しろ、すべては私たちのおかげだってことを忘れるんじゃないよ』というメッセージだった。おまえは一人前の人間にはなれない、私たちを喜ばすこともできない、と母は言った。高校卒業時の成績がトップの5%以内だったにもかかわらず、私が大学でしくじるだろうと両親は信じていた。私は奨学金をもらえることになったが、姉の気分を害すから口外しないようにと口止めされた。

 家から3時間の距離にある大学に私は入学した。18歳のとき初めて、家族と離れて暮らすことになったのだ。車がなかったので、家に帰ることはまれだった。家族と一定の距離を保つようになったおかげで、私は一人の人間として成長することができた。そして、家族の影響を受けずに、自分自身をみつめなおすようになった。

 大学卒業後も私は家族と離れて暮らすことにした。家族との交流がほとんどなかったおかげで、さらに私は人間として成長した。情緒面でも強くなった。

 夫と出会ったのは25歳の時だ。すでに私は看護師として働いていた。

 当初、夫には過去の虐待のことはなにも話さなかった。

 ある週末、私は夫ともに実家を訪ねた。そして、母親から太ももの大きな青あざをみせられ、彼女と言い争いになった。あきらかに、私の足に母がハンマーを叩きつけて作ったものと同じ種類のざだった。こんどは自分の身体に同じことをしていたのだ。私は母を責めた。しかし、彼女はヒステリックに叫び、父に助けを求めた。母が寝室の引き出しの中に隠しもっているハンマーを私が示してみせても、あいかわらず父は母をかばうだけだった。何事も解決しないまま、私たちは両親のもとを去った。帰りの道すがら、夫は私の少女時代のことを尋ねた。しかし、今はなにも言えない、と答えるしかなかった。『いつか、君は自分の過去と向き合わざるをえなくなるだろう。その時がきて、行動を起こす気になったら、ぼくは君を支えてあげるよ』と彼はいってくれた。

 結局、私が過去の悪夢に挑戦しようとする気持ちが芽生えたのは、最初の子どもを産んだあとのことだった。

 私は30になっていた。

 ある日、娘を抱いていて、突然、彼女への愛おしい想い、彼女を何としても護らなくてはならないという想いがこみ上げてきた。母の行為がいかに忌まわしいものだったか、このときはじめて私は思い知った。そして、母の虐待の影響を自分の心からぬぐい去るために、専門家の助けが必要だと感じるようになった。娘と健全な関係を構築したいという切実な願いが、精神療法を受ける決心を後押しした。心の傷を娘に転嫁することだけはしたくなかった。

 治療は簡単ではなかった。それまで、母が私にしたことを繰り返し何度も思い出していたのは事実だ。しかし、それを他人に話したことはなかった。虐待の記憶を声高に喋り、感情の表層まで引き上げようとしても、30年間、それを押し殺してきたのだから、うまくいくわけがない。

 個別療法に加え、私は小児虐待経験者の女性グループの集団療法にも参加することにした。そして、そこで、心の痛みをかかえているのが自分ひとりではないことを知った。ようやく、精神療法が感情を吐きだすための安全な避難所となってくれるようになった。そして、過去への区切りもつけられるようになったのである。

 さらに、自分がうけた虐待には名前があることも知った。そのことによって、ジクゾーパズルの最後の一片がはまった。

 それまで、自分の経験が集団療法をうけている他の女性たちのものとなにか違うことをうすうす感じてはいた。しかし、それが何であるのか、ようやく理解できた。他の女性たちが受けた虐待は衝動的、反射的虐待だった。ところが、私が受けた虐待は念入りに仕組まれたものだったのだ。

 このことを認識して以後、私の精神状態は回復にむかった。

 現在、私は両親や兄弟と接触を絶った人生を送っている。かれらとまったく行き来のない環境で生活している。母たちと何らかの関係を保つためには、過去に起こったことすべてを否定しなくてはならない。かれらとの関係が失われたのは悲しい。しかし、二度と犠牲者の役割を演じる必要がないという事実が私の気持ちを落ち着かせてくれるのだ。

 毎日、鏡をのぞき込むたびに私は自分を虐待した人間を思い出す。いまだ、虐待の過去をひきずっているのだ。手足のあちこちを蔽う皮膚のひきつり、歪みが、生き抜いてきた過去へと私をひきもどす。

 しかし、この身の毛がよだつような虐待の犠牲者への理解が深まり、かれらが生き延びられるチャンスが高まることを願って、私は自分の体験を話すことにした。医療に携わる方々はこのサディスティックな病態を認識する責務がある。そして、社会福祉関係者や司法関係者の方々には、家族構造を維持することだけに終始する虐待の基本対処方針を転換するようお願いしたい。

 いかなる子どもも信頼できる人間によって無条件に愛される権利を有する。私を生んだ女性は「母親」と呼ばれるに値しなかった。彼女は子育てを許されるべきではなかったのだ」

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病気にさせられて Sickened

 メアリーの論文が掲載された6年後、こんどはジュリー・グレゴリーという女性が書いた一冊の本が出版されます。題名は「病気にさせられて:代理性ホラ吹き男爵症候群患者の回顧録」(Gregory J. (2003) Sickened:The memoir of a Munchausen by prosy Childhood. Arrow Books)。

 メアリーの手記同様、「代行性ホラ吹き男爵症候群」の体験手記です。

 もともと、この体験談はホームページ(http://www.juliegregory.com/)に公開されていたようです。しかし、その後、一冊の本にまとめられます。出版後、ロンドン・タイムズ紙日曜版の「今年の一冊a book of the year」に選出されました。さらに、エンターテインメント・ウィークリーの「今年の本10冊」の一つにも選ばれ、英米でベストセラーとなっています。日本でも、竹書房から細田利江子さん、寺尾まち子さんによる素晴らしい翻訳がでています(ジュリー・グレゴリー著 細田利江子・寺尾まち子訳 「Sickened 母に病気にされ続けたジュリー」竹書房文庫)。

 ジュリー・グレゴリーは「代行性ホラ吹き男爵症候群」専門の著述家として紹介されています。しかし、むしろ、詩人といったほうがいいかもしれません。詩人というものが、呻き声を美しい言葉に孵化させることのできる人種だと仮定しての話ですが。

 「私には、早くからいろいろな症状が現れた。たびたび再発するのどや鼻の病気。ひ弱な体からは想像もつかない大きなげっぷ。しつこく長引く扁桃痛。腫れ上がって、「アー」というたびに切り取ってくださいとばかりに揺れる扁桃腺。鼻中隔彎曲症が原因の口呼吸。四つの基礎食品群の食べ物を永遠に食べられないような、わけの分からないアレルギー。この奇病の原因を心臓内科で突きとめようとしていたとき、ママは鬼軍曹さながらの剣幕で、細かい検査を要求した」

 幼児期、母親はマッチの先、あるいは、わけのわからない薬をメアリーに飲ませて偏頭痛発作を起こさせ、病院へ連れていきました。

 「偏頭痛がひどくなるのは、たいてい、ママがわたしの口に小さな白い錠剤をすべり込ませたあとだった。『じきに頭痛になるわ。ママにはわかるの。さあ、口を開けて。舌を上げる。そうそう』吐きそうになることもあったけど、たいていはベッドに横になるだけですんだ。口のなかで、薬は解けて青白い粉になる。すると、とたんにひどい頭痛が始まった」

 頑固な頭痛、吐き気、喉の腫れの原因を主治医はどういうわけか食事アレルギーと診断します。母親は娘にまともな食事をあたえず、栄養失調状態に追い込みます。

 「何も悪い影響を受けないまま、人はどれだけ空腹でいられるだろう。13歳の子どもがみんなから病気だといわれ、病気の原因を探る検査をされ続けたら、その子は自分が病気でないと思えるだろうか。気分が悪いのね、とママがいうとおりだ。わたしはがんばりがきかない。くたびれている。しじゅう気分が悪いなら、体のどこかがおかしいんじゃない?学校を休んで病院に行き、学校に行ったとしても半日は保健室ですごしているなら、どこかがおかしいんでしょう?それとも気分が悪いのは、まちがった薬を飲んでいるせい?3種類の薬を一度にまとめて飲んでいるせい?……わたしの体は紙のように薄っぺらくて、透き通るようだ。さっと風が吹いたら、葉脈だけ残ったもろいカエデの落ち葉のように青空高く飛ばされるだろう」

 そして、ジュリーの母親は栄養失調による体調異常を心臓の異常と医師に認めさせようとします。しかし、本当に病気かどうかもわからない少女に母親が望んだどおりの処置や手術をやる医者はさすがにそうはいません。

 「『ちょっと、あんた。この子は病気なの。見ればわかるでしょう。もしあんたが悪いところを見つけられなかったせいでこの子が死んだら、訴えて有り金ぜんぶ絞りとってやるから』

 ママの顔はとがり、目はつり上がっていた。怒ったときはいつもそうだが、つばの白い泡が下唇の上で揺れている。ママの声は、これ以上の検査はできないという医者の後を廊下の先まで追いかけ、病院の静寂を切り裂いて響きわたった。

 『ふざけんじゃないわよ』診察室に戻ってくると、ママは毒づいた。『あんなやぶ医者の言うことなんか、信じられるもんか』

 『心配しないで、ママ。だいじょうぶ。他のお医者さんを見つけよう』

 私はこんな風にしてママを元気づけた。前に進むしかないのだ。

 『ちょっと、私は人生を犠牲にして、あんたのどこがおかしいのか突きとめようとしてるの。だから、こういうところに来たら、正常そのものって顔をしてぶちこわすのは止めて。どんなに具合が悪いかちゃんとわかるようにして、どこが悪いのか突きとめるのよ。わかった』

 『わかった』」

 そして、ついに、すべての検査をやってみようという「素晴らしい」専門医のいる大学病院に行き着きます。そして、ジュリーは心臓カテーテル検査まで受けさせられます。もちろん、結果は正常で、「開胸手術」を迫る母親に医者はさすがに「うん」とは言いません。

 「『ミス・グレゴリー、ジュリーに心臓手術の必要はありません。きっと喜んでいただけると思いますが……今回の検査では、そういった身体を傷つける方法がジュリーのためになると思われる結果は、なにひとつ出ませんでした……』『嘘でしょ』『いいえ、ほんとうです。われわれが検査したところ、ジュリーは正常の範囲に入ります』『信じられない!絶対に信じない!もっとくわしく調べて、開胸手術をする気はないの?』」

 そして、母親は例によって開胸手術を拒否した医者を罵り、次の心臓専門医に電話を入れます。

 ジェリーの家族には、祖母から母親へ、そして、母親から娘へと虐待の連鎖がみられます。

 ジュリーの祖母のマッジは「兄弟姉妹が互いに通じあったせいで寄り目の子供が生まれているという、ウェスト・ヴァージニア州のある一族の出」でした。そして、マッジの最初の夫であるジュリーの祖父は「家族に背を向けたきり、家じゅうにしまった銃のコレクションのことばかり考えている男」でした。ジュリーの母親サンディーには「少々いかれた、リーという兄」がいました。サンディーは「ときおり男たちのなかに取り残され、暗い地下室でひどい目にあわされて」いました。

 「…やったのは、リーよ。それと、近所の男たち。あたしを仕事台にしばりつけて…あたしは悲鳴を上げてママを呼んだ。でもママは、地下室のドアを閉めたわ…」

 やがて、祖母のマッジは「銃マニアの男」とわかれ、「バッジ付」の「銃を携帯」する男とくっつきます。ところが、この保安官らしき男もサンディーに性的虐待を加えます。2年後、この「新しい父親は銃を口に突っ込んで頭を吹き飛ばし」ました。

 「(祖母の)マッジは十年生まで学校に通い、その後は一日たりとも働いたことが」ありませんでした。「うちのなかに食べ物があることは、めったになかった。昼食代を与えられなかった(母親の)サンディーは15になるころには衰弱しきっていた。あげくに栄養失調におちいり、放課後アンモニアで床を磨いている最中に倒れてしまう」という有様でした。

 17歳の時、サンディーは50歳台の曲芸師スモーキーと結婚させられます。そして、回転する車輪に縛り付けられ、ナイフを投げつけられる毎日をすごすようになりました。

 しかし、曲芸師の夫は「有害物質がたっぷりこもった蒸気をたっぷりすいこんだ」ために肺をやられ、ある夜「飛び起き、血の凍るような叫び声を上げると、いまわのきわにのどをゴロゴロいわせ、枕のくぼみにばったりと仰向けに倒れてこときれ」ます。サンディーは「別れを告げに来る人が一人もいない男のために棺桶を用意し…スモーキーの体にすがって泣き」ました。この時、彼女は26歳でした。

 まもなくサンディーは同じ町のガソリンスタンドの整備士をしていた19歳の若者、ダン・グレゴリーと再婚します。ジュリーの父親になるこの若者は「子育てよりも裏庭でのトマト作りにいそしんだ父親に長年殴られ続けて」成長しました。そして、ヴェトナム戦争で枯れ葉剤を吸い込み、高校時代の親友が吹き飛ばされるのを目のあたりにします。「両手に親友のちぎれた頭を抱え、枯れかけていたわずかな涙を絞り出してむせび泣」いたかれは、精神に変調をきたし、数ヶ月で本国に送還されます。

 ダンがサンディーと出会ったのは、異常行動のせいで入院させられていた退役軍人局病院をようやく退院したころでした。「飢えきっていたふたりは、たがいの魂をむさぼらんばかりに激しく求め合」い、結婚します。結婚式で司祭はサンディーに「この男は頭がおかしいが、それでもいいのかね、わが子よ、頭がおかしいのだぞ」と説得しましたが、彼女は意に介しませんでした。ダンは、テレビばかり観ている父親で、時としてとんでもない暴力を妻や子供にふるうこともありましたが、結婚生活はなんとか19年間続きました。

 メアリーは「心の傷を娘に転嫁することだけはし」まいと決意しましたが、ジュリーの母親サンディーの境遇はあまりに過酷で、そのような余裕を彼女に与えませんでした。心の傷を代行性ホラ吹き男爵症候群という形で娘に転嫁することになったのです。

 ソーシャルワーカーを通じて虐待の事実を公表し、裁判沙汰になったことで、ようやくジュリーは母親サンディーの魔の手から解放されます。しかし、思春期まで長年にわたって代行性ホラ吹き男爵症候群の状態にさらされていたことで、心身ともにボロボロになっていました。

 しかし、メアリー同様、ジュリーも自分が受けた虐待に名前があることを知ったことで転機がおとずれます。

 25歳の時のことです。当時彼女は夏期大学に通学していました。そして、異常心理学の授業ではじめて代行性ホラ吹き男爵症候群という病名を耳にします。

 「教授の柔らかな声が授業を先に進め、特定の児童虐待について話しはじめる。

 『虐待者は…これは通常母親ですが…治療を受けさせたいがために、本来は健康な子どもが病気に仕立て上げます』

 母親が…病気に…仕立て上げる。

 『こうした虐待を行う母親は一般的に、幼いころ、トラウマとなる虐待や養育放棄(ネグレクト)に苦しんだ経験があります』

 私は顔を上げた。よだれが下唇から机に垂れる。

 『トラウマ、あるいはネグレクトは幼いころの保護者によって行われたため、虐待者は医師との交流により、潜在的な…欲求を満たします…』

 わたしは体を起こした。

 『実際には、医師が診察しても子どもに異常が見つかることはほとんどありませんが、それでも母親は医師から医師へと渡り歩いて、検査や手術を次々に受けさせます…

 こうした児童虐待は、代理によるミュンヒハウゼン症候群…と呼ばれています』

 頭のなかのもやもやを振り払おうとする。四方八方からガラスにひびが入る。ガラスはひびが入ると同時に割れ落ちて、耳をつんざくほどの音がした。そして静まりかえる。私はひびの入った鏡を見つめている。そこには、とまどった顔をして、口を開けたまま不自然な呼吸をしている病弱な女が映っている」

 ジュリーは精神療法を受け、結局、メアリーと同じように、母親と全く交流のない生活を始めます。さらに、自分の病歴をたどるために、記憶のなかにある病院から自分の診療録を取り寄せました。当然、何の異常もない子どもにいらざる検査や治療を行った医者たちへの怒りがこみ上げてきます。

 「先生、あなたは大人で、経験豊かな医師だったのでしょう?どうしてこれを見逃したんですか?...医師だったら、人間の行動に詳しいはずです。嘘つきに気づいて、追いだせるものでしょう。15歳の女の子なら、病院に来るほかにやることがあるんじゃなかと思わなかったのですか?」

 「心臓病を抱えた、従順な子供は死んだ。私はもう女の肉体と気性をもつ、本物の女だ。考えも、気持ちも、望みも、欲望もはっきり口にできる…逃げずに人と話せる…こうして従順さが消えるにつれて、わたしの皮膚のなかから邪悪でどす黒いものがあふれ、外に出ようとしていることに気づかないわけにはいかなくなった。怒りがおさまらない。わたしのなかから噴きだしてくる」

 しかし、病人を演ずる心理を完全に脱却し、母親をある程度客観的にみられるようになるには、さらに何年もの苦闘の時間が必要でした。

 「どんな子どもでも、母親をかばうのが普通だ…医師に母の行動が理解できないなら、どうして私に理解できるだろうか」

 母親と離れて暮らす年月だけがそれを可能にしました。

 「わたしは30歳になった。そのころには、母のことがだいたい見えるようになっていた。海岸の吹きさらしの絶壁に立ち、下の砂浜から見上げている母を見つめるかのように」

 ジュリーは久しぶりに母親を訪ねます。しかし、そこで彼女がみたものは、里子を病人に仕立てている母親の姿でした。どんなことをしても母親を変えることなどできない、とジュリーは思い知ります。母親と和解することを断念し、彼女は里子を救いだす決心をします。

 「11歳のあの女の子を、次の世代のわたしを救おう。すべて、こっそりやるのだ。そうしないと、母を倒せないから。母はけっして倒れないから。

 私は受話器を取り、児童福祉局に電話した」

 「子どもの頃の追憶から得た神聖な、貴重なものなしには、人間は生きていくことすらできない」とドストエフスキーは書いています.「さもなくば生きた生活が中絶してしまう」からだというのです。しかし、メアリーにとっても、ジュリーにとっても、追憶すべき過去はあまりにも無惨でした。ただひたすら圧し殺すしかない過去の連続でした。結局、それでも、「生きた生活」を求めて二人は過去に立ち向かっていきました。「追憶は、あるいは苦しい悲しいものでさえあるかもしれないけれど、しかし過ぎ去った苦痛は、後日魂の聖物になるものである」ともドストエフスキーは記しています。しかし、メアリーとジュリーが得たのは「血塗られた」魂の聖物でした。「人間というものは概して、過去の苦痛を愛するように創られている」のかもしれません。しかし、彼女たちが振り返って見つけたものは、愛することなどとてもできない過去でした。しかし、人生を立て直すためには、そのような過去であっても悲痛の思いで対峙するしかなかったのです。

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死の天使

 ローゼンバーグが代行性ホラ吹き男爵症候群についての総論を書いた時点で、この症候群の概念がメドーの意図したものとずれを生じていたということは、以前、すこし触れました。

 残念ながら、そのずれは、その後、さらに拡大してしまいます。

 疾患概念が時とともに変化していくことはめずらしくありません。しかし、その多くは、疾患の原因の発見といった医学的要因によるものです。ところが、代行性ほらふき男爵症候群は医学以外の要因によってその疾患概念が揺れ動くことになりました。

 その「非医学的」要因のひとつが「死の天使」でした。

 19世紀末のロンドンを恐怖のどん底に陥れたジャック・ザ・リパー(切り裂きジャック)を筆頭に、イギリスという国は特異な連続殺人鬼を何人も輩出しています。そして、1991年、新たにビヴァリー・アリットという女がこの伝統に恥じない連続殺人鬼ぶりをみせてくれました。

 グレートブリテン島の東部に位置するリンカンシャー州のグランサム・ケスティーブン病院の小児病棟で1991年の2月末から2カ月間にわたって、13名の子どもの患者がたて続けに、突然、心停止をおこし、4名が死亡しました。捜査の手が入り、子どもたちが心停止した時間帯に常にこの病棟に勤務していた職員が1人しかいないことが判明しました。それが、この病棟に配属されたばかりの新米看護婦、ビヴァリー・アリット(22歳)です。実際、彼女がこの小児病棟で働き始めた日から、一連の騒動が始まっていました。アリットはインシュリン、カリウムを子どもたちの点滴ルートに注入、子どもたちの心停止を誘発した疑いで逮捕され、終身刑に処せられます。

 その後の調べで、アリットは少女時代から異常行動がみられていたことが判明しました。手足に絆創膏をはったり、包帯を巻いたりして、病気を装うことが多く、看護学校でも、訳のわからない症状を訴える、ということを繰り返していたのです。

 この事件は、当然、マスコミにも大々的にとりあげられました。そして、全英を震撼させたこの連続殺人は「死の天使」という題でテレビドラマにまでなりました。

 そのうえ、どういうわけか、マスコミはアリットが「代行性ホラ吹き男爵症候群に罹患していた」と報道しました。

 アリットにホラ吹き男爵症候群を疑わせる病歴はあります。しかし、彼女の連続殺人は代行性ホラ吹き男爵症候群とは別種の行動です。インシュリンやカリウムを静注された13人の子どもは、彼女と血縁上のつながりがありません。彼女はたまたま目の前にいた子どもたちに次々と死に至らしめる細工をしたのです。それに、何らかの症状を捏造したり偽造したりして子どもたちに医学的検索や処置をうけさせようとしたわけでもありません。もしかしたら、アリットは自分への注目を集めるために(患者の急変をめざとくみつける俊敏な看護婦として認めてもらいたいから?)連続殺人を起こしたのかもしれません。しかし、その殺人は、代行性ホラ吹き男爵症候群という特異な小児虐待とはまったく異なる性質のものです。

 メドーはアリットの裁判で検察側医学鑑定証人として証言しています。そして、代行性ホラ吹き男爵症候群もメドー本人も「死の天使」のおかげで一躍マスコミの脚光を浴びることになりました。このことがアリット事件を代行性ホラ吹き男爵症候群の一例と誤認させた一因だったようです。

 しかし、メドーには不本意なことだったでしょう。

 さらに、マスコミはこの症候群を虐待者の疾患名として扱っていました。いうまでもありませんが、メドーは代行性ホラ吹き男爵症候群を虐待者の疾患名ではなく小児虐待の一形式として命名しています。しかし、一旦マスコミに間違って報道されると、メドーの意図などは吹き飛んでしまいました。

 アリオット事件は代行性ホラ吹き男爵症候群という言葉がメドーの手を離れ一人歩きしはじめたことをしめす象徴的なできごとでした。

 しかし、そんな事態に立ち至った一因は、代行性ホラ吹き男爵症候群という名称そのものにもありました。そのことは、メドー自身も認識していました。「華やかな用語は利点もあるが欠点もある」というのです(Meadow R(1995) What is, and what is not, `Munchausen syndrome by parosy`? Arch Dis Child 72:534-8)。

 メドーが症候群名にホラ吹き男爵を持ち出したのは世間の耳目を集めようという意図(journalistic reasons)からでした。ホラ吹き男爵をだしにすることによって、医療関係者や小児保健関係者の間にこの異様な虐待型式についての認識が広まることを狙ったのです。そうすれば、犠牲となっている子供が救いだされる機会もふえるだろうという目論見でした。そして、メドーの戦略は大成功を収めます。「死の天使」のおかげで、医学界のみならず社会一般にもこの症候群は広く知られるようになりました。

 しかし、成功しすぎました。

 想像力をかき立てる病名のおかげで、人々は名付け親の意図などおかまいなしに、自分好みにこの症候群を解釈するようになったのです。医学論文でも「この母親は代行性ホラ吹き男爵症候群に罹患していた」などという表現が頻出するようになります。そうした風潮の延長に「死の天使」事件のマスコミの誤用があったのです。「この母親は代行性ホラ吹き男爵症候群に罹患している」などというのは「性的虐待の虐待者が性的虐待に罹患している」というようなものだとメドーは揶揄し、抵抗を試みました。

 しかし、だめでした。

 流れは彼の意図するところとは異なる方向に変わっていきました。

 米国精神医学会の精神疾患の診断・統計マニュアルDSMにもそうした流れが反映しています。

 DSM-IV-TRに「ホラ吹き男爵症候群」が虚偽性障害Factious Disorderとして記載されていることは以前申し上げたとおりですが、代行性ホラ吹き男爵症候群も今後研究を要する特定不能の虚偽性障害として採りあげられています。「代理による虚偽性障害」という名称が付けられ、「間接的に病者の役割を演じるという目的で、その病者が世話をしている別のひとに身体的または心理的徴候または症状を意図的に作り出す、または、ねつ造する」と定義されています。心理的動機を重視しているという意味ではメドーの主張に沿っています。しかし、明らかに「虐待者」の病名となっています。そのうえ、これが小児虐待に関連する症候群であることが明記されていません。このため、老人や障害者が病人に仕立て上げられた場合にもこの言葉が使われてしまう恐れがあります。いよいよ、代行性ホラ吹き男爵症候群の疾患概念はぼやけてしまいます。うんざりしたのでしょう、ある論文の中でメドーは「ペットを病気に仕立てる行為まではこの症候群に含まれないだろうが」とまぜっかえしています。

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虐待者の心性

 メドーは代理性ホラ吹き男爵症候群を起こす母親の心性、行動様式を当初から重視していました。

 最初の論文に記載した2症例のうち、1例では尿への細工によって症状がねつ造され、他の1例では塩の大量投与によって症状が偽造されており、症状でっち上げの内容、方法はまったく異なっていました。ところが、母親二人の心性、行動様式は驚くほど似ていました。ともに、小児病棟との接触をなんとか保ちたいという欲求が明らかで、それが、症状捏造・偽造の原動力であろうと推測されました。

 メドーがこの2症例を学会で発表したとき、類似の症例について何人もの医師が意見を求めてきました。そして、かれらの印象に一番残っていたのも、このような母親たちの心性、行動様式でした。このこともあって、メドーはこの症候群における母親の特異な心性を重視するようになったようです。

 作話てんかんの論文のなかでメドーは母親たちの行動様式をさらに詳しく記載しています。

 彼女たちの多くが家庭を取り仕切っていました。母親が家を支配し、父親の影は薄いというのがよくあるパターンでした。そして、病院でも彼女たちは「仕切ろう」としています。病院職員になれなれしく話しかけ、親密な間柄となり、新米看護婦に医療処置の手ほどきする母親まであらわれました。さらに、他の患者の母親や見舞客の面倒をみて、病棟内に隠然たる「地位」を築くものもいました。こうした母親たちは、「献身的な母親像」を演じることに強烈な喜びをみいだし、かつ、「仕切る」ことによってささやかな権力欲も満足させていたようです。症状を捏造、偽造して医者を騙す行為も、医者を思い通り操るという「権力」欲を満足させるためという側面があるのかもしれません。

 ところが、代理性ホラ吹き男爵症候群が有名になるにつれ、こうした母親の心性、行動様式は軽視されるようになります。母親の心性とは無関係に、とにかく母親が医師をはじめとする医療関係者に意図的に嘘をつき、だまし、巧みな操作で計画的に子どもに害を及ぼしていれば、この症候群の名前で呼ばれるようになっていったのです。

 メドーはこの風潮にも危機感を抱きました。症候群の定義はたんなる語義上の問題ではなかったからです。かれにとっては、母親にどのように対処し、子どもたちをどうやって救出するかという治療に直結する論点だったのです。

 米国小児虐待専門家協会(American Professional Society on the Abuse of Children; APSAC)の代行性ホラ吹き男爵症候群特別委員会も母親の動機を重視しています(APSAC Taskforce on Munchausen by proxy, definition working group. Position paper: definitional issures in Munchausen by prosy.Child Maltreatment 7:105-11)。委員会はこの症候群を定義するに当たって、虐待の被害者である子どもと虐待を加える虐待者の二者それぞれに検討を加えています。そして、虐待者(多くは母親)の動機を検証し、その行動様式を確認することを薦めています(ついでながら、この報告書は、代行性ホラ吹き男爵症候群が実際には「家族疾患family disorder」であると記しています。直接には虐待に加わっていない夫、祖父母、親戚も、虐待している人間を支持することによって、結果的には子どもの症状でっち上げに協力しているというのです。この「共犯関係」を認識することが、個々のケースを評価し、治療計画を立てる上で重要だと委員会は附言しています)。

 虐待者となる母親たちには自分勝手な、虫のいい欲求がある、というのが特別委員会の見解です。病気がちな子供の献身的な母親とみなされ、注目され、一目置かれることを生き甲斐にしている、というのです。その一方で、何らかの「力」を有するとみなされる「権力者」を秘かに支配し、操り、騙すことに喜びをみいだしている母親もいるとされています。標的は医者だけではありません。弁護士、ソーシャルワーカー、判事、心理療法士、教師、マスコミなども対象となりえます。こうした欲求を満たすため、虐待者たる母親は自分の子どもや肉親をだしにして、病院や学校など公共の場で騒ぎ立て、ついには、その場を取り仕切り、自らのささやかな権力欲を満足させるというのです。

 子どもを病気に仕立てることによって税金の控除などさまざまな福祉的特例による恩恵に浴することもできますが、しかし、そうした外的報酬があるからといってこの症候群から除外すべきではないと委員会は説明しています。それらは二次的に発生した「報酬」にすぎず、母親たちははじめからそれらを求め狙って虐待行為に走ったわけではないからです。

 しかし、米国小児虐待専門家協会の見解とは逆の流れもあります。

 2007年に米国小児科学会の「児童虐待、養育放棄にかんする委員会」が「代行性ホラ吹き男爵症候群をこえて」という題でこの症候群にかんする声明をだしています(Stirling J, the Committee on Child Abuse and Neglect (2007) Beyound Munchausen Syndrome by prosy: identification and treatment of child abuse in a medical setting. Pediatr 119:1026-30)。

 この声明のなかで委員長のスターリングは「代理によるミュンヒハウゼン症候群」という用語が研究者や臨床家の間で混乱を引き起こしている点を問題視しています。そして、母親の動機を重視すべきかどうかという論点が混乱の原因のひとつであると指摘しています。この症候群の適応範囲をめぐって、子どもへの医療を母親が求めてくる例に限定すべきだという意見がある一方で、母親の動機などは重要ではないという意見があるというのです。

 診断という観点だけからみれば、動機は無視してもかまわない、というのがスターリングの立脚点のようです。小児虐待の診断基準に加害者の動機を含めている疾患はこの症候群以外にはない点に注意すべきだ、とかれはコメントしています。「ある男はさまざまな理由から性的虐待をする。しかし、この場合、動機を重視することが診断学的に見当違いだということは明らかだ。動機に無関係にこの男は性的虐待をしていると診断されるのである。さまざまな理由から母親たちは赤ん坊の体に危害を加える。泣き声にイライラしているせいかもしれないし、麻薬中毒のせいかもしれない。赤ん坊にきちんと食べさせようと焦ったせいかもしれない。しかし、いずれの場合も、臨床的には身体的小児虐待と診断されるのである」

 しかし、スターリングたち米国小児学会小委員会の提言に対しては反論も少なくありません。

 たとえば、カリフォルニア大学精神科のブルシュたちは、この提言が虐待者の動機は重要ではないといっておきながら、治療方法は虐待者の動機によって変わると書いているのはおかしいではないかと噛みついています(Bursch B, Schreier H, Ayoub C (2008) Further thoughts on "Beyond Munchausen by proxy: indentification and treatment of child abuse in a medical setting" Pediatr 121: 445)。たしかに、動機はどうであれ、病気をでっち上げるという虐待行為は小児虐待の専門家に通報されるべきではある、しかし、虐待の性格、被害者の子どもの安全、対処法を考えるにあたっては動機の重要性を認識すべきだ、というのです。

 ついでながら、「多職間の共同作業が重要であるが、代行性ホラ吹き男爵症候群の最終診断をいうるのは医師のみである」とスターリングたちが書いていることにもブルシュたちは苦言を呈しています。医者のほうが母親たちの嘘を見抜けず、虐待の「共犯者」となり、医者以外の専門家がこの症候群の可能性に気づく場合も少なくないからです。

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病院だけではない

 アラバマ大学、行動医学・精神科のフェルドマンたちは別の視点からブルシュたちと同じような懸念を表明しています(Feldman MD, Light MJ, Lasher LJ et al (2007) Beyond Munchausen syndrome by proxy. Pediatr 120; 1217-8)。

 この症候群の「活躍」の場は病院だけではない、というのです。

 代行性ほらふき男爵症候群は学校、精神衛生推進施設、NPO団体、教会、司法施設など公共のさまざまな場でみられ、問題を巻き起こし、世間を騒がせている、とかれらは指摘しています。このため、医療関係施設からのみ情報を集めるのは片手おちであり、そのような単眼視ではこの症候群の全体像がつかめないおそれがある、と注意を喚起しています。そして、医者だけでそのような多岐にわたる領域の情報すべてを集めるのは不可能であり、この症候群にかんする多職種プロジェクトチームが結成される際には、この症候群に関して訓練を受けたソーシャルワーカーのほうがチームの統率者として望ましいと述べています。

 ただし、「病院だけではない」ということは米国小児虐待専門家協会も指摘しています。代行性ホラ吹き男爵症候群の舞台が病院以外にも点在しているという認識が広まってきているのです。

 実際、司法や教育の場で「活躍」する代行性ホラ吹き男爵症候群がいくつも報告されています。

 まず、ありもしない小児虐待をあたかもあるかのように裁判所、学校などに親が訴えでる事例です。

 これについても、メドーが7家族、15例のまとめを報告しています(Meadow R(1993) False allegations of abuse and Munchausen syndrome by proxy. Arch Dis Child 68:444-7)。

 でっちあげられる虐待の多くは性的虐待です。夫が子どもに性的虐待をしていると母親が虚偽の訴えをすることは、親権確保、慰謝料吊り上げのために離婚裁判時などによくみられるようです。しかし、メドーはそうした例は除外しています。

 ありもしない性的虐待があたかもあるかのように騒ぎ立てるのは、やはり、ほとんどが母親です。して、虐待者として名指されるのは、多くの場合、家族以外の人間です。たとえば、隣近所の年長の少年などです。しかし、まれに、離婚した元の夫、あるいは、今実際に住んでいる夫が犯人として名指されることもあります。母親が訴えでる公的機関は児童相談所、警察、学校などですが、ときとして、病院のこともあります。なかには、身元を名乗らずさまざまな機関に電話をかけまくる母親もいます。あるいは、ところかまわず差出人不明の手紙を送りつけることもあります。

 でっち上げの主体を占めるのは母親たちの嘘の申し立てです。しかし、母親が特訓して、性的虐待を受けたかのようにこどもに振る舞わせる場合もあります。特訓に使われたとおぼしき録音テープまで見つかっています。また、性的虐待に見せかけるため、会陰部を傷つけた例もあります。

 母親たちの多くは、児童虐待があるかのようにみせかけるだけでは満足しませんでした。窒息させて実際に発作があるかのように見せかけたり、血尿、下痢といった症状を偽造したりしたのです。つまり、通常の代行性ホラ吹き男爵症候群にみられるような症状の捏造、偽造も並行して行われることがあるのです。そして、その行動様式、心性もこの症候群を引き起こす他の母親たちと極似しています。

 このため、過去のいきさつから医療機関はこうした母親をある程度、疑いの目でみることができます。しかし、児童相談所、警察、学校は当初、そんなことはまるで知りません。このため、性的虐待に対応する通常の措置がなされます。必要もないのに、子どもたちは面接をうけ、質問され、体を調べられることになります。加害者と名指された人間が警察の尋問を受けることもあります。しかも、母親がしつこく何度となく訴えるために、こうしたことが延々と繰り返されるのです。

 メドーの報告例は、全員、虐待の捏造以外に、他の症状の捏造もなされていました。このため、代行性ホラ吹き男爵症候群の診断がすでに医療機関でなされており、発見も容易でした。しかし、なかには虐待の捏造だけがなされている例があるかもしれない、とメドーは指摘しています。そうした場合、へたをすると、警察、児童相談所、学校も永遠に母親の嘘を見抜けないことになるかもしれません。

 医療機関以外を巻き込んだ事例としては、他に、全く普通の自分の子どもを母親が学習障害や注意欠陥多動症候群(ADHD)と言いつのり、特殊教育を受けさせようとする事例があります。

 舞台は学校です。そして、標的は教師、学生指導員、校長です。

 エイアウブたちは米国の三つの州において、教員あるいは少年審判所から照会のあったそのような事例(5家族9症例ですから、他の代行性ホラ吹き男爵症候群のように同胞例があるわけです)を報告しています(Ayoub C, Schreier HA, Keller C (2002) Munchausen by prosy: presentations in special education. 7:149-59)。対象となった子どものほとんどが注意欠陥多動症候群と診断され、薬を飲んでいました。さらに、学習障害とされている例もありました。これらの診断は、すべて、母親のでっちあげによってなされたものでした。

 家庭では異常行動がみられると母親は言い張るのですが、学校ではその子たちにまるで異常がみられませんでした。しかし、心理判定員が評価を行っても、行動は正常と判定され、学習能力も平均以上だったのです。

 半数の子どもは教育上の問題以外に医学的にも問題もあるとされていました。もちろん、「医学的問題」もでっち上げによるもので、その「症状」も代行性ホラ吹き男爵症候群によくみられるようなものでした。さらに、母親の心性、行動様式も代行性ホラ吹き男爵症候群を引き起こす母親たちに類似していました。妙に図々しく、そして、執拗なのです。そして、要求をとおそうとして、敵意をむきだしにすることもありました。

 彼女たちは注意欠陥多動症や学習障害についてプロ並みの知識をもっていました。そして、自分の子どもが「障害にみあった」教育を受けていることを確認するため、授業中も無理やり子どもに付き添おうとしました。しかし、自身の「問題行動」のために学校への出入りを禁じられていた母親も少なくありません。

 少年審判所の命令によって6名の児童が家庭から引き離されました。母親から離された途端、全員、学習能力が劇的に改善、薬も問題なく中止することができました。ほとんどの児童が特殊教育を受けていましたが、母子分離後は普通学級に移っています。しかし、代行性ホラ吹き男爵症候群の他の子ども同様、情緒障害は長く残存しました。

 このように、代行性ホラ吹き男爵症候群は医療機関以外にも「活躍の場」を広げています。しかし、もし、代行性ホラ吹き男爵症候群を引き起こす母親が「献身的な母親」を演じ、周りの人間を仕切ることを動機としているのであれば、じつは、病院、学校、警察以外にも、その心性を満足させる格好の場があります。

 インターネットです。

 ホラ吹き男爵症候群の患者が相互援助団体のホームページにアクセスして混乱に陥れたといった事例は以前から報告されています(Feldmann MD , Peychers M (2007) Legal issues surrounding the exposure of "Muchausen by Internet". Psychosomatics 48:451-2)。つじつまの合わない症状を訴え、他のメンバーがその症状に疑問を呈すると、俄然、攻撃的となり、要注意人物としてホームページへのアクセスを拒否されたといった事例です。こうした人間は、自分を非難した人物を裁判所に訴えたりすることもあります。このため、ホームページの存続が危うくなった患者相互援助団体も報告されています。

 これに対し、代行性ホラ吹き男爵症候群とインターネットの関連についての報告はほとんどありません。

 医療関連ホームページ「中毒」に「罹患」し、自分の娘が糖尿病だと「確信」して「高血糖」の治療に専念、ついには娘を神経性食思不振症にしてしまった父親が報告されている程度です(Vanelli M (2002)Munchausen's syndrome by proxy web-mediated in a child with factitious hyperglycemia. J Pediatr 141:83)。

 しかし、代行性ホラ吹き男爵症候群を引き起こす母親の心性を考えると、ホラ吹き男爵症候群の患者ほどには目立たないだけで、彼女たちは健康関連のウェブサイトなどで相当活躍しているのではないかと推測されます。ウェブサイトの相談コーナーに「病をもつ子どもの献身的な母親」としてさまざまな質問や相談をよせている可能性は十分あると思われます。自分のホームページ、ブログで「献身的な母親」を演じている母親もいるかもしれません。

 もし、それによって、彼女たちの欲求が満たされるのであれば、まだしも、子どもたちにとっては喜ばしいことです。子どもに危害を加える機会が少しは減るかもしれないですから。

 しかし、そう楽観していいのものなのか、いまのところ、よくわかりません。インターネットという仮想空間で満足できるのであれば、もともと、彼女たちは空想、夢想の世界で理想的母親を演じ、医者や教育者や警察官や検察官たちを操ったかのような錯覚に陥るだけですんだはずです。しかし、現実には、そうはなっていません。実際に子どもたちの症状を捏造し、偽造し、病院、学校、警察に連れていって、医者、教師、警官、検察官を騙し、自分の思うとおり操らなければ、気がすまないです。その行動様式を考えると、インターネットという仮想世界で組み立てた自分の欲望の仮託を現実化するために、やはり、病院、学校、警察に子どもを連れて現れているものと推測されます。子どもをだしにして、理想的母親像を演じ、他人を騙し、操ることが彼女たちのつきることのない欲望であるならば、残念ながらそういうことになってしまいます。

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クラーク裁判

 このように、代行性ホラ吹き症候群はさまざまなところに「活躍」の場を広げています。しかし、その一方で、この症候群の「発祥の地」英国では、代行性ホラ吹き男爵症候群という概念が疑惑の目でみられるようになっています。そして、ついには、メドーが診療ライセンスを剥奪される事態にまで発展しているのです。ライセンスの剥奪理由は、とある刑事裁判におけるメドーの医学鑑定証言が不適切だったというものでした。

 ことの起こりは、サリー・クラークという女性が二人の息子を殺した疑いで起訴され、3番目の子どもが保護されたことでした(R v Cark)。

 サリー・クラークは事務弁護士で、夫のスティーブも同じ職についていました。

 二人の間に生まれた最初の息子クリストファーは正常出生の健康な児でした。しかし、生後11週、突然、死んでしまいます。

 突然死の約1か月前、クリストファーが生後5週目の時、友人にクリストファーをみせるため、夫婦はロンドンのストランドパレスホテルに息子を連れていっています。そして、この時、クリストファーは鼻血をだしたようです。しかし、その後は何ごともなく過ごしていました。

 ところが、生後11週目、クリストファーは揺りかごの中で真っ青になってぐったりしているところを母親のサリーによって発見されます。夜、ミルクを飲んだ後のことでした。その日、クリストファーは鼻づまり気味でした。しかし、それ以外は、死の直前までクリストファーになんの異常もみられていません。クリストファーは救急車で病院に運ばれ、救命措置が施されました。しかし、1時間後、死亡が宣告されます。

 死後、内務省専属病理学者ウィリアム医師によって病理解剖が行われました。体表には、擦り傷がみられ、口腔内粘膜にも断裂、出血が認められました。しかし、ウィリアム医師はこれらの所見を心マッサージ、気管内挿管などの救命措置の際できたものと判断しました。死因は下気道感染とされましたが、これは、葬儀を行うために何らかの死因を附ける必要があったため、気管と気管支にわずかな量の痰をみつけたウィリアムがとりあえずつけた病名だったようです。しかし、一応、肺組織が一部、保存されました。そして、最終的には、乳児突然死症候群Sudden Infant Death Syndrome(SIDS)の一例として処理されました。

 乳児突然死症候群(Sudden Infant Death Syndrome (SIDS))というのは、それまでまったく元気だった赤ちゃんが、何の前触れもなく、突然、死んでしまう病態の総称です。多くの場合、赤ちゃんは、眠っている間に呼吸を止め、蒼くなって死んでいるところを発見されます。クリストファーのように、ベッドに寝かされる前、ミルクを飲んでいることも多いようです。ほとんどの赤ちゃんが死の直前まで健康ですが、鼻水や咳などの軽い上気道炎症状がみられていた例も報告されています。

 かなり昔からあった疾患群と考えられ、その証拠としてよく引用されるのが、ソロモン王の逸話が描かれている旧約聖書の列王記略(上)3-16です。3日違いで子供を産んだ二人の娼婦が同じ部屋に赤ん坊たちと寝ていて、一人の娼婦の赤ん坊が突然、死んでしまいます。この赤ん坊が死ぬ場面は

 「此(この)婦(をんな)其子(そのこ)の上に臥(ふし)たるによりて夜(よ)の中(うち)に其子(そのこ)死(しに)たれば」

 と、母親に押しつぶされて窒息して死亡したかのようにえがかれています。しかし、「上に臥(ふし)たる」は娼婦の赤ん坊の死因ではなく、実際にはSIDSで死んだものと推定されているのです。

 今に至るもSIDSの原因は不明です。というより、原因不明の乳児の突然死がSIDSと呼ばれているのです。一般的な定義では

 「一歳未満の乳児にみられる突然死で、剖検、検死、病歴検討を含む死後の完璧な検索によっても死因を特定できないもの」

 です。月齢2か月から4か月にかけて多発し、生後6か月までの赤ちゃんがSIDSの9割をしめます。アメリカでは、1988年の時点の発生頻度が出生数1000にたいして1.4で、当時、乳児死亡原因の2位を占めていました。しかし、赤ちゃんのうつぶせ寝をやめて、仰向けに寝かせるキャンペーンが行われた結果、1995年には発生頻度が1000に対して0.5にまで下がっています。

 しかし、それでは、うつぶせ寝がSIDSの原因なのかというと、必ずしもそうとはいえません。旧約聖書の記述にもみられるように、SIDSの原因としては、窒息がまっさきに疑われるのですが、死亡時の状況から見て、窒息が死因とはとても考えられないことがほとんどなのです。気道が痰などで詰まっているわけではありませんし、発見時、赤ちゃんの鼻と口が服や毛布などでふさがれているということもありません。病理学的にも、窒息を示唆するような所見はみられません。

 こうしたことから、SIDSを起こす赤ちゃんは呼吸機能が未熟で、ちょっとしたことで息を止めてしまうのではないか、という「無呼吸仮説」が提唱されたこともあります。呼吸ができなくなれば普通は苦しくなって目覚め、何とか呼吸しようとします。しかし、呼吸機能がきちんと発達していない一部の赤ちゃんは目覚めることなく、呼吸を再開せず死んでしまうのではないか、というのがこの無呼吸仮説です。

 しかし、以前申しましたように、隠しビデオ診断でご紹介したサウスオールたちは膨大なデータを基にこれを否定しました(Southall DP (1983) Identification of infants destined to die unexpectedly during infancy: evaluation of predictive importance of prolonged apnoea and disorders of cardiac rhythm or conduction. Br Med J 286:1092-6) かれらは9千人以上の赤ちゃんの心電図と呼吸波形を記録しました。そして、この検査が行われたあと、29人の赤ちゃんがSIDSで死亡しました。しかし、この29人のSIDS犠牲者のうち、呼吸波形に「呼吸の未熟性」を示唆する異常所見が認められていた赤ちゃんは一人もいませんでした。むしろ、SIDSで死亡しなかった赤ちゃんのほうに異常呼吸波形がみられていたのです。

 無呼吸仮説以外にもSIDSの原因として中枢神経説、心臓説、呼吸器説などさまざまなものが唱えられました。しかし、SIDSを説明することに成功したものはどれ一つとしてありません。SIDSに関して行われた膨大な数の研究によって薄ぼんやりとわかってきたことは、SIDSは単一疾患ではなく、さまざまな疾患の集合だろうということです。そして、いずれが原因であっても、最終的にはなんらかの同一異常機構によって、普通の赤ちゃんではなんということもない環境下で、突然、呼吸停止に至る事態が発生するということです。

 繰り返しになりますが、SIDSは「死因を特定できない」疾患群です。このため、さまざまな原因が否定されたあとで、ようやく、SIDSであることが確定します。したがって、SIDSが疑われたら、まず、何はともあれ、鑑別診断をしなくてはなりません。死をもたらすような疾患の可能性を一つ一つ否定していくのです。

 ところが、この鑑別診断において、とんでもない「疾患」を除外しなくてはいけないことがわかってきました。

 隠しビデオ診断で述べたような窒息による虐待が、SIDSの好発月齢でもなされており、かなりの割合で、この「殺人」がSIDSと「誤診」されていることがわかってきたのです。これに関しても、サウスオールたちの研究が有名です(Southall DP et al. (1997) Covert video recordings of life-threatening child abuse: lessons for child protection. Pediatrics 100:735-60)。かれらは部屋の4隅に隠しカメラを設置し、天井に隠しマイクを貼りつけた病室で、生命の危険にさらされるような症状が何度もみられたとして紹介されてきた36例の小児を観察しました。そして、36例中30例が親によって窒息させられていたことが判明したのです。この30例中12例の兄弟が突然死で死んでいました。そして、そのうち11例はSIDSで死亡したということになっていました。隠しビデオで子どもを窒息させている証拠を押さえられた親のうち4名は、SIDSで死んだとされている兄弟をも窒息させて死に至らしめていたことを認めました。このような衝撃的な報告があったため、SIDSにおいては嬰児殺しの可能性をつねに念頭に置くべきだとされるようになりました。そして、このことが、クラーク夫妻の次男が長男と同じような状況で死亡したとき、問題となります。

 クリストファーが「SIDS」で突然死した1年後、クラーク家に次男、ハリーが生まれます。在胎週数37週とやや早めの出生でしたが、クリストファー同様、元気な赤ちゃんでした。長男がSIDSで死亡したため、SIDSを経験した親のためのプログラム「次児ケアープログラム」によるカウンセリングと助言をサリーは受けました。さらに、このプログラムによって無呼吸モニターの貸しだしもうけています。

 ところが、ハリーも生後8週、突然、死んでしまいます。

 夜、夫のスティーブがハリーを寝かせつけた数分後、ハリーが真っ青になって息をしていないのをサリーが発見したのです。スティーブが救命措置を行いましたが、救急隊が到着したとき、すでにハリーの生命徴候はみられませんでした。そして、発見から1時間半後、死亡が宣告されます。

 病理解剖は再び、内務省病理学者ウィリアム医師によって行われました。ウィリアムは病理解剖において、肋骨骨折、脊髄病変、眼球後部の出血を認め、小児虐待の一つ、乳児揺さぶり症候群shaken baby syndromeがハリーの死因と断定しました。このため、クリストファーの死因についても再検討がなされ、かれも窒息死させられたのではないかという疑惑が浮かびあがってきました。

 クラーク夫妻にたいする事情聴取がなされました。

 この時、ハリーが死亡した夜の帰宅時間にかんして、父親のスティーブの説明が曖昧だったため、警察は夫が妻のサリーの疑いをかわす隠蔽工作をしているのではないかと疑念を抱きます。さらに、ハリーが死んだ直後、サリーが「また次の子を作ればいいのよ!」と口走っていた事実も、疑念を深めました。クリストファーとハリーが死亡した月齢、死亡時間、死亡状況が似通っていることも、偶然の一致とは考えられないとみなされました。こうして、夫婦は殺人容疑で逮捕され、最終的に母親のサリーがクリストファーとハリーを殺害した容疑で起訴されます。

 乳児揺さぶり症候群というのは、大人(通常は両親、もしくは、継母、継父で、大人といっても、大人と同等の体格の中高校生ということもありえます)が赤ちゃんを激しく揺さぶり、このため、意識を失うほどのひどい脳挫傷をきたす小児虐待の1型です。虐待者は赤ん坊が泣き続けるのをやめさせようとして揺さぶることが多いようです。揺さぶられると、赤ちゃんの頭は首を支点として激しく振り回されることになります。頭は、硬い頭蓋骨と柔らかな脳でできています。激しく揺さぶられると、固い容器に入った豆腐のように、脳と血管は引き裂かれ、砕けます。揺さぶられた赤ちゃんは泣きやみますが、泣きやむのは、気絶したためです。神経線維と血管が引きちぎられ、脳がふやけ、脳圧が亢進し、脳血流が低下、意識を失うのです。下手をするとそのまま死亡してしまいます。死に至らなくても、重篤な運動障害、知的障害が残存します。

 乳児揺さぶられ症候群の最大の特徴は、表面的には暴力を受けた痕跡がみつからないことです。病変は頭蓋内の脳や血管に限局していますから、他の小児虐待と違い、火傷や骨折といった暴力の跡がみつからないのです。したがって、そのつもりでみないと、小児虐待であることを見逃してしまうおそれがあります。

 病理解剖でウィリアム医師は顔面の出血斑、眼球後部の出血、陳旧性肋骨骨折、肋骨脱臼、陳旧性肺出血、脊髄の腫脹、脊髄硬膜下出血、脳の軽度出血、虚血性変化をハリーに認めました。ウィリアムが乳児揺さぶり症候群を疑ったのは、眼球後部の出血、肋骨骨折・脱臼、脊髄の腫脹を認めたためでした。

 たしかに、揺さぶり症候群では脳の一部である視神経の表面に当たる眼底に出血を認め、特徴的な所見とされています。しかし、眼球後部の眼球外出血は、揺さぶり症候群とは無関係です。さらに、揺さぶり症候群の主病変である脳挫傷もハリーには認められていません。揺さぶり症候群を示唆する所見は皆無に等しかったのです。

 予審時にはまだウィリアム医師は脊髄病変を根拠に乳児揺さぶり症候群をハリーの死因と主張していました。しかし、メドーを含めた検察側医学鑑定証人たちは乳児揺さぶり症候群の可能性を否定(検察側証人としてはウィリアム以外に、内務省の顧問病理学者グリーン、小児病理の専門家キーリング、そして、メドーがいました)、裁判が始まる3日前に、検察側はハリーがサリーによって窒息死させられたと起訴理由を変更しました。そして、クリストファーもハリーと同一の原因で死んだものと推定されました。

 ウィリアムが報告した病理解剖所見に加え、ハリーが死亡したときの状況にかんするサリーの説明が不自然だったことも、起訴理由の一つになりました。死んでいるのを発見したとき、ハリーはベビーチェアーbouncy chair に座り、頭を垂れていたとサリーは証言していたのです。しかし、警察医は生後8週の子どもが椅子に座って頭をたれることなどあり得ないと指摘しました。さらに、前に述べたように、クリストファーとハリーが死亡時いずれも生後3か月未満であること、同じベビーチェアーで、同じ時刻(夜9時30分前後)に死んでいること、死んだ時そばにいたのは母親のサリーだけだったことも殺害を示唆する状況証拠とみなされました。そして、病理所見は突然死がおこるずっと以前からハリーが繰り返し窒息させられ、突然死の直前にも危害が加えられた可能性を示唆しているとみなされました。

 ただし、検察側の医学鑑定証人の意見がすべて一致していたわけではありません。

 たとえば、体表の出血斑が窒息によってもたらされた所見であるという点については検察側証人たちの意見はほぼ一致していましたが、眼球後部の出血については、窒息によるものとする意見と死後に生じた人工産物であるとする意見に別れました。さらに、病理解剖所見からみてハリーの死因が自然死といえないという点では一致しましたが、窒息に関しては、それを否定できないとする意見と、窒息とは断定できず「説明不可能な死」としかいえないという意見に分かれました。

 弁護側の医学鑑定証人(SIDSを専門とする病理学者、周生期病変を専門とする病理学者、目を専門とする病理学者、小児科医の5名)はハリーが窒息死したとする検察側の見解にかなり否定的でした。

 まず、脊髄の腫脹については、解釈の誤りで、病理学的な確証はなく、脊髄硬膜外出血についても、死後解剖に普通にみられる所見であり、死因を示唆するものではないという反論がなされました。また、脳の出血も死後に生じた所見である可能性が示唆されました。脳の虚血性変化は窒息させられた結果である可能性を否定できないものの、死に伴う非特異的変化にすぎない可能性もあると指摘されました。また、肋骨骨折については、その存在を怪しむ意見が出され、肋骨の脱臼については、脱臼に伴う周囲組織の破壊、および、出血がみられるはずであるのに、まるでみられない点が指摘されました。

 きわめて憂慮すべき所見がいくつかみられるという弁護側証人もいましたが、死因を特定するにはデータが不十分だとする意見が少なくありませんでした。

 クリストファーに関しては、体表に擦り傷がみられ、残された肺の切片に新旧の出血の証拠が認められており、自然死やSIDSで死亡したとはいえないという意見が検察側証人の大半を占めました。しかし、死因については特定できないという意見もみられ、クリストファーについても検察側の意見は一致していませんでした。

 弁護側はまず、クリストファーの体表に傷があったという司法解剖時のウィリアムの所見に疑問を呈しました。死亡宣告前、救命救急センターでクリストファーを診た医師は体表の傷に気づいていなかったのです。そして、病理解剖時に撮影された写真はぼやけており、傷があった部位の組織も保存されていないので検証不能でした。さらに、肺の出血については、生後5週目の鼻血のせいではないかとの指摘がなされました。たしかに、肺出血は窒息させられた結果といえないこともないが、ウィリアムがきちんと病理解剖行っていないため、死因は確定不能といわざるを得ないという意見が大勢を占めました(鼻血に関して検察側は、生後5週目の鼻血がでることがまれであり、そのこと自体が異常であると指摘しました。さらに、鼻血が肺に侵入した可能性は、クリストファーがそのために病院を受診するほどの大事至っていないことから考えて、あり得ないという意見でした。ただし、肺にこれほどの出血所見を認めたのであれば、さらなる検索が病理解剖時に行われるべきだったという点では、弁護側と一致していました)。

 二人の子どもを何度も窒息させた罪でサリーは起訴されたのですが、疑わしい所見はみられるものの、検察側は決定的な証拠を指摘できない状況が続きました。

 そうした中で、メドーはウィリアム、グリーンに続いて証言台にたちました。

 彼はまず、クラーク事件が代行性ホラ吹き男爵症候群の事件といえるかという質問に、まったくちがう、と答えています。そして、サウスオールたちが行ったような隠しカメラ撮影による虐待診断について説明しました。母親がわが子を窒息させるさまを陪審員に詳細にわたって具体的に描写し、さらに、SIDSが(母親が睡眠中の)真夜中に起きるのにたいし、不審死の3分の2は夕方から夜にかけて起きる点を指摘しました。窒息させられた赤ん坊の徴候にかんしての質問に対しては、顔面、体表の特異な傷、鼻や口の周りの新鮮血、軟部組織の点状出血が特徴であることを指摘しました。そして、クリストファーにみられた傷は窒息に特徴的なものといえないものの、かといって、それを否定するものでもないと言い添えました。さらに、窒息させられたにもかかわらず病理解剖においては何の所見も見だされない乳児がいることも指摘しました。

 そして、予審においてメドーが発言し、検察側が裁判冒頭で引用していたSIDSの発生率について、弁護側からの反対尋問を受けます。

弁護側

「ハリーが生まれたとき、SIDSで死ぬ確率はクリストファーと同じだったのではないですか?1対8543でしたっけ?コイン投げのように、 毎回、表、裏、同じ確率ではないのですか?」

メドー

「すべての子どもに起こることを一緒くたにして考えるとそうなります。しかし、(同一家庭内で)二人がたて続けに死ぬ確率はきわめて低くなります。1:7300万です」

弁護側

「つまり、SIDSが2回発生するのは、(英国では)100年に一回だと?」

 このあと、メドーは競馬に喩え、一家族にSIDSが2回続けてみられるのは、予測勝率80分の1の馬に賭け、4年連続、万馬券を当てるようなものだ、と説明しました。

 メドーのあとにも、検察側、弁護側から何人もの専門家が証言にたち、さまざまな意見が飛び交いました。病理結果をみる限りにおいては、二人の子どもが自然死したとはいえないという意見が大勢を占めました。しかし、それでは、死因は何かとなると、断定的な証拠はでませんでした。窒息させられた可能性を否定はできないが、かといって、肯定もできないという意見が検察側証人からもでました。

 そうした中で、審理が進み、最終弁論がなされ、評決に至ります。

 そして、陪審員は10対2で有罪という判断を下しました

 こうして、1999年10月9日、サリーは二人の息子を殺害した罪で終身刑を言い渡されます。

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誤れる統計数字

 サリーの夫のスティーブ、警察関係の元高官であるサリーの父親、そして、サリーの友人たちは彼女の無罪を固く信じていました。そして、有罪判決後もサリーの無実を訴え続けました。ホームページを立ち上げ、その一方で、マスコミを含め各方面に働きかけたのです。

 クラーク夫婦も父親も、法律の専門家ですし、サリーの無罪を信じる友人たちの中にも法曹関係者がたくさんいました。私情を離れ「プロの目」からみても、サリーの有罪判決は納得しかねるものでした。二人の子どもが自然死ではないかもしれないいくつかの所見はあるものの、殺害されたという決定的証拠もない、というのがクラーク裁判にかんするかれらの判断でした。疑わしきは罰せずの原則からいえば、サリーが有罪になるはずがないとかれらは信じていました。

 それなのに、有罪判決がでてしまったのです。

 そこには、「誤審」に導いたなんらかの「不正」がなくてはなりません。

 その時、かれらが目をつけたのが、メドーによるSIDSの発生頻度にかんする証言でした。とくに、審判直前に、判事が陪審員にメドーによる統計数字に「注意を促した」ことを問題視しました。最終弁論二日目、判事はメドーのSIDSにかんする証言について次のように触れていたのです。

 「メドー教授が述べた数字は綿密な調査研究から引用されたものであります。すなわち、乳児突然死の確率は1人目が一対8543、二人目が1対7300万というものです。このことは、同一家族内でSIDSが発生するのは百年に一度であることを意味します……

 ただし、統計数字は注意してあつかわねばなりません。いかに説得力をもっていようと、統計数字だけを根拠に有罪が宣告されることがあってはなりません。それは、とんでもないことです。ある家族にSIDSが起こったということは、次にSIDSがけっして起こらないということを意味するものではありません。統計数字は証拠の一部に過ぎません。それ以上の何ものでもありません」

 もちろん、これは、統計数字だけに左右されないようにとの判事から陪審員への忠告です。しかし、これが陪審員たちに判事の思惑とは逆の効果を与えたのではないかとクラーク家とその支持者たちは疑いました。この判事の発言について、サリーの幼なじみの母親で、サリーと同じ事務弁護士でもあったジョン・バットは、クラーク裁判について記した「盗まれし無罪」というの中で次のように記しています(Batt J (2004) Stolen Innocent Ebury Press Random House, London)。

 「陪審員たちは統計数字を参考にして有罪か否かを決めようとしていたのではないだろうか?もしそうであれば、陪審員たちはこの判事の言葉をまったく逆に、許可のサインとして受けとったかもしれない。法律家としていわせてもらえば、判事によるこの指示は法的に間違っている。こんな統計数字を証拠として採用したこと自体、間違いなのだ。証拠たりえない、偏見に満ちた数字を陪審員に提供しないようにする権限のみならず、責務も判事にはあったはずだ。ありていにいえば、この統計数字は、陪審員たちが宝くじで一等を引き当てる(1400万に1という)わずかな確率の、さらに5分の1(7300万に1)にまでサリーの無罪獲得の確率を引き下げてしまったのだ」

 「そのようなとき、メドーに対するクラーク家や支援者たちの不信感に火をつけるような発言がいくつもなされました。

 まず、王立統計協会がSIDSの発生率にかんするメドーの発言を批判しました(Royal Statistica Society concerned by issues raised in Sally Clark case. (News Release, Tuesday 23 October 2001)。

 1家族内にSIDSが2回続発する確率をSIDS発生率を2乗してだすなどというのは統計学的に誤りだというのです。なぜなら、ある病気が同一家族内で2度起こる確率を、一回の確率を二乗してはじきだしてもよいのは、それぞれの事象(SIDS)が相互に何の影響も与えない独立した事象である場合に限られるからです。しかし、同一家族内でSIDSが互いに何の影響も与えず多発することは考えられません。なんらかの遺伝素因、環境要因によりSIDSが多発する可能性があるからです。その場合、SIDSが同一家族内にたて続けに起こる確率は当然低くなるはずです。これが、王立統計協会の見解でした。

 さらに、7300万の1という数字の提示方法も間違っていると統計協会は批判しました。これは「検察の誤謬」として知られる重大な論理上の誤りだというのです。「クラーク裁判で、陪審員は二人の子どもの死因について、SIDSか、それとも、殺人かという二者択一の判断を迫られていた。SIDSにしても殺人にしても、それが立て続けに起こることはきわめてまれだ。この場合、重要なのは、2つの事象が起こりうる確率を両方とも示すことだ。片一方(SIDS)だけをとりあげ、発生確率がきわめて低値であることを示してはならない。そんなことをすれば、判断を誤らせることになる」というのです。つまり、2回立て続けに嬰児殺しが起こる確率と、2回立て続けにSIDSが起こる確率をいずれも提示すべきだったというわけです。

 そして、医師による臨床統計上の重大な誤りを協会は見過ごすわけにはいかないと王立統計協会は付言します。「臨床統計の誤りが生と死の分岐点になりうることはよく知られている。クラーク裁判は医学鑑定を行った医師が重大な統計上の誤りを犯した1例だ。そして、それは判決に重大な影響を及ぼした」と協会は結論付けました。

 さらに、ストックポート市公衆衛生部長のステフェン・ワトキンスが英国医学雑誌上で追い打ちをかけます(Editorials (2000) Convition by mathematical error? Br Med J 320:2-3).

 7300万の1という数字はメドーが確率論をまるで理解していないことを示しており、しかも、その数字がサリー・クラークを有罪に追いやった、と断じたのです。(ワトキンスはのちにBBCのラジオ番組に出演し、次のように説明しています。「今週の土曜、私が宝くじに当たる確率はきわめて低いことは、ご理解いただけますよね。しかし、誰かが宝くじに当たる確率は極めて高いのです。ところが、メドー卿は、ある1人の人間が宝くじに当たる確率は低いのだから、宝くじに当たった奴は誰であれ、詐欺をはたらいているに違いない、と断言したのです」)。ワトキンスも統計協会同様、同一家族内のSIDSは独立した事象とは考えられないと指摘しました。さらに、家族内多発SIDSの発生率は通常の5倍という報告を引用し、これを当てはめると、1年半に1回は英国のどこかの家庭で2回目のSIDSがみられることになるという試算を示しました。刑事裁判における確率論運用のガイドラインを早急に作成する必要がある、とワトキンスは提案しています。

 問題となっている統計数字ですが、これは、出版を間近に控えていた政府報告書からメドーが引用したものでした。この報告書には、死産と乳児死亡ついて極秘に行われた調査結果が記載されていました。裁判の前、メドーは報告書の序文を書くよう依頼を受けており、このため、草稿が手許にあったのです。

 検察側の質問に答えてメドーがこの報告書の中から引用し、陪審員に説明したのは、クラーク家のような裕福で両親とも煙草を吸わない家族において、SIDSが起きる危険性は8543出生に1の割合であり、同一家族内に2回SIDSが起きる確率は8543を二乗した7300万出生に1である、というものでした。したがって、問題となっている7300万という数字はメドーが算出したものではありません。

 ただし、8543出生に1というSIDSの発生率は、じつは、喫煙者のいる家庭でのSIDS発生率との対比で報告書の中では提示されていました。両親が喫煙をしないとSIDSの発生率が低くなるという教育的な意味が込められていたのです。さらに、「1家族にSIDSが2例発生した場合には、遺伝疾患の有無を注意深く検索し、さらに、SIDS発生の状況についても徹底的に調べるべきである。必ずしもSIDSの多発が小児虐待を示唆するわけではない」という注意書きもなされていました。しかし、裁判においてメドーはそうしたことについては言及せず、たんに数字だけを提示していました。

 裁判中、検察側も弁護側もクラーク家の二人の子どもがSIDSで死亡したとは考えていませんでした。ですから、ジョン・バットが指摘しているように、SIDSの発生率は審理と無関係の数字でした。しかし、どういうわけか、メドーが引用した7300万に1という数字は裁判中から存在感を誇示し、一人歩きを始めていました。裁判冒頭において検察側からまず引用され、メドーが検察側、被告側双方からの質問に答え、最終弁論においても触れられたのです。陪審員の判断に影響を与えたかどうかは不明ですが、目立っていたことだけはたしかなようです。それは、メドーという人の存在感のせいかもしれません。バットは証言台にたったメドーを「魅力的な立ち居振る舞いと確信に満ちた発言」をする人物として描いています。

 裁判の翌年、クラーク家とその支援者たちは統計協会やワトキンスの意見をもとに、メドーの「誤まれる統計数字」が間違った判決に導いたと主張、眼球後部の出血にかんする疑惑や裁判手続きなど他の4つの理由もそえ、控訴裁判所に上告します。

 しかし、最初の裁判から1年後、2000年11月の控訴審では、逆転判決に至りませんでした。

 控訴審は、引用したSIDSの統計数字の判断材料としての限界をメドーが陪審員に説明することを怠たり、このため、統計数字が不適切に扱われた可能性があることを認めました。しかし、弁護側も検察側も、クラーク家の二人の子どもがSIDSで死亡したとは考えておらず、したがって、その発生頻度について突っ込んだ議論もなされていない点を指摘しました。そして、裁判の本筋を考えるならば、統計数字の重要性は認められず、統計数字に引きずられて陪審員が評決を下した可能性もないという判断がなされました。「すべての証拠を鑑みても、被告を有罪と認めざるを得ない“圧倒的状況証拠”が認められる」という結論のもと、クラーク側の訴えは却下されました。圧倒的状況証拠とは、古い虐待の跡と死の直前に受けたと疑われる暴力の痕跡をさします。

 しかし、それでもクラーク家とその支援者たちはあきらめませんでした。さまざまな活動を行い、メディアをも味方につけるようになります(「盗まれし無罪」の著者、ジョン・バットは人気TV法廷番組に関係していたことがあるようで、どうやら、メディアに人脈をもっていたようです。ですから、様々なパイプを使い、さまざまなメディアに働きかけたのかもしれません)。

 最初の判決の時、メディアはサリーを、恵まれた環境にありながらアルコール中毒とうつ病のせいで二人の息子を殺した女として冷たく扱っていました(BBC News Tuesday, 9 November, 1999)。しかし、上告棄却前後から、サリー・クラークに同情的な論調が現れます。そして、それと反比例するかのように、メドーがマスコミの槍玉に挙がるようになりました。

 1997年に出版された「児童虐待のABC」という本の中でメドーは「“1人の赤ちゃんの突然死は悲劇であるが、他で証明されなければ、2人目の突然死は怪しいし、3人目なら、殺人だ”これは、かなりおおざっぱな格言だが、そうした悲劇に遭遇し、それに対処する人間にとっては実用的な運用規則だ」と書いていたのです(Meadow, Roy ed.(1997). ABC of Child Abuse 3rd Ed. BMJ books. pp.29)。この本は医者向けに書かれたハンドブックですが、児童虐待の種々相について、法律や裁判制度もふくめ、わかりやすく、正確に、かつ、簡潔に記載されており、児童虐待にたずさわる非医療職の人々にも重宝がられていました。実際、第3版のハンドブックの背表紙には「本書は児童虐待を包括的に扱っており、子どもの福祉にたずさわる一般開業医、救急医、小児科医、警察官、精神科医、看護師、訪問保健婦、ソーシャルワーカー、法律家など広い分野の専門家にとって貴重な参考資料となるであろう」と書かれています。そのためでしょう、英国においてメドーのこの「おおざっぱな格言」は小児虐待にかかわる人々の間で「メドーの法則」として有名になっていました。そして、このメドーの法則に則ったかのように、乳児が2人、3人と立て続けに原因不明の突然死をとげた家族の母親が何人もサリーと同じように起訴され、刑事裁判で有罪の判決を受けていました。そして、メドーはクラーク裁判以外にも、こうしたさまざまな「嬰児殺し」裁判の医学鑑定証人として証言台にたっていました。

 そうしたことが、メディアの疑惑を招き、メドーへの攻撃材料にまでなってしまったのです。

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ラジオドキュメンタリー番組

 2002年7月にBBCラジオ4で放送されたドキュメンタリー番組は、当時のメディアによるメドーバッシングの状況を窺ううえで格好の材料です(Sally Clark Transcript of File on Four )。

 番組の司会はさまざまな社会問題を突撃取材する名物レポーター、ジョン・スウィーニーです。

 番組は「母親が自分の赤ちゃんを殺すという犯罪ほど恐ろしいものは、おそらくないでしょう。しかし、もしその赤ちゃんの死が殺害によるものではなく、自然死だとしたらどうでしょう、そして、母親がやってもいない殺人の罪に問われたとしたら?」というスウィーニーの言葉で始まります。

 「今週、自分の子どもを殺したとして無期懲役の刑に服しているチェシャー州の事務弁護士サリー・クラークの裁判が再び控訴審に戻されます。最初の裁判の時、陪審員に示されなかった新たな証拠がみつかったからです。

 今宵、BBCラジオ4は母親が自分の子どもを傷つけたり殺したりしたとして告訴されたとき、医学鑑定証人が過大な影響力をおよぼす恐れがないかどうかを検証します」

マーク・ハイネス

私の小さな女の子は永遠の旅へと旅立ち、もう1人の娘は国家によって合法的に誘拐されてしまいました……たった1人の男の言葉のために」

その「男」というのが、メドーです。そして、サリーの夫、スティーブの登場です。

スティーブ・クラーク

今度こそ妻に正しい審判が下されることをわれわれは心から願っています。裁判の時、被告側に示されなかった新たな医学証拠がみつかったのです。その証拠は、われわれの子どもの1人が病気で死亡したことを示しています。

ジョン:スウィーニー

スティーブ・クラークは妻のサリーを終始変わることなく支え続けてきました。かれらの赤ちゃんが自然死で死んだ確率は7300万に1つと陪審員に説明がなされたために、サリーは有罪判決を受け、新聞に責め立てられました……彼女は息子二人を殺害したとして終身刑を宣告され、刑務所にいます。しかし、スティーブはずっと妻の無実を信じてきました。そして、いま、彼女の無実を証明する証拠がみつかったのです。

スティーブ・クラーク

われわれは息子たちが死んだ病院に、繰り返し、繰り返し、子どもたちの医学記録をすべて提示するよう要求してきました。昨年末、やっと、その書類を手に入れることができました。そして、そこに、裁判の時、われわれには示されなかった、ある報告書をみつけたのです。

ジョン・スウィーニー

スティーブ・クラークは内務省の病理学者アラン・ウィリアム医師が依頼した臨床検査報告に注目したのです。しかし、最初それをみたとき、かれはその意味するところがわかりませんでした。

スティーブ・クラーク

医者じゃないですからね、最初の反応は、『いったい、何だ?これは』でした。そこで、われわれを陰で支えてくれていた医師たちにそれをみせました。かれらはほとんど叫ばんばかりにいいました、『やった!』と。それは、息子の死が自然死だったことを強力に示唆する検査結果だったのです」

検査結果というのは、ハリーの死後採取された髄液からブドウ球菌が検出されたというものでした。著名な病理学者二人がその結果を見て、ブドウ球菌感染がハリーの死因の可能性が高いとコメントしたと、スウィーニーは解説します。そして、メドーのことが紹介されます。

ジョン・スウィーニー

サー・ロイ・メドー教授は英国における医学鑑定のスーパースターです。王立小児科医会初代会長であり、『小児虐待のABC』の著者であり、代行性ホラ吹き男爵症候群という疾患概念を初めて提唱した人物でもあります。この症候群においては、母親が自分の子どもを病気であるかのように言いつのって、危害を加え、殺してしまうことさえある、とされています。かれはあまりに傑出した医学鑑定証人であるので、医学証拠をどのように解釈すべきか判事たちに講義さえしています。

自分の赤ん坊を殺してしまう母親がいることを否定する人間はいません。

しかし、間違いを起こさない人間もいないのです。

クラーク裁判でロイ卿は、一家族で二人の赤ん坊が立て続けに突然に自然死する確率は7300万分の1にすぎないと陪審員たちに解説しました。そして、陪審員は10対2でサリーに有罪の評決を下しました。しかし、多くの統計学者は『7300万分の1』という数字を批判しています。ロイ卿も間違いを認めました。しかし、それは大きな誤りではなかったと弁解しています。『統計数字の限界に言及しなかったのは遺憾だが、裁判において決定的な問題ではなかった』というのです。

ロイ卿の方法論はメドーの法則と呼ばれるものに基づいています。それは、“1人の赤ちゃんの突然死は悲劇だが、他で証明されなければ、(同一家族内の)2人目の突然死は怪しいし、3人目なら、殺人だ”という経験則です。そして、この法則はロイ卿の著書によって医者、警官、ソーシャルワーカー、そして、判事の間にまで広まっています。

ロイ卿とメドーの法則のために刑務所に入れられ、無実を訴え続けているのはサリーだけではありません。

テリー・カニングス

ジェンマが死んだとき、あの娘は生後14週でした。ジェイソンはかわいそうに8週間しか生きていませんでした。そして、マチューは、ジェンマより少しだけ長く、15週間生きていました。

ジョン・スウィーニー

アンジェラ・カンニングスの夫、テリー・カニングスです。メドーの法則によれば、他に証明されなければ、乳児3人の突然死は殺人ということになります。この夫婦はすでに2人の子どもを亡くしていました。そして、3人目です。

テリー・カニングス

マチューは1999年10月12日に死にました。子どもたちを診てくれていた友人の医者が私の耳にささやきました。「テリー、これで三人目だ」……フィンリー部長刑事がやってきて、アンジェラの手をとり、言いました「申し訳ないが、ジェンマ、ジェイソン、マチューの殺害容疑であなたを逮捕しなければならない」

ジョン・スウィーニー

アンジェラ・カンニングスは今年の春、殺害容疑で終身刑を言い渡されました。法廷で3人の子どもの死が自然死ではないと証言した医学鑑定証人の1人がサー・ロイ・メドー教授です。

しかし、アンジェラ・カンニングスは無罪を訴え続けています。

なぜ、彼女が有罪となったのか理解できないという人もいます。

デービット・ドラッカー博士はマンチェスター大学の細菌学者でSIDSの遺伝子について最先端の研究をしています。かれの同僚はカニングス家の最後の子ども、マチューについて検討し、免疫機構が働いていなかった可能性があることを突きとめました。マチューは感染攻撃に無防備だったのです。

ドラッカー博士

この赤ん坊はあらゆる種類の抗体がなきに等しい状態でした。すくなくとも私たちが用いた検査方法では抗体が検出できませんでした。裁判の時、こんなにわずかな抗体では、死ぬか、重篤な状態に陥ってしまうだろう、とコメントしたことを私は覚えています。陪審員たちがそれを聞いたことは間違いありません。しかし、かれらの頭の中を私の言葉がどんな風に通り過ぎていったのでしょうか。これほど重大な証拠をどうしてかれらが無視できたのか、私には理解できかねます。

ジョン・スウィーニー

ラジオ4は、ハリー・クラークを殺害したものと同じ殺人微生物、ブドウ球菌がカニングス家の二人の赤ん坊から検出されていることを確認しています。アンジェラの弁護士は、アンジェラの有罪判決が妥当性に欠けていることを証明する、新たな動きがあるものと信じています。

メドーの法則によって勢いをました偏見を、カニング裁判で被告側は常識で押し返すことができませんでした。突然死する赤ちゃんの数が増えれば増えるほど、母親が殺人者である可能性は高まってしまうのです。

家族内にSIDSが多発するという証拠はないが、家族内に小児虐待が多発するという証拠はいくらでもある、とメドー教授は言っています。しかし、SIDSが家族内に多発しないとすれば、SIDS遺伝子など存在するはずがありません。

次に、ブリストル大学の疫学教授、ジーン・ゴールディング博士にご登場ねがいます。彼女はカニング裁判に検察側証人として招集されましたが、予審時に証拠書類を読み、弁護側の証人に立つことを決心されました。法廷で彼女はメドーの方法論に噛みつきました。メドーがコントロールグループを置かずに話を進めていたからです。

ジーン・ゴールディング

私はロイ卿のやり方を切手収集にたとえています。かれの方式は適切な科学的研究方法とはいえません。ロイ卿は傑出した小児科医かもしれませんが、傑出した科学者ではありません。

ジョン・スウィーニー

自分の赤ん坊を殺した罪に問われている女性にたいして、メドー教授は信頼のおける証人といえるでしょうか?

ジーン・ゴールディング

いえません。どんな裁判の時も、かれはあらかじめ、ある信念をもってのぞんでいますから。誰かが赤ん坊を殺したと信じこんでいる人間に、母親が殺していないことを証明する方法などありません。母親が家で赤ちゃんと二人きりのとき、その赤ちゃんが死んだら、病理学者ですら、いかなる証拠も提示できません。当然、母親も、殺人を犯していないと証明する証拠は提示できません。殺人の嫌疑をかけることがいとも容易にできてしまうのです。

こののち、薬物中毒死について争われたカーター裁判、無呼吸発作について家庭裁判所で争われた例など、メドーが関与した裁判例が提示されます。そして、メドーが中毒学についても神経学についても十分な知識を有していない可能性がさまざまの挿話を通じて執拗に暗示されます。そして、最後に、スウィーニーお得意の突撃取材です。

「サー・ロイ・メドー教授にわれわれは出演依頼の手紙を何通も書きました。しかし、返事がありません。当番組は彼に最後のチャンスを提供することにしました。番組の中で我々の懸念に答えてもらおうと思うのです……

ヨークシャー郊外にあるメドー教授宅の玄関前までやってきました。4つの裁判で彼が提示した証拠についての我々の懸念を表明するためです。自宅にいるといいのですが……

メドー教授はドアのところまでやってきました。しかし、この番組には出演していただけないとのことでした。われわれはかれの家の郵便受けに手紙を投函してきました。われわれの懸念をしたためたものです。しかし、返事はありません」

スウィーニーが司会を務めたサリー・クラーク裁判を扱った他の番組について、メドーは、生番組であれば出演したが、自分の発言を録音したのちラジオ局が編集するという話だったので、それでは本意が伝わらないおそれがあるので断った、と説明しています。おそらく、この時も同じ理由でかれは番組出演を断ったのでしょう。しかし、スウィーニーは「メドーの法則」をもじり、皮肉をこめて番組を締めくくります。

「他で証明されなければ、サー・ロイ・メドー教授は統計、遺伝学、中毒学、そして、かれの専門領域である小児科学においてさえ、信頼できない、ということになります。

英国の司法制度の下に起きたこのスキャンダルは、しかし、一個人にとどまる問題ではありません。わが国の司法制度は、赤ちゃんが突然死んでしまったお母さんに不利になるように作られているのです。そして、刑事裁判でも、(そして、おそらくはもっと顕著な形で)家庭裁判所という閉じられた世界でも「疑わしきは罰せず」という原則が通用しないおそれがあるのです。

今回われわれが取材した裁判は、一部の医学鑑定証人が判決に過大な影響を及ぼすかもしれない懸念を呼び起こしました。

サリー・クラーク裁判は控訴審へ差し戻しになりました。他の母親たちもとに続きます。もしサリーが成功すれば、彼女の有罪を確信していた医学鑑定証人たちは、みずからの「有罪」疑惑を晴らす必要があります」

 このコメントで番組は終了しています。

このような番組によって、サリー・クラークへの同情は一気に高まりました。

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「メドーの疑惑の理論」

 そして、「メドーの法則」のみならず、代行性ホラ吹き男爵症候群そのものへの疑問も呈せられるようになります。

 2001年、英国医学雑誌に「代行性ホラ吹き男爵症候群の概念は成熟した」という表題の論説が載りました(Wilson RG. (2001) Fabricated or induced illness in children : Munchausen by proxy comes of age. Br Med J 323:289)。書いたのはウィルソンという小児科医です。論説の中でウィルソンは、首を絞めたり毒物を与えたりして子どもの病気をでっち上げ、医者を欺き、医者を虐待行為に巻き込む現象については、すくなくとも40年前から知られていた、しかし、それが広く認識されるようになったのは、メドーが個人的臨床経験を率直に記載し、ジャーナリスティックな閃きから代行性ホラ吹き男爵症候群という名前を与えてからだ、と記しました。

 この論説にたいして、社会医療管理コンサルタントのプラグネルなる人物が噛みつきました(Pragnell C (2002) Fabricated or induced illness in children : open mind is needed regarding origins of childhood symptoms and illness. Br Med J 324:114)。代行性ホラ吹き男爵症候群という概念はメドーの「個人的経験」に基づいたものにすぎないのか、というのです。

 「一個人の主観的経験だけを基にして診断するのが小児科学のやり方なのだろうか?その「診断」が無数の子供や家族に破滅的な影響を与えるかもしれないというのに…結局、代行性ホラ吹き男爵症候群というのは科学的条件の下での精密な研究をもとにした疾患概念ではないということなのだろうか?適切な期間を設けた臨床試験も行われていないということなのだろうか?王立小児科医会の医師は1小児科医の個人的経験だけに基づいて診断をしているということなのだろうか?そのことをすべての子供と両親に説明する責務はないのだろうか?…小児における病気捏造の頻度は低く見積もられている、というウィルソンの主張も、事実に基づいているのかどうか、疑わしい。もし、かれのいうとおりなら、おそろしく間抜けで、いとも簡単にだまされる、お人好しの、しかも、小児疾患の診断能力に著しく欠ける医者がイギリスだけでも何千と存在するということになるではないか」

 たしかに、プロである医者が患者の母親にいとも簡単にだまされてしまうのは一般の人にとって理解しがたいことかもしれません。プラグネルが表明しているのは、ある意味で、当然の疑問です。

 しかし、騙されてしまうから医者の診断能力が劣っているのかといえば、一概にそうともいえません。医学上の診断能力が優れていても、いや、むしろ、優れているがゆえに、診断上の心理的ワナに陥り、間違った方向に行ってしまう可能性もあるのです。

 まずなによりも、症状をわざわざでっち上げて我が子を傷つける人間の存在など、通常の臨床の場ではまったく想定されていません。しかし、出発点において症状の捏造、偽造の可能性を鑑別診断に入れなければ、あとは、糸の切れた凧同然です。「診断」は迷走するばかりです。メドーが論文を書いたのは、そのことに注意を喚起するためでした。そして、かれの論文が反響を呼んだのも、盲点を つかれたと思った臨床医が多かったからです。

 さらに、日常の診療において絶対的確信をもって診断できることなどめったにない、という事情も考慮に入れる必要があります。どんな名医であっても誤診の可能性は皆無ではありません。ですから、よほどの変人奇人でない限り、臨床医はそのことにいつも漠然たる不安を抱いています。そこに、説明のつかない、いかなる治療にも抵抗する「奇病」が目の前に現れます。むしろ、「診断能力」に優れている生真面目な医者ほど、さまざまな可能性を考え、さまざま検査を行い、あらゆる治療を試みることになります。そのうえ、こうした医者は、実直さゆえに、往々にして「一生懸命」で「子どものために我が身を犠牲にしている」母親に弱いものです。何としてでも、母親を助けてやりたいと情熱を燃やします。こうして、 母親の思惑にはまって、この症候群の犠牲者である子供を不必要に傷つけ、「共犯者」になってしまうのです。

 さらに、代行性ホラ吹き男爵症候群がメドーの個人的経験だけに基づいた疾患概念でないことは、その後、多くの症例が次から次へと報告されていることから明らかです。プラグネルが主張しているように、科学的条件の下での精密な研究をもとにした、適切な期間を設けた臨床試験が行われているもの以外は病気として認めないとすれば、かなりの疾患がこの世から消え去ることになります。プラグネルのいっていることは、かなり無茶なものです。

 プラグネル氏はどうやら特定の人物を擁護したいがために、病気捏造などというものは存在しないと主張しているようだ、とウィルソンは反論しています。クラークの逆転無罪判決が出る前のことですから、クラーク裁判を念頭に置いたコメントでしょう。プラグネル氏は両親を守りたいようだが、われわれは何よりも子どもを守りたいのだ、とウィルソンは書き加えました。

 しかし、プラグネルのような意見は、当時の英国における世論の一部を代表するものでした。そして、それが、ついには、英国の代表的医学雑誌にまで載るようになったのです。「代行性ホラ吹き男爵症候群という名のメドーの疑惑の理論」などと囃したてるメディアも出現しました。そして、サッチャー政権の副首相も務めた保守党大物政治家ハウ卿は、代行性ホラ吹き男爵症候群を「過去10年から15年の小児保健、社会事業の分野における、もっとも悪質で不当な理論」と貴族院議会でこきおろしました。

 ドキュメンタリー番組出演は拒否しましたが、メドーも黙っていたわけではありません。医学雑誌上で反論しました(Meadow R (2002) Personal paper: a case of murder and BMJ. Br Med J 324:41-3)。

 クラーク裁判では死んだ子どもにみられた顔の出血斑、舌小体裂傷、眼球後部の出血、肋骨骨折、肺出血、脊髄病変などさまざまな所見について控訴側、弁論側双方から、さまざまな医学鑑定証人による論が何日も交わされたことに、まず、かれは注意を促しました。そして、これに対し、問題となっている統計学的事項については、審理の初期のころ、数分、議論がなされたにすぎなかったと指摘しました。そのうえ、検察側、弁護側いずれの医学鑑定証人もクラーク家の子どもたちの死をSIDSとは考えていなかった点も強調しました。したがって、SIDSの再発率の議論は裁判の中では重要な位置をしめていなかったというのが、かれの主張の要点です(この点は、不思議なことですが、クラーク側の主張と同じです)。

 170ページにわたる判事の最終総括の中でも、統計についてはわずかに触れられているだけで、しかも、陪審員たちは統計数字を注意して取り扱うよう求められていたともメドーは指摘しました。

 第一回控訴審は、メドーが引用したSIDSの統計数字の判断材料としての限界について陪審員に説明することを怠たり、このために統計数字が不適切に扱われた可能性があることを指摘していますが、これについては、メドーも認めました。しかし、医学鑑定証人たちはもともとクラーク家の乳児2人の死がSIDSによるものだとは考えていなかったのだから、弁論側もこの統計数字についてほとんど反論しておらず、したがって、陪審員が統計数字に誤って導かれて評決に至ったとは考えられない、という控訴審のクラーク側上訴の却下理由もかれは強調しました。

 しかし、反論もむなしく、メディアの攻撃は続きました。

 そうした中で、ドキュメンタリーの中で触れられていた、髄液からのブドウ球菌検出という「新事実」をもとに、2003年、サリー・クラークの2回目の控訴審が開かれます。

 そして、ついに、判決が覆りました。

 ハリーが感染によって死亡した可能性がでてきたことで第2回控訴審はサリーの有罪判決が妥当性に欠けると判断したのです。

 ハリーの病理解剖の際、ウィリアムはハリーの顔面拭い液、胃組織、胃液、血液、肺組織、気管支、鼻咽頭拭い液、髄液を細菌培養検査にだしていました。そして、検査の結果、胃組織、胃液、肺、気管支、咽頭拭い液、髄液からブドウ球菌が検出されました。ところが、どういうわけか、ウィリアムはそのことを裁判の時、証拠として提出していませんでした。ウィリアムを除けば、検察側も弁護側も誰1人としてその事実を知らなかったのです。

 ブドウ球菌はどこにでも存在する、ありふれた常在菌で、それが体表などから検出されても、これが死因につながるわけではありません。しかし、髄液からのブドウ球菌検出となると話は別です。髄液は脳や脊髄を潤している体液で、通常は外界から隔絶されています。完全な無菌状態にあるので、普通、髄液からブドウ球菌のような細菌は検出されないはずなのです。

 髄液からのブドウ球菌検出というと、一般的には、細菌性髄膜炎が疑われます。しかし、ハリーは、突然死の直前まで全く健康だったようですから、髄膜炎の症状はなかったはずです。一回だけ嘔吐したこともあったようですが、発熱や低体温などもみられず、死の直前も、何事もなくミルクを飲んでいます。一般的な医学常識からは細菌性髄膜炎による突然死はありえません。

 髄膜炎の有無を確認するもう一つの方法として髄液白血球数の算出があります。細菌が髄液に侵入してくると生体はそれを食い止めるために白血球で応戦します。このため、髄液内の白血球の数が増加します。ハリーの髄液には1マイクロリッターあたり80個の多核球(白血球の一種)がみられていたようです。これは微妙な数です。たしかに、正常値より高く、何らかの炎症が髄膜とそれを蔽う中枢神経にあったことが一応は疑われます。しかし、通常の細菌性髄膜炎にみられる白血球の数としては低値です。細菌性髄膜炎の時は、髄液1マイクロリッターあたりの多核球数は数百以上が普通で、ときには1万以上ということもあります。

 細菌性髄膜炎では髄膜のタンパク量が増加し、グルコース量が低下するのですが、こうした異常所見も、ハリーの髄液にはみられていました。しかし、死後、髄液のグルコース量は低下することが知られているのでグルコース量に関しては髄膜炎を示唆する決定的な証拠とはいえません(ついでながら、クリストファーの病理解剖では、培養検査は血液、尿、鼻腔、咽頭粘液で行われただけで髄液では行われていません。そして、鼻咽頭からはブドウ球菌が検出されましたが、血液、尿からは細菌は何も検出されていません)。

 以上の所見を重ね合わせて全体としてみると、ハリーが髄膜炎に罹患して死亡した可能性は少ないと考えていいと思います。

 しかし、髄液からブドウ球菌が検出されたという事実は残ります。

 従来、死後の髄液から検出される細菌が死因と関連しているかどうかについては議論が分かれていました。手術と違って無菌的操作がなされていない病理解剖時に採取されるため、どんなに注意しても間違って細菌が髄液に混入してしまう可能性があるからです。

 しかし、クラーク裁判が行われる少し前、1990年代半ばから、SIDS児の死後採取した血液や髄液から検出される細菌が、なんらかのかたちで死因に直結しているかもしれないという報告が散見されるようになっていました。厳格な操作で汚染されないようにして死後採取したSIDS児の髄液からもかなりの割合で細菌が培養されることが判明したからです。しかし、小児の病理を専門とせず、しかも、当時、引退間際だった病理学者ウィリアムは、もしかしたら、そうした情報に疎かったのかもしれません。また、ハリーの病理解剖における培養検査を担当した細菌学者からも「死後これほど多くの組織からブドウ球菌が検出されるのは汚染によるものだとしてもあまり例のないことであるが、この微生物が児の死に関与したとは思われない」というコメントがかえってきていました。ウィリアムは髄液からのブドウ球菌検出を病理解剖時の混入と考えて無視してしまったのかもしれません。

 最初の裁判の時、ウィリアムは「ハリーから死後採取された検体は薬物検査に提出し、さらに、ウィルス検査に回した」と証言しています。細菌培養検査についてはなにも触れておらず、その意味では「偽証」ではありません。クラーク側も、逆転判決時の判事も、彼が意図的に培養検査結果を隠蔽した可能性は低いと認めています。第2控訴審で逆転判決が出る直前の2002年9月、ウィリアムは次のようにコメントしています。「死因に関連していなければ病理解剖以外の結果に言及することは病理学者としての私の業務ではない。検体は他の専門家に照会されているからだ」

 しかし、第2控訴審の判決はこの発言を「自分が軽視しうるとみなしたものを自分以外の人間が知る必要などない」といっているようなものだと指摘しています。そして、このことよって誤審をまねいたわけで、とうてい容認できないと非難しています。

 クラーク裁判後、SIDS児の病理解剖時に検出されるブドウ球菌と突然死の関連を示唆する報告が次々となされています。

 たとえば2008年のランセット誌に掲載された「感染と予期せざる乳児突然死」という論文は、乳児の予期せざる死亡例Sudden Unexpected Death in Infancy(SUDI)470例の病理解剖と検査所見を比較検討し、感染が死亡原因ではないと考えられていた乳児の体内からもブドウ球菌が相当の割合で検出されたと報告しています(Weber MA, et al (2008) Infection and sudden unexpected death in infancy: a systemic retrospective case review. Lancet 371:1848-53)。とくに、病理解剖によっても死因が判明しなかった群においてブドウ球菌が高率に検出されており、ブドウ球菌が乳児における原因不明の突然死と何らかの形で関与しているかもしれないと論文は指摘しています。

 さらに、死後、SIDSの児の11%で髄液、血液などの体液からブドウ球菌が検出されたのに対し、事故で死亡した児からはまったく検出されなかったという報告も2009年になされています(Goldwater PN (2009) Sterile site infection at autopsy in sudden unexpected deaths in infancy. Arch Dis Child 94:303-7)。生前、ブドウ球菌が検出されたSIDS児には感染徴候、炎症反応がなかったことから、ブドウ球菌が産生する毒素によるショックが死因として推定されています。さらに、細菌感染にたいして生体が過剰反応を示し、抗炎症物質(サイトカイン)が爆発的に産生されるサイトカインの嵐と呼ばれる現象が死を招いた可能性も指摘されています。実際、抗炎症物質産生を制御する遺伝子の遺伝子多形がSIDSをおこす児では多いことが知られているのです。

 ただし、これらの事実は2度目の控訴審の時点ではまだ知られていませんでした。ですから、ハリーの死因を単純に髄膜炎だとは決めつけられないという意見の医学鑑定証人が当然いました。しかし、ある医学鑑定証人は「ブドウ球菌毒素が何らかの未知の機序によって突然死をもたらしたかもしれないという仮説は興味深い。今後さらなる究明が必要であろう」とコメントしています。

 このように、死に至った機序を完全に説明することはできないものの、ハリーがブドウ球菌感染で突然死した可能性がでてきたため、第2控訴審は、サリーがハリーを(そして、クリストファーを)殺害した可能性はきわめて低いと判断、逆転判決を下しました。

 第2回控訴審はさらに、メドーの「誤れる統計数字」についても言及しました。

 判決はまず、この統計数字が証拠として陪審員に提示されたこと自体に疑問を呈しました。陪審員は乳児2人の死のそれぞれについて個々に評決を下すことを求められていたのに、「7300万出生に1」という数字のせいで、2つの死を一つの事象と考えざるを得なくなった点が問題として指摘されました。さらに、もともと、陪審員はいずれの死もSIDSによるものではないと説明を受けていたのに、SIDSの発生率を陪審員に提示したことも不適切だったというコメントがなされました。少なくとも、陪審員が評決を決定しようとしている最終弁論時に言及すべき証拠ではなかったというのです。そして、この数字が陪審員の評決にどれほどの影響を与えたかは不明としながらも、陪審員の考えに影響をおよぼした可能性は否定できない、と結論づけました。

 逆転判決後、サリーは声明を発表しました。

 「今日という日は勝利の日ではありません。勝利したと私たちは思っていません。どこにも勝者などいないのです。われわれは、全員、何ものかを失いました。ただただ、ようやく悪夢に終止符が打たれたことに私は胸をなでおろしています。やっと私たちは本来いるべき場所に戻ってきました。平和な環境の中で私たちの小さな坊やたちの死を悲しみ、私たちに起きたことの意味をじっくり考えるプライバシーが確保されたのです」

 ちなみに、サリーの有罪判決が覆ったのち、ラジオドキュメンタリーで触れられていたアンジェラ・カンニングスも2003年12月に逆転判決を勝ちとりました。

 しかし、クラーク夫妻とその支援者たちは逆転判決だけでは満足しませんでした。警察関係の元高官であったサリーの父親フランク・ロッカーが中心となって、英国の医師登録監視機関である医学総会議に、メドーの医師としての適性に疑問ありと告発したのです。メドー以外に、培養結果の報告を怠った病理学者のウィリアム、そして、SIDS研究、隠しビデオ診断で有名な例のサウスオールも訴えられました。サウスオールは、クラーク裁判でサリーの有罪が確定したのち、テレビのドキュメンタリーでクリストファーがロンドンのホテルで鼻血をだしていたことを知り、父親のステファンがクリストファーを窒息させようとしたのではないかと疑いました。そして、クラーク家の3番目の子どもをどのように保護するかの議論がなされている場で、間違った人間が有罪になってしまっていると証言したのです。この時期、サウスオールは国民健康保険機構から小児保護活動を禁止されていました。ある市民がサウスオールに職務上の不正行為があったと訴えていたためです。容疑はすぐに晴れましたが、それ以外にも彼に対する告発があり、結局、サウスオールは2年間、小児保護活動ができないことになっていました。それにもかかわらず、クラーク裁判に関する証言を行ったことが医学総会議の審問を受けることになった理由でした。

 2005年7月、医学総会議はメドー、サウスオール、ウィリアムいずれも小児虐待裁判において「職務上、重大な誤り」をおかしたと認定、サウスオールには小児保護活動の禁止を命じ、メドーに関しては診療ライセンスを剥奪するという処断を下しました。意図的にやったわけではないにしろ、ロイ卿は誤った統計学的数字を持ち出してクラーク裁判をおかしな方向に導いてしまった、というのがその理由でした。もっと軽い処置も考えうるが、裁判における医学鑑定証人への公衆の信頼を取り戻すことが重要であり、そのことも鑑みて診療ライセンス剥奪という重い処罰が決定された、という付帯説明がなされました。

 サリーの父親はこの決定を歓迎し「いまや、われわれは、地獄のような7年間を置き去りにし、家族一体となって前へ進むことができる」とコメントしました。しかし、サリーはアルコール依存症が悪化、2年後の2007年5月16日の朝、ベッドの中で死んでいるところを発見されました。

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反撃、そして、余波

 メドーは医学総会議の決定に何のコメントもだしませんでした。

 しかし、メドーの診療ライセンス剥奪の知らせは英国医学界を震撼させました。

 とくに、英国の小児科医にとって、この処断は衝撃的でした。メドーは国際的には代行性ホラ吹き男爵症候群の提唱者として有名ですが、英国では英国小児腎臓学会の立ち上げに参画し、英国の小児科学雑誌の編集長を務め、さらに、王立医師会から王立小児科医会を分離独立させることにも活躍した功労者として知られていました。小児科医たちはメドーの功績を高く評価、1994年に王立小児科医会が発足したときには、初代会長にメドーを選出しています。会長就任時、メドーは小児科医会を「小児科医の労働組合」にする気はないと言明しました。「子どもの利益を第1に考える」組織にしたいと考えていたのです。そのようなメドーを英国の多くの小児科医は信頼していました。それだけに、診療ライセンス剥奪という医学総会議による処断は小児科医のサークルに投げ込まれた爆弾のようなものでした。

 当時の英国小児科医会会長アラン・クラフト卿はこの決定を「悲しむべきもの」と評しました。「ロイ卿は長年にわたって小児科学の分野で際だった業績をあげ、その間、多くの子どもの命を救ってきたのは疑いのないところだ。審問では特定の裁判でロイ卿が提出した証拠にのみ焦点が当てられた。その点をわれわれはきちんとみておく必要がある。ロイ卿の業績はまるで顧みられていないのである」というのです。そして、医学鑑定証人の役割を早急に見直し、裁判における医学鑑定システムを改善し、その信頼性を取り戻す必要があるとつけ加えました。

 ある英国小児科医は、メドーがSIDSの発生頻度を拡大解釈したことはたしかだが、クラーク裁判でも、カニング裁判でも、SIDSの発生頻度だけを参考にして判決がくだされたわけではなく、嬰児殺しを疑わせる状況証拠があったからこそ有罪判決に至ったのだと指摘しました。「医学総会議の評決は深刻な影響を及ぼすであろう。これは自分ではなにも発言できない市民(乳児)をいかに保護するかという問題に直結することがらだ。捏造され、偽造された病気にかんする先駆的な研究でロイ卿が多くの子どもの命を救ってきたことは疑いのないところだ」

 こんどは、メドーが高等法院に医学総会議の評決の却下を求めて訴えました。

 そして、2006年10月、高等法院はメドーの訴えを認める裁定を下します。

 メドーはたしかに誤解を招く形で統計数字を陪審員に提示したかもしれない、しかし、そのことによって、職務上、重大な誤りをおかしたとはいえない、というのが裁定理由でした。メドー卿は誠意をもって裁判で証言しており、裁判をおかしな方向にもっていこうとする意図などなかったとも高等法院は指摘しました。さらに、虚偽証拠でない限り、医者などの鑑定証人が提出した証拠は、その内容がどのようなものであれ、懲戒免除されるべきである、との判断も下されました。高等法院判事の1人は、医学総会議が行ったメドーにたいする処断によって、小児科医が裁判に関与することを忌避するようになり、司法行政は打撃をうけた、とも指摘しています。そして、医学総会議が行ったような処罰を鑑定証人がおそれる必要のないことを明示しない限り、この憂慮すべき事態はいつまでも続くだろうと強調しました。そして、医学総会議のような監督機関への鑑定証人にかんする訴えは、当該裁判の判事からだされたときのみ受理されるべきであり、サリーの父親のような裁判の一方の当事者からの訴えをもとに評決することは禁じられるべきである、という判断が下されました。

 「小児虐待を疑った人間が仕返しされる恐怖を感ずることなく正直に意見を陳述できる環境下ではじめて子どもを虐待から護ることができるのである」とメドーは高等法院の決定を受け声明をだしました。「法廷において証拠を提出し、厳しい、不人気な意見を陳述しなければならない小児科医にとっても、すべての医者、看護師、教師などの専門職にとっても、これは重要な決定だ」

 ちなみに、サウスオールも2008年にはいって小児虐待防止業務への復帰を正式に許可されています(Dyer C (2008). Southall is allowed to return to child Protection work. BMJ 337:1811)。

 こうして、小児虐待にかんして先駆的な業績を残した二人の英国小児科医は、ともに、診療、社会活動への復帰を許可されました。

 しかし、クラーク裁判が英国における小児虐待の診療、研究に残した傷跡は小さくないものと推察されます。

 サリーは2番目の子どもが突然死する前、SIDSを経験した母親のためのプログラムによってカウンセリングを受けています。おそらくそれはサウスオールたちのような熱心な研究者の成果のもとに立案化された手厚いプログラムだったのでしょう。小児虐待についても、英国ではメドーやサウスオールたちによって輝かしい業績が積み上げられ、その結果として、小児虐待に対応する見事なシステムが作られました。しかし、その努力は自分たちに毒矢になって跳ね返ってきたのです。しばらくは、英国における小児虐待への取り組みは低調とならざるをえないかもしれません。

 そうした懸念は英国以外の国からも表明されています。

 米国のサンディエゴ小児病院のチャドウィックは医学総会議のメドーやサウスオールへの審問方法が公正さに欠けていたと指摘、評決の正当性を証拠だて証明することもせず、とにかく二人の医者を処罰しただけだと非難しています(Chadwick DL et al(2006) Meadow, Southall, and the General Medical Council of the United Kingdom. Pediatr 117:2247-51)。そして、メドーたちへの処罰の影響は国際的な広がりをみせているとも指摘しています。

 さらに、チャドウィック論文のコメントとして米国小児科学雑誌編集主幹のバーモント医科大学新生児科医ジェロルド・ルーシーは「英国における小児虐待専門家への虐待」という表題でエディター・ノートを書いています。

 「10年以上にわたって、わたしは英国におけるメドー教授やサウスオール教授をめぐる騒ぎを暗澹たる想いでみてきた。いずれの教授もあのようなひどい試練にさらされるべき理由はなかった。英国の医学制度、司法制度には何かとんでもない間違いがあるように思われる。それがこのような騒ぎにつながったのだ」

 たしかに、そのとおりでしょう。

 小児虐待裁判において、先駆者特有の勇み足がメドーにあったのは事実かもしれません。かれの擁護者でさえ、言い過ぎた面があった、と記しているぐらいですから。しかし、問題の発端となったクラーク裁判において、メドーは一証人に過ぎませんでした。たしかに、BBCのジョン・スウィーニーがいっているように、メドーは「嬰児殺し」裁判において他を圧して影響力の大きな医学鑑定証人だったかもしれません。「盗まれし無罪」のジョン・バットが指摘しているとおりです。20年以上、小児虐待裁判の証人としてたち続けた経歴、医学的業績、そして、魅力的な立ち居振る舞いと確信に満ちた発言、それらすべてが、陪審員のみならず、判事などにもインパクトを与えていたようです。しかし、言うまでもありませんが、判決を下すのは、メドーではありません。クラーク裁判おいて、重大な問題があったとしたら、それは1証人にではなく、ジェロルド・ルーシーのいうように、裁判運営のほうでしょう。他国の、しかも、陪審員制度というもとでの話ですから、よくわからないところもありますが、サリーの逮捕から、逆転判決までの経緯を概観すると、英国の司法制度の中でなんらかの齟齬が生じているようにもみえてしまいます。

 医学総会議が診療ライセンス剥奪という裁決を下した経緯もいまひとつよくわかりません。医学総会議は、医師登録台帳の管理・更新、医師不適格者への対応、高度医療、医療教育の推進を業務とする、日本でいえば厚生労働省の一部局に該当するような機関ですhttp://www.asahi-net.or.jp/~rp8i-fkm/profile.html。そのような公的機関が、メディアや政治家の発言に影響されたとしかみえない判断を下したわけです。それによって医師のみならず、患者側からの信頼も失う恐れがあることぐらいわかりそうなもので、この機関も、内部に何らかの機能不全を抱えているのかもしれません。

 しかし、振り返ってみると、混乱の一因は、医者が母親をつねに疑惑の目で見ているかのような印象を代行性ホラ吹き男爵症候群が与えたことにもあったのかもしれません。

 そして、そのことを窺わせるエピソードがクラーク裁判騒動の最中にみられています。

 メドーは一度離婚していますが、このとき別れた妻が、サリー・クラークが控訴審で無罪になった頃、マスコミに登場、メドーのことを「女嫌い」と評しています。そして、メドーは母親をみると代行性ホラ吹き男爵症候群しか考えられないのだとまで断言しました。こんな発言があからさまにメディアから発信されることに、当時の英国における「代行性ほらふき男爵症候群」の肩身の狭さが実感されます。純粋な医学的症候群が「女嫌い」「母親嫌い」を代弁する症候群とみられていたのです。

 しかし、代行性ホラ吹き男爵症候群の論文を発表する前、メドーは入院中の子どもに付き添う母親の実態調査を行っています。そして、母親たちにとって病院における子どもの付き添いが長期にわたる退屈で、不安で、しばしば恐怖を伴う不愉快な経験であることを「囚われの身の母親The Captive Mother」という表題で報告、学会から賞を授与されています。おそらく、この経験がのちに代行性ホラ吹き男爵症候群の母親たちの行動、心性に着目することにつながったのでしょうが、この事実は、病気の子どもの母親をメドーが若い頃から気遣っていたことを示唆しています。実際、「母親はつねに正しい、と人には教えているし、また、そのように教えるべきだと自分は信じている」とメドーが最初の記念碑的論文で記していることは、前にも引用したとおりです(ちなみに、クラーク裁判の予審の最中、昼休みにメドーは被告側の控え室におもむきサリーに「検事側証言をするなんてことは私もいやなんです、あなたも不愉快に思ってみえるでしょうね」と話しかけています。しかし、夫のスティーブ、出て行けといわんばかりの態度をみせてメドーを追い返してしまったようです)。

 しかし、一方で、クラーク裁判騒動の前、例の作話てんかんにかんする論文の中でかれは次のようにコメントしています。「「揺りかご死(乳児突然死症候群SIDS)」で死亡したとされていた子どもが、じつは、親によって殺されていたのだという報道がセンセーショナルになされている。このため、自分の赤ちゃんの予期せざる死に突然遭遇し、悲しみにくれる、ごくごく普通のお母さん方が2重の苦痛を味わうことになっている。しかし、だからといって、みずからの子どもを殺害する親が存在するという事実を押し隠しても、事態の解決にはならない。人類は、はるか昔から嬰児殺しを繰り返してきたのである。嬰児殺しが起こりうるという冷厳な事実をわれわれは受け止める必要がある」

 そして、メドーは次のようにも述懐しています。

 小児虐待は一般の人々にとってきわめて不愉快な話題だ。そして、その話題を伝える人間は狙い撃ちされる傾向がある。小児虐待について書き、しゃべり、事実を指摘するわれわれは、不人気なメッセンジャーとならざるをえないのである」

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ほら吹き男爵の息子ポーレ

 クラーク裁判でマスコミの集中砲火を浴び、診療ライセンスを剥奪された頃、メドーはすでに70をすぎ、診療の一線を退いていました。そんな老メドーからわざわざ診療ライセンスを剥奪したことも、医学総会議に対する小児科医たちの怒りを煽りたてました。

 ところが、代行性ホラ吹き男爵症候群の関係者で、70を過ぎてから「母親」が関連する裁判に巻き込まれ、苦難の年月を耐えねばならなかった人物が、もう1人います。

 ミュンヒハウゼン男爵です。

 代行性ホラ吹き男爵症候群ですが、じつは、一時期、ポーレ症候群Polle syndromeという名前で呼ばれたことがあります。名付け親はブルマン、スティーブンスという二人の小児科医です(Burman D, Stevens D (1977) A Munchausen family. Lancet 2:456)。ポーレとはミュンヒハウゼン男爵と二番目の妻との間に生まれ、一歳で死亡したとされる息子の名前です。幼くして息をひきとったこの男の子にちなんで、代行性ホラ吹き男爵症候群の犠牲者を、短命のうちに死んでいく意味合いも含ませて、ポーレ症候群と呼んではどうかとこの二人の小児科医は提案したのです。実際、その後、代行性ホラ吹き男爵症候群の症例がポーレ症候群というタイトルで幾つか書かれています。

 しかし、このポーレ症候群という名称に異議を唱えた人物がいます。

 メドーです。

 かれはポーレという息子の実在を疑い、わざわざドイツのハーメルンに近いミュンヒハウゼン男爵の生地ボーデンヴェルダーに赴きました(Meadow R. Lennert T. (1984) Munchausen by proxy or Polle syndrome:Which term is correct? Peditr 74:554-6)。そして、ベルリン自由大学の小児科医レンネルトとともに、現在も議会事務所として使われている男爵の生家を訪れ、教区資料に当たり、ミュンヒハウゼン男爵の家族について丹念に調べました。そして、ポーレという名の息子がミュンヒハウゼン男爵にはいなかったことを突きとめます。

 ミュンヒハウゼン男爵と最初の妻との間には子供はいませんでした。しかし、この最初の結婚は男爵にとって満ち足りたものだったにちがいありません。社交的で話し好きなかれが催した晩餐会が「ほら吹き男爵物語」の契機となったわけで、その晩餐をもり立てた妻は良妻だったはずです。

 この最初の妻は、男爵が70歳の時、亡くなります。

 その4年後、74歳になったかれは60近く歳の離れたベルンハルディーネ・フォン・ブルン、通称、ベーネルという名の17歳の少女と結婚します。新井皓士氏の名解説によれば「狩猟と座談という、まず比較的堅実な道楽しか知らなかったらしい男爵が、70歳をすぎて妻を亡くすや、突如老いらくの恋に陥ったのです、50以上も年下の小娘と。それはゲーテのような大詩人なら似たような体験をしても芸術的に昇華結実させたことでしょうが、財産があって血の気も多い74歳のミュンヒハウゼン男爵、恋が実ってか、手管にかかってか、とうとう結婚までいってしまった」ということになります。

 しかし、この2度目の結婚は男爵にとって大失敗でした。この幼妻は結婚前から尻軽女と評判で、結婚後も、その行状は改まりませんでした。結婚した年の夏、ベーネルは体調不良を訴え、近くの温泉地に保養にでかけます。ところが、この保養地で彼女は休息をとるどころか、ダンスに明け暮れ、若い男をとっかえひっかえし、遊び回ります。そして、保養にでかけた9か月後、女児を産み落とし、マリアと名づけます。

 マリアは自分の娘ではない、と男爵は認知を拒否しました。そして、この不幸な女の子は生後10か月、痙攣で死んでしまいます。その後数年、男爵は離婚手続きと離婚手当を巡る法廷闘争で惨めな晩年を過ごします。そして、77歳の時、困窮のうちに息をひきとります。ミュンヒハウゼン男爵の晩年には、あらゆる困難を奇想天外な行動で解決していく「ほら吹き男爵」の面影は残念ながらみられません。

 「男爵は子孫を残さず死亡した」と教区記録には記されている、とメドーたちは報告しています(ただし、結婚前、ロシアでロシア人女性との間に一子をもうけ、その家系がロシアに現存しているといわれています)。

 すると、ポーレとはいったい何ものなのでしょう。

 男爵の生地ボーデンヴェルダーから南西約20キロのところに、ポーレという魅惑的な小さな町があります。ここは男爵の幼妻ベーネルの故郷で、「娘」のマリアもここで洗礼を受けています。どうやら、この町の名前が何らかの形でミュンヒハウゼン男爵の「息子」ポーレへと結びついたようです。それを証明する証拠はありません。しかし、少なくともメドーたちはそのように推定して「ほらふき男爵」ゆかりの地の巡礼旅行を終えています。

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参考図書

  • てんかんとは何か
  • てんかんの治療
  • 抗てんかん薬の副作用
  • てんかんと似て非なるもの
  • 作話てんかん
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  • 「神聖病」について
  • 作話てんかん

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